ぞわぞわ
放課後の始まりを告げるチャイムが、校内に響き渡っていた。
窓から外に目をやると、部活のためにグラウンドへ出ていく生徒や、真っ直ぐ帰路に就く生徒の姿が目に留まる。
そんな放課後の風景をぼんやりと眺めながら、俺は舞に連れられて学校の職員室へ向かっていた。
理由は言わずもがな、今朝話題になった写真部への転部届を出すためだ。
舞が休み時間にもらってきたという転部届には既に必要事項を記入してあり、あとはそれを現在所属している部活――さやかは舞と手芸部に入っていたらしい――の顧問に提出して承諾を得るだけだった。
正直なところ、俺は一日蓮村さやかを演じ続けたためにへとへとになっていて、できることならさっさと帰宅してしまいたかったのだが、舞のあまりの押しの強さに断り切れず、こうしてずるずると付き合ってしまっているというわけだ。
聖女の職員室は、管理棟二階の南側にあった。聖女には全部で四つの棟があり、それぞれが管理棟、普通教室棟、特別教室棟、部室棟と呼ばれているらしい。
職員室のある管理棟には他にも事務室や保健室、生徒指導室、相談室、カウンセリングルームなどがあり、校舎は全体的に綺麗だった。
公立でどこか垢抜けず、校舎の築年数もかなりのものだろうと推定できた天高とは大違いだ。聖女も創立云十年であることは間違いないが、この様子だと定期的に校舎の改修改装が行われているのだろうと思えた。さすがは私立と言ったところか。内も外も白を基調とした校舎はあまりに眩しい。
「氷室先生? ああ、そう言えば、さっき印刷室に入っていくのを見たけれど」
と、職員室を訪ねた俺たちに教えてくれたのは、転部届に判を押してくれた手芸部顧問の先生だった。五十がらみの小柄な女の先生で、優しそうな印象の人だ。
転部届には元いた部活の顧問とこれから入る部活の顧問、双方のハンコが必要で、俺はいよいよ問題の氷室先生とやらと対面することになった。
印刷室は職員室のすぐ隣にあるということで、俺と舞は一度廊下へと引き返す。
「なんか、ずいぶんあっさりと許可してくれたね。もっと引き留められるかと思ったけど」
「あたしのときもそうだったよ。手芸部なんてほとんど帰宅部同然だし、部員がいようがいまいが関係ないって感じなんじゃないかな。部長すら真面目に活動してない部活だしね」
「そ、そっか……やっぱどこにでもあるよね、そういう部活……」
「だからうちらも手芸部選んだんじゃん? 中学のときもサボり部の美術部だったもんねー。でも、顧問の宍戸先生はちょっと好きだったな。若いし、結構イケメンだったよね」
あれで既婚者じゃなかったらなぁ、と残念そうに話す舞に、俺は曖昧な相槌と愛想笑いを返すことしかできなかった。
今日一日つるんでみて分かったことだが、舞は俗に言う〝恋愛脳〟というやつらしい。口を開けば出てくるのは男の話題ばかりで、やれこういう男と付き合いたいだの、やれ最近ろくな出会いがないだのと言っている。
「で、さやか。あんた本当に氷室先生のこと覚えてないわけね?」
「う、うん……案外、顔を見たらすぐに思い出せるかもしれないけど……」
「よし。じゃ、転部の件はあたしから先生に話してあげるから。さやかは転部届さえ出せばオッケーだかんね!」
何故か妙に張り切った口調で言って、舞はグッと右手の親指を立てた。
ああ、そうか。要はこいつ、その氷室とかいう先生と喋る口実が欲しいんだな。
とは言え俺も余計な口を利くとボロが出てしまいそうだから、これ幸いとばかりに頷いておく。
「失礼しまぁーす♪」
無駄に甘ったるい声を上げて、舞が『印刷室』と表示された引き戸を開けた。
その向こうには数台のコピー機が並ぶ空間が広がっていて、今も機械が稼動している音がする。
次いでふわっと室内から漂ってきたのは、嗅ぎ慣れた藁半紙の匂い。見れば奥にある作業台の上には大量のプリントが山積みにされていた。
そしてその作業台の前に立ち、淡々と裁断機を使っている人影がある。バツン、と軽快な音を立て、レバーのような形状のカッターを下ろしたその人物は、すらりと背の高い年若の男だ。
「あ、いたいた! 氷室先生ぇ~!」
ぎょっとするほどの猫撫で声を上げ、舞がその男に向かって手を振った。それに気づいてこちらを向いた彼こそが、件の〝氷室先生〟らしい。
が、舞がそこまで熱を上げる〝氷室先生〟は、今日一日話を聞いて俺が描いていたイメージとはだいぶ異なっていた。
なるほど、〝若くてイケメン〟という舞の証言は、まあ間違ってはいないような気がする。顔はそれなりに整っているように見えなくもないし、歳は三十前後といったところか。
けれども俺が衝撃を受けたのは、こちらを向いた氷室の眼光の鋭さだった。
それはまるで人間を警戒する野性動物みたいな眼差しで、しかも鋭角的な形の縁なし眼鏡が更にその印象を濃くしている。
ともすれば敵意さえ感じられるその人相から俺が受け取った第一印象は、〝なんか怖そう〟の一言に尽きた。
自然な茶色の髪は地毛っぽいけど、これでもっと髪色が明るければチンピラに見えなくもない。もっとも今はベージュ色の背広をきっちりと着こなしているので、辛うじて〝教師〟という印象も留めてはいるが。
「……一之瀬か。俺に何か用か?」
ここまで露骨に舞が愛想を振り撒いているにもかかわらず、口を開いた氷室はちらりとも笑わなかった。その口調に抑揚はなく、事務的に尋ねているといった印象が拭えない。
が、舞はめげなかった。というかそんなことなど一ミリも気にならないといった様子だった。
それどころか目下印刷室にいるのが氷室一人であることをこれ幸いと言わんばかりに、やけに腰をくねらせながら標的へと歩み寄っていく。
「あのぉ、実はぁ、同じクラスの蓮村さんが写真部に転部したいって言うんで連れてきましたぁ。転部届持ってきたんでぇ、氷室先生のハンコもらってもいいですかぁ?」
ああ、見える、俺には見えるぞ。舞が不必要なくらい大量に飛ばしまくっている赤いハートが。
なのに氷室の表情はやはり微動だにしない。それどころか、舞が自分を訪ねてきた理由が入り口に佇んだままの俺だと知るや、ギロリという効果音がお似合いな目つきでこちらを睨んでくる。
やべえ、怖え……!
「蓮村……そうか。入院していると聞いたが、無事に退院してきたんだな」
「そーなんですよぉ! もぉ、あたし蓮村さんのこと超心配だったんですけどぉ、すっかり元気になったみたいでぇ。でも、まだちょっと後遺症みたいのがあって不安だって言うからぁ、それなら一緒に転部しない? って誘ったんですぅ」
「後遺症?」
「はい。なんか階段から落ちたショックで記憶が飛んじゃったー的な? だからできるだけうちらが傍にいてあげた方がいいかなぁって」
「ふーん……記憶が、ね」
それは災難だったな、と声をかけてきた氷室の口調はほとんど他人事のようで、それでいて何か含みがあるように、俺には感じられた。
その違和感が何だったのかは気になったが、俺がそれを詮索する前に、こちらを向いた舞が手招きをして入室を促してくる。
「ほら、さやか! いつまでもそんなところに突っ立ってないで、早くハンコもらいなよ!」
「う、うん……」
正直なところ、氷室は俺の中で〝できれば近づきたくない人種〟カテゴリに登録されてしまったのだけれども、今回ばかりは逃げ出すわけにもいかず、俺はおずおずと近寄って転部届を差し出した。
氷室はそれを受け取ると、やはり顔色も変えずに紙面へと目を落とす。たぶん前の顧問が承諾済であることを確認してるんだろうけど、何だかそれ以外のことまで探られているような気がして落ち着かない。
「……事情は分かった。そういうことなら、これは俺が預かっておく。今日は部の活動日だったな」
「はい! 今日は文化祭に向けての話し合いをするって言ってましたぁ。もうみんな教室に集まってると思いますけどぉ、先生は参加しないんですかぁ?」
「俺は明日の小テストの準備があるから行けない。ミーティングなら部長と副部長に任せておけば問題ないだろう。分からないことがあればあいつらに訊け」
「はーい……」
お目当ての氷室が部活には参加しないと聞いて、舞は至極残念そうに口を尖らせた。
が、対する氷室はもはやそれに目もくれず、俺から受け取った転部届をスーツの内ポケットへ収い込むと、再び裁断機と向かい合う。
氷室が無心で裁断しているのは、どうやら世界史小テストの問題が載ったテスト用紙のようだった。それを覗き込んでも文句を言われないところを見ると、対象学年は俺たち一年生ではないらしい。
裁断待ちの小テストは未だ山積みの状態で、これは確かに時間がかかりそうだと俺たちは納得した。そこで俺はまだ氷室と喋りたそうにしている舞を促し、印刷室をあとにする。
それにしても、何であんな無愛想でつっけんどんな奴が〝聖女生の憧れの的〟なんだ?
どうしてもそれが納得できず、去り際にちらりと氷室を振り返ったところで、俺は思わず息が止まった。
ばちり、と火花が散りそうな勢いで、こちらを向いた氷室と目が合う。やつは俺が振り向く前からこちらを見ていた。
それに気づいた途端、吸い込んだ息がヒュッと不自然な音を立てる。見つめられた相手を射竦ませるような視線。
いきなりそんな視線に晒された俺は狼狽した。
何でこいつはそんな目で俺を見るんだ。それはまるで心臓を鷲掴みされたみたいに、俺の呼吸を妨げてくる。
「し、失礼しました」
一刻も早くその視線から逃れたい一心で、俺はそう声を絞り出した。
あとは夢中で印刷室の引き戸を閉め、ほうっと細く震える息を吐く。
「――ねっ、超イケメンだったでしょ?」
「……は?」
「氷室先生! はあ、やっぱいつ見てもかっこいいわぁ~」
ところが俄然、背後から緊張感の欠片もない声をかけられ、俺はつい間抜けな声を上げてしまった。
まるで見当違いなことを言いながらぽわんと夢心地な顔をしているのは、無論〝脳内お花畑系女子〟(言っておくがこれは俺が命名したのではなく、昼休みに依理子が言っていた)の一之瀬氏だ。
「どう? これでさやかも先生のこと思い出した?」
「え、えっと……実はあんまり……」
「マジ!? 何で思い出さないの!? あんなイケメン一回見たら死んでも忘れないでしょ!」
(うん、ごめんな。俺、ほんとに一回死んでるし、そもそもあいつとは初対面だからな)
「あ! でもよくよく考えたら、これで逆にさやかまで氷室先生好きになっちゃったら困るわ。ただでさえ氷室先生は競争率高くて大変なのに」
「う、うん……とりあえず、それは大丈夫かな……舞には悪いけど、あの先生、あんまり私の好みじゃないかも……」
「ほんと!? でも何で!?」
並んで印刷室の前を離れながら、舞はさも不思議だと言うように目を見張って尋ねてきた。
その口振りは地球上のすべての女が氷室に惚れて当然だとでも言いたげで、それが中身は男の俺にはちょっと複雑だったりする(ちくしょうイケメン爆発しろ)。
「う、うーん……何でって言われると困るんだけど、あの先生、何となく怖くない? 無愛想だし、目つきもキツいし……」
「もしかして、ざわざわした?」
「ざわざわ?」
「いや、ぞわぞわだっけ? とりあえずなんかそんな感じ」
「ごめん、意味が分からない」
「前にさやかが自分で言ったんじゃん。何でかよく分かんないけど、氷室先生に近づくと体がぞわぞわするから苦手だって。もしかしたら先生のこと忘れちゃって、それも少しは改善されるかなーと思ったんだけど、やっぱそこだけは変わんないんだね」
不思議だぁ、と考え込むように言いながら、舞は腕を組み小首を傾げていた。けれども俺はそんな舞の横顔を数瞬呆気に取られて眺め、次いで思わず沈黙する。
体がぞわぞわ……したかどうかは分かんねーけど、何となく本能的に、あの氷室とかいう先生を〝怖い〟と思ったことは間違いなかった。
ひょっとしたらこれが、絢子さんの言っていた〝肉体の記憶〟ってやつなんだろうか?
「人の記憶っていうものにはね、〝魂の記憶〟と〝肉体の記憶〟の二種類があるの。〝魂の記憶〟には内面的なもの、つまり感情とか思い出とか、その人間の本質、性格を形成する情報が蓄積される。もう一方の〝肉体の記憶〟は、文字どおり体が覚えたことの記憶ね。字の書き方とか道順とか、そういうもののこと。だからあなたの魂がその肉体に馴染めば馴染むほど、徐々に肉体の記憶が読み取れるようになるはずだわ」
絢子さんがそんな話をしてくれたのは、俺がクラスメイトの顔と名前を覚えるのに四苦八苦していたときのことで、肉体の記憶が読めるようになれば、自然とクラスメイトや学校関係者の名前を思い出せるはずだと言っていた。
初めはそんなことが本当に有り得るのかと疑問だったが、もしもさっき俺が氷室に感じた〝恐怖〟がそれだったなら、絢子さんの言葉も信憑性を帯びてくる。
〝怖い〟という感情は鳥肌を呼び起こしたり、動悸を早鐘にしたりするわけだから、その衝動を体が覚えていたとしても何ら不思議はないわけだ。
(けど〝体がぞわぞわする〟って、単にあいつが苦手だったってことか? 確かに俺もあいつと目が合ったとき、足が竦んでしばらく動けなかったけど……)
「――でね、それでしばらく写真部の活動は三の二でやることになったわけ。それでも椅子が足りなくてぎゅうぎゅうだから、座りたかったら早めに教室行かないとダメなんだよね。って言っても机は先輩たち優先だから、座れるかどうかは運次第って感じだけど」
「……え? ご、ごめん、何?」
「だーかーらー、今日のミーティングの話。先に依理子が教室行って席取っといてくれるって言ってたけど、あの子、既に先輩たちに睨まれてるからヤバいんだって。氷室先生追っかけて写真部に来た先輩たちのこと、あからさまに煙たがってるんだもん」
「そ、そうなの?」
「うん。だから早く三の二に行って依理子と合流しないと。今はあたしが先輩たちの機嫌取ってるからいいけど、あの子一人じゃ堂々と喧嘩売りかねないから」
ああ、あの絶対零度の言動で、依理子が先輩方の機嫌を損ねる様が目に浮かぶよ。確かにそういうところ物怖じしなさそうだよな、あいつ。むしろあんだけ冷淡な性格で、よくさやかや舞に見放されなかったもんだ。
そうして写真部の活動場所である三年二組へ向かう道すがら、俺は写真部の現状を舞の口から聞かされた。
その内容を要約すれば、現在写真部には四十名を超える部員が集まっているということ。その大半が氷室目当てに転部してきた二、三年生だということ。
その先輩方に逆らうとあとが怖いということ。写真部の部室は部室棟にあるが、今は部員が入りきらないので活動場所を移しているということ。写真部の活動は基本月曜と水曜の二日のみ、ということだ。
前半部分は今朝の時点で何となく予想はついていたものの、これから俺は噂に聞くドロッドロの女の世界へ飛び込んでいくことになるのかと思うと一気に胃が痛くなってきた。
正直俺は部活なんて興味ないし、天高でもほとんど帰宅部同然だったから、同じような部活であるという手芸部のままでも良かったのだ。それを何故安易に転部など決めてしまったのかと、今になって後悔の念が頭をもたげてくる。




