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薔薇の棘

作者: 三浦舞美

私は幸せだ。


「ただーいま」

三歳になったばかりの娘は、大人にとっては何の変哲もない挨拶にも節をつけて楽しそうに言う。言葉を覚えたばかりなので、口から発せられるものに、誰かが応えてくれることが楽しくて仕方ないらしい。おかーえり、と私は同じ節をつけて言う。

「あ。まま、なにかはいってるよ」

「何?取ってちょうだい」

保育園から帰ってくると郵便受けをのぞき、中のものを取り出して渡すのが最近の娘のおしごとなのだ。小さな習慣だが、自宅に戻ってきたと実感し、安堵する瞬間でもある。今日郵便受けに入っていたのは近所にある住宅展示場の案内と、新装開店した宅配ピザ店のチラシ、それから純白の封筒だった。うちに大人は二人しかいないので、こんな綺麗な封筒が届くのは私か夫しかいない。心臓が大きく動いたような気がした。わざとゆっくりと宛先の住所を最後まで丁寧に声には出さずに読んだ。


 辻 八雲様


宛名は私。それは私宛に、あおいから届いた結婚式の招待状だった。


「まま、それ、きれい」

封筒を手にした瞬間から呼吸を止めていたようだ。息苦しさを覚えて、大きく吐き出してから娘に応えた。娘は封筒に貼られていた金色のシールが気になったようだ。鮮やかな模様があしらわれた切手も。子供は淡い色よりはっきりとした原色のほうが認識しやすく、好みやすいと聞いているが、娘も例にもれずはっきりした色が好きだ。

「ママの大事なやつだから。勝手に開けちゃだめだよ」

諭すように言うと、触らせてもらえなかった娘は明らかに不服そうな表情をしたけれど、手を洗うように促すとさっさと脱いだ靴下を持って洗面所に向かった。

すぐに招待状を開けようか迷ったけれど、今は娘がぐずる前に、朝から約束していたスパゲティを作り始めなければならない。きっとミートソースを服にこぼしてしまうから、白いTシャツは着替えさせよう。私は普段の私をやらなくてはいけない。

招待状は娘の手が届かないよう、食器棚の上に隠すように置いた。


「ただいま」

夫の「ただいま」は娘のように楽しげではない。外はまだ暖かいはずなのに、いつもどこか陰鬱な空気を持ち帰ってくる。

「おかえり」

疲れた?と聞こうと思ったが、朝から晩まで家族のために働いてくれているのだ。疲れているに決まっている。当たり前のことを尋ねて、機嫌を損ねては面倒だ。一瞬で考えて質問を回避し、苦笑いを浮かべるに留めた。

「ご飯すぐに食べられる?先にお風呂入ってきても」

いいよ。靴下を脱いでいるはずの夫のほうを振り向きながら言おうとした言葉は、ぶつかるように当たってきた唇に遮られて外に出ることができなかった。

あまりに急で目を開けたままだったので閉じたほうがよかったかな、今からでも閉じるべきかと考えていたら唇が離れた。心の準備もできていなかったはずなのに、離れる瞬間はなぜか名残おしく思った自分が不思議だ。帰宅したときは暗い表情だと思ったけれど、たいして気分が悪い訳ではないらしくわざと顎を引いて上目遣いをするようにこちらを見ている。

「ど、どうしたの?」

私よりも遥かに長いまつげに縁どられた目に見つめられるとにわかには動けなくなる。結婚するより前からずっとだ。一時期、夫はメデューサの子孫なんじゃないかと本気で考えたことがあるくらいに。

「別に。いやだった?」

「い、いやじゃないよ」

「そう。先にメシ食うわ。腹減った」

何事もなかったように脇をすり抜けてリビングに向かっていく後姿からは少しまだ暗い外の空気を感じさせた。

お互い二五歳の時に結婚して、四年が経つ。こうしてキスもするし、喧嘩はあまりしない、仲のいい夫婦だと思う。少しおしゃまになってきたけれど娘だって可愛い、私は夫を愛している。何かを変えたいなんて、少しも望んでいない。


 娘が絵本六冊を読み聞かせた末にようやく眠りに落ちたので静かにリビングの扉を開けると夫は缶ビールを飲んでいた。毎日仕事終わりに必ず一本飲む。小さいことに喜びを感じられるのは夫のいいところの一つだ。

 隣に腰かけてテレビのリモコンに手を伸ばそうとした時、テーブルの上に今日届いていた封筒が置いてあることに気付いた。娘が欲しがっていた金のシール。LEDの照明に照らされて鈍いオレンジの光を放っている。

「まだ開けてなかったの?」

「うん。ぐしゃぐしゃにされたら大変だから」

はさみどこだっけ、とわざと聞こえるように言いながら立ちあがり、きょろきょろと首を回した。娘が目当てのおもちゃを探す時いつもそうするように。今の言い方、別に変じゃなかったよね。背中に視線を感じたように思ったけれど、振り返って確認することはできなかった。

 結婚式は二か月後、ホテルではなくレスランを借り切ってのパーティー形式のようだ。招待状に同封されていた会場のリーフレットは緑の葉っぱの中に小さい金の薔薇が散りばめられていてセンスが良い。箔押しの部分を指の先で撫でてみると端の部分がわずかに持ち上がり、チクッと触れた。可愛らしい見た目に鋭い棘がある薔薇はあおいのようだ。

「八雲、なんか嬉しそうね」

隣に座った夫が缶ビール傾けながら横目にこちらを見て小さい声で言った。あなたも嬉しそうなのはどうしてと聞きたくなった。

「そう?嬉しそう?そう見える?」

そんなことないよ。だってはっきり言ってあおいの結婚なんかちっとも嬉しくないんだから。嬉しいのはあなたが笑ってくれるから。

「私、結婚してよかったなあ」

砂漠色をした木目調のテーブルに招待状を放り、腕を絡ませ鼻先を夫のパジャマの袖に押し付けると、なに、と言いながらも夫の大きな手が頭を撫でてくれた。


「八雲。今日どこで勉強する?」

「図書館。一緒に行く?」

「あとで行く。先に行ってて」

「うん。じゃ、前のとこにいるね」

大学の図書館の二階、書棚の陰に隠れる自習スペースがある。四人掛けの小さな自習机があり、元々は私の特等席だったそこにあおいの立ち入りを許可したのだ。

私たちはそれぞれ、来る就職試験に向けての参考書を広げ、問題を解いてはペンを走らせていた。

私は集中力がない方で、問題に行き詰ってしまうと周りを見たり、空き椅子に置いた自分の鞄の中を探ったりして、せわしなかった。そして時々、問題を真剣に解いているあおいを見ていた。

あおいはそんな私の動きにはほとんど目もくれず黙々と解き続けるので、職人タイプだよねと前に言ったことがある。職人になったら、八雲にも何か作ってあげるよとふざけてあおいは言ってくれた。でもそれは拘束力のある約束なんかではない。私が今でも一方的に覚えているだけの、浮かんでは消えるシャボン玉のような記憶。

あおいは猫背で、下を向くと落ちた前髪で顔がほとんど見えなくなる。けれど本人にしか聞こえない小さな声で問題文を読み上げたり、途中計算を呟いたりしているので、口のあたりがわずかに動いているのだ。前にここで勉強した時は隣り合わせに座っていて、あおいの横顔を盗み見ていた時に、その癖を知った。

図書館はエアコンを入れないので、夏には窓が開けられる。けれど全開には出来ず、私たちが掛ける自習机のそばの窓も半分も開いていない。風は入ってこないのに、外の音はその隙間からどんどん入り込んでそのまま私たちの耳まで届く。運動部の威勢のいい掛け声や響く楽器の音、プールに誰かが思い切り飛び込む音と話し声。こちら側は極力音を出さないようにしているので、音はより一層調子に乗って大きく響かせているかのようだ。

「ん?」

急に前髪の下からあおいの長いまつげと二重のまぶたが現れてこっちを見たからびっくりしてしまった。

「八雲、今なんか言った?」

「え、私今なんか言った?」

「こっちが聞いてんの」

あおいの目が細くなった。あおいの笑った顔を見たその瞬間、なぜか心臓がぎゅっと締め付けられたような気がして、私は心のシャッターをバシャバシャと切った。その時撮った写真はずっと私の胸の中にだけある。

「いや。言ってないと思うけど。もしかしたら無意識に声出ちゃってたらごめん」

「いや。話しかけられて無視しちゃったらごめんと思ったけど、違うんならいいや」

あおいがまたすぐ問題集に視線を戻そうとしたので

「こっちこそごめんね」

と謝った。あおいは目だけで気にするなと言って音のない世界へ戻っていく。集中力を調節できるスイッチがあって、それを自在に操作しているようだ。私はあおいが問題集に戻ってもしばらく落ちた前髪を見ていたけど、その下の目が再びこっちを向くことはなかった。

 

 先に布団に入っていた夫と娘は同じリズムで寝息をたてている。仰向けで寝ている娘に毛布をかけ、くしゃくしゃになった髪の毛と頬を撫でた。毎日触れていても、この触り心地は飽きることなく、私をいつでも天国に連れていってくれる。幸せは概念的なもので目には見えないけれど、この感触は幸せ以外のどんな言葉で表せるのか私は知らない。

 二人を起こさないように、しずかに隙間に滑り込むと左にいる夫と右にいる娘は同時にそれぞれ動き、寝返りをうって体勢を変えたあと、また規則的な寝息を吐き始めた。夫の柔らかい髪の毛に触れてみてもまったく起きる気配はない。温かな気持ちがこみあげ、思わず口元が緩む。その温かな気持ちのまま眠ってしまいたいのに、こういう時に限って眠りの世界のドアはなかなか開かれず、カーテンのたゆみを数えたり、あくびをする振りをしていた。

 豆電球だけがついた部屋のなかで目を開けていると、薔薇の棘がささったところがふと痛んだような気がした。鋭い棘に突き刺された傷はまるで私の心だ。棘は小さく、ささったのは一瞬なのに、思い出した時にその痛みがよみがえってくる。あおいの名前を呼ぶたびに、何度でも心が締め付けられるように。

 いつかこんな日が来ることは分かっていた。私が夫を選んで結婚したように、あおいも私じゃない誰かを選び、結婚して永遠に愛を誓うのだと。そのときにはあおいの選択を喜び、祝福できると思った。来年には私は三十歳になる。いい年だし、きっと、喜べる。涙も出なかった。


 好きだと伝えたことは一度もなかったけれど、それが伝わっているんじゃないかと思っていた。たった一度だけつないだ手が私と同じくらい熱くてまるで心臓を握っているみたいだったから。あの時、あおいも私のことを好きだったのかもしれないと、今では思うけど、それを確かめることはもう出来ない。あおいを想う気持ちはもうどこへもすすむことは出来ない。すすませてはいけないし、かと言って終わらせることも出来ないのだ。私はこの気持ちを捨てることも温めることも出来ず、ただ岩が波に侵食されていくように、忘れ去られた死体が白骨化していくようにゆっくりと死んでいくのを待つしかない。

 あおいに会いたい訳ではない。ただ何度も声には出さず名前を呼び続けるだけだ。何の答えも出ない。何も変わらない。分かってる。それでもただ呼んだ。あおい。あおい。固く目を閉じて体を丸めた時、

「まま、まだおきてるの?」

娘が体を起こし、寝ぼけ眼をこちらに向けている。ふらふらした動きは半分以上眠っている証だ。起きている時よりもずっと暖かい娘の体に手を伸ばし、引き寄せてぎゅっと抱きしめ、小さな後頭部に鼻をつけて眠った。明日の朝になったら、招待状の返事を出そう。

 

 翌日、夫が仕事に出たあとで、白い封筒から返信用のハガキを抜き出し、丁寧に欠席の返事を書いた。綺麗な切手が貼られたそのハガキはあとで通勤途中に出していけばいい。封筒に貼られていた金色のシールを端から破れないようにゆっくりと剥がし、娘に差し出すとどこにはろうかなあ、と言って自分のノートを取りに走っていった。テレビからは娘の好きな子供向け番組のオープニング曲が聞こえてくる。いつもの朝なのだ。

 封筒の中には招待状とレストランのリーフレット、駐車場の案内などが入っている。私はそれを大きなハサミで切り刻んでいった。ジャキジャキと音を鳴らしながら、綺麗な封筒はただのごみになっていく。まとめて切るのには少し力がいる。細い紙屑となったリーフレットの薔薇の棘は力なく、ごみ箱の中で笑っているように見えた。少し切るのに時間がかかってしまった。気付くと家を出なくてはいけない時間だ。保育園に行く前にごみを出していかなくてはいけない。慌ててごみ袋をまとめながら、まだシール貼りに興じている娘を呼んだ。

「彩織。行くよー」

寝室のほうからはーい、と娘の間延びした声が返ってきた。


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