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こんにちは、私

「――う……ん……」


 キーン、と、思わず眉を顰めたくなるほどの耳鳴りがした。

 まるでそれが合図だったかのように俺の意識は覚醒し、ゆっくりと瞼を開ける。

 木造の天井が見えた。そこでようやく、俺は自分が今、仰向けに寝かされていることを知った。

 頭の後ろに感じる感触は枕だろうか。ふと目をやった体には、薄い綿毛布が一枚かけられている。


(あれ……俺、あれからどうなったんだっけ……?)


 寝起き直後でぼんやりと漂う意識を掻き集め、俺は二、三度瞬きをした。

 記憶にあるのは絢子あやこさんと二人で下りた不気味な階段。その先の納戸にあった黒い棺桶――もとい箱。

 俺はそこで新たな肉体を手に入れるための〝儀式〟を行った。そこまでは覚えている。

 その先の記憶が何もないのは、恐らく儀式の途中で気を失ってしまったからだろう。ということは絢子さんが俺をここまで運んでくれたのだろうか。

 周囲は明るく、あの暗く不気味だった地下室とはまったく別の場所だと一目で分かった。

 聞こえるのは蝉の声。そして、涼しげな風鈴の音だけだ。


 果たして儀式は成功したのだろうか。その答えは絢子さんを探して尋ねるまでもなかった。

 すっと目の前に翳した右手が、透けていない。ちゃんと色がある。

 霊体であるときはまるで感じなかった手を握る感触。何度も確かめる。

 嘘じゃない。成功した。

 ――俺、本当に生き返ったんだ!


 興奮のあまり跳び置き、俺は改めて自分の体を見下ろした。何故だか服装は一斤染いっこんぞめの着物だったけれども、これはやしきの雰囲気から言って絢子さんの趣味だろう。

 その着物も今はもうまったく透けていないことを確認し、俺は夢中で体に触れて自分に実体があることを確かめた。

 頭、肩、腕、胸、ふに。……〝ふに〟?

 そこで俺はふとやわらかな感触を掌に感じ、何事かと視線を下ろす。

 俺の両手が触れていたのは胸だった。

 いや、もっと正確に言えば、本来そこにあるはずのない小さな膨らみだった。

 ……あれ? なんかおかしくね?

 異変を感じた俺はそっと着物の衿を開き、中を覗き込んでみる。

 白くふっくらとした膨らみが右と左に一つずつ、確かにくっついている。


(……俺、初めて女子の胸に触った……)


 じゃなくて。


「――何だこりゃあああああ!?」


 ちりりりん、と鳴った風鈴の音を掻き消して、邸に絶叫が轟いた。

 それは間違いなく俺の上げた絶叫であったはずなのに、聞こえた声は紛れもなく女の声だ。

 その事実に更に驚き、ますます混乱し、俺は「は!?」とか「うぇ!?」とかとにかく言葉にならない声を連発しながらわたわたと慌てまくった。

 一体何がどうなってんだ。確かに口も体も俺が思ったとおりに動く。だけど本当に、本当にこれが俺なのか?

 ただそれだけが信じられず、俺は安心しろタケル、これはただの悪い夢だと言ってくれる相手を探してあたりをざっと見渡した。

 そこは広い畳敷きの一室で、目につくものと言えば部屋の隅に置かれた棚が一つと、真ん中にある大きな卓が一つだけ。

 しかし俺は、そこである重大な発見をする。――鏡だ。黒茶色をした古い戸棚の上に、縦長の楕円を描いた卓上鏡が置かれている。

 あれだ。あれしかない。俺の悪夢を打ち砕いてくれる唯一の光。


 縋るように畳へ手をつき、忙しなく這って戸棚へと近づいた。新しい体に入った直後ゆえの弊害か、あるいはあまりの驚きに腰が抜けたのか、立ち上がることはできなかった。理由は恐らく後者だと思う。

 それから俺は目の前にある鏡へと、微かに震える手を伸ばした。真実を確かめるのが怖い。けれどここでいつまでも震えているわけにはいかない。

 息を詰め、思い切って鏡を覗いた。

 映ったのは――俺であって、俺でない誰か。

 鎖骨の辺りまですとんと伸びた黒髪。小振りな鼻に薄桃色の唇。極めつけは見るからにやわらかそうな白い頬と、くりくりの目。

 女子である。

 紛うことなき女子である。


「な……何だよ、これ……一体何がどうなってんだよ!? 何で、何で俺が女に――!」

「――おいてめえ、さっきからうるせえぞ! 人んで大声出して騒ぐんじゃねえ!」

「えっ……! あ、す、すんませ……!」


 そのとき、俄然聞こえた若い男の怒鳴り声に、俺は驚いて振り向いた。

 この部屋にはさっきまで俺しかいなかったはず――そう思い視線を走らせた先に、やはり人影はない。が、代わりに何か小さなものが、俺の前にちょこんと鎮座している。

 それはつぶらな瞳をきらきらとさせた一匹の小型犬だった。

 毛足は白く長く、胴体の一部と尻、それに目の周りから耳にかけての毛だけが茶色い。尻尾はやけにふさふさで、耳も大きすぎるせいか若干垂れ気味だった。

 こんな犬、つい最近テレビで見たことがある。犬種は確か――〝パピヨン〟。イタリア語だかフランス語だかで〝蝶〟という意味で、大きな耳がはねを広げた蝶々のように見えることからそう呼ばれるようになったらしい。


(って、今はんなことどうでもいいっての。それより、さっきの声の主は……?)


 あれほどきつく怒鳴られたのだ、まさか幻聴だったということはあるまい。俺は一向に姿の見えぬ怒声の主を探し、きょろきょろとあたりを見回した。

 すると、


「おい、どこ見てんだよ。一回目ェ合っただろうが。こっちはてめえがいきなり大声出しやがるから耳鳴りがひでえんだっつの。謝れよ」


 さっきと同じ声がした。

 何となくこっちの方から聞こえる気がする、と目をやった先には、やはり愛くるしい瞳で俺を見上げるパピヨンがいる。

 ……えーと、待てよ。これってつまり、そういうことか?

 いやいやいや、落ち着けタケル。やっぱお前は混乱してるんだ。

 だけど一応、念のため、確認のため……


「あ、あのー……もしかして今の声って、そちらのお犬様の……?」

「おうよ。他に誰がいるってんだ? オレの名前は伊狩翔いがりしょう。ここじゃてめえの先輩だ。これからうんと可愛がってやっからよ、よろしくなァ、新入りィ」


 まさかとは思ったけどほんとに犬だった……!!

 その感想はもはや驚きと言うより絶望に近かった。可愛らしい顔を歪め、片方の口の端を吊り上げて笑う目の前のパピヨンが、今の俺には地獄から現れた悪魔に見えた。

 ああ、あのトラックが俺の家を目がけて突っ込んできた瞬間から、どうやら俺は理解不能で滅茶苦茶な世界に飛び込んでしまったらしい。

 突如現れた喋る猫、言動すべてが胡散臭い占い師、いきなり叩き込まれた女の体、その次は可愛いくせに喋るとヤンキーみたいな小型犬ときたもんだ。


 こんなのはどう考えても俺が知ってる世界じゃない。だとしたらここがあの世なのか?

 だから俺には聞こえるはずのない動物の声が聞こえて、そこには魔女もいて、俺は生前犯したささやかな罪――たとえば学校に遅刻した理由を寝坊から腹痛に偽ったとか、子供の頃意味もなく蟻の巣を掘り返しては小さな住人たちを恐慌に陥れたとか――の罰として男の記憶を持ったまま女の体に入れられた。そう考えた方がまだしっくりくる。

 ああ、でもそれじゃあ俺が死んだ直後に見たあのリアリティ溢れる事故現場は一体何だったんだろうな。あれこそが夢だったと認めてしまうには、あまりにも鮮烈で強烈な。


「おい新入り、何一人で遠い目してんだ? 先輩が名乗ってやってんだからてめえも名乗れよ、気の利かねえやつだな」

「す、すんません……自分は、武海いさみタケルです……」

「ハッ、〝勇んで猛る〟のかよ、そりゃまたご大層なお名前だな。下手なDQNネームより面白えわ」

「本物のDQNに言われたくねーよ……」

「あ? てめえ、今何つった? 犬の聴覚ナメんなよコラ」

「ナメてません、すんません、ってかあなたは犬なんですか? 人なんですか?」

「人兼犬だ。そう言うてめえは男兼女、つまりオカマってわけだな、タケルちゃん」


 またしても口角を吊り上げた悪い顔でパピヨンは笑った。

 いや、だがちょっと待て。オカマと言われたことについては全力で抗議したいが、しかしこいつは今俺を〝男兼女〟と言った。

 それはつまり、こいつは知ってるってことじゃないのか? 俺が本当は男で、けれど何かの間違いで女の体に入ってしまったということを。


「おい、あんた、翔って言ったか。〝人兼犬〟ってことは、あんた、元は人間ってことじゃないのか? それが何で犬の体なんかに入ってる?」

「別に好きで入ってるわけじゃねーよ。ただ色々話すとめんどくせー事情があって、絢子が俺の魂をこの体に定着させたんだ。そんときゃ生憎、入れる体がコレしかなくてな」

「ってことは、やっぱりあんたも絢子さんの知り合いか。あの人は今どこにいる? まさかトンズラこいたりしてないよな?」

「あ? 何だよいきなり」

「何でこんなことになったのか、今すぐあの人に聞きたいんだよ! 俺は普通の高校生で、ついさっき不慮の事故で死んじまって、だけどあの人が人生をやり直させてやるって言うからお願いしますって頭下げたんだ。なのに何でこうなった? どう見ても女の体だろこれ! こんな馬鹿な話があるかよ! 何で俺がいきなり女にされなきゃならないんだ!?」

「そりゃ、事前に確認しなかったてめえの落ち度だろ。絢子は〝新しい器は男の体だ〟なんて一言も言わなかったはずだぜ? なのにそこを確かめなかったてめえが悪い」

「何だよそれ! そんなのほとんど詐欺じゃねーか!」

「詐欺じゃねーよ。てめえが勝手に勘違いしただけだ」

「んなもん詐欺師の言い分だ! 要は勘違いするように仕向けたってことだろ! こっちは本気で困ってたのに、人の弱みにつけ込みやがって! 悪質だ、訴えてやる!」

「おい、クソガキ」


 ときに、ただでさえ柄の悪かったパピヨン――中に入ってるやつは翔という名前らしい――の声が一段と低くなった。

 かと思えば翔は四つ脚で立ち上がり、牙を剥いて低く唸る。それは人としての声ではなく、犬の体が発している唸り声だ。


「てめえの願いを叶えてもらっといて、ちょっと結果が気に食わねえからってギャーギャー騒ぐんじゃねえよゆとりが。一遍死んだ人間が生き返れるってだけでも特例中の特例だってのに、この上女の体は嫌だの何だのと贅沢言いやがるのか? あ?」

「け、けど、俺は……」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞガキが! てめえ、自分の状況分かって言ってんのか? 男のくせに体は女なんて、こんなおいしいシチュエーションが他にあるかよ! オレだってな、本当はその体に入りたかったんだぞちくしょう!」

「は?」

「〝は?〟じゃねえよタコ! 自分がもし女になったら、あんなことやこんなこともし放題だろ?  何がどうなってんのかも確かめ放題だろ? こんなにうまいネタが他にあるかよ! だからオレが代わりにさやかになってやるってあれほど……!」

「――そのくらいにせい、翔。客人は困惑しておるのだ。これ以上わけの分からぬ御託を並べて混乱させるでない。まったく、おぬしをさやかの身代わりにせんで正解じゃったわい」


 突然、落ち着き払った男の声が聞こえた。それはひたすらに柄の悪い翔のそれとは正反対の、渋みのある老人の声だ。

 けれども俺は何か嫌な予感がして、翔に「は?」と聞き返した瞬間の顔のままぐるりとあたりを見渡した。

 やはりそこに人影はない。代わりに見えたのは縁側に腰を下ろした小さな背中。

 それはやけに毛がふさふさで、白と黒とに色が分かれていて、その上何故か人間じみた哀愁を背負っている。……ああ、もうこれ確定じゃねーか。


「何だよキヨじい。オレの何が不満なんだよ。オレだったらこんな世間知らずのガキよりずっと頭も回るし、分別だって弁えてんぜ?」

「ほう。先程のアレが、本当に分別を弁えとる者の発言か? そもそもわしは〝キヨじい〟ではない、〝喜与次きよじ〟じゃ。その呼び方はやめいと何度言えば分かる」

「いいじゃねえか、キヨじい。〝喜与次のじいさん〟略して〝キヨじい〟だよ。〝喜与次のじいさん〟だと長いんだよ」

「ならば普通に〝喜与次さん〟とでも呼ばんか」

「そう固いこと言うなよキヨじい。これが一番呼びやすいんだからいいだろキヨじい」

「まったく、おぬしというやつは……」


 もはやわざとしか思えない口振りで〝キヨじい〟を連発する翔に、縁側の毛玉が憮然と肩を落とすのが分かった。

 その反応からして俺の予想はほぼ当たっていると見ていいだろう。けれども俺はそんな現実を否定したい一心で、軒下にいる毛玉へ声をかける。


「あ、あの……もしかして、今の声も……?」

「――うむ。わしじゃ」


 違う、と答えてほしかった俺の期待を見事に打ち砕き、問題の毛玉が振り向いた。

 ああ、パピヨンだ。紛うことなきパピヨンだ。

 自らを喜与次と名乗ったしわがれ声のそのパピヨンは、翔とは違い耳と目の周りの毛皮が黒かった。おまけに人間で言うところの眉間には心なしか皺が寄っていて、可愛らしい顔つきがどこか老齢の貫禄を帯びてしまっている。


「おぬしの名は、確か武海タケルといったか。猛々しいのう。実に良い名じゃ」

「は、はあ、そりゃどうも……」

「わしは喜与次、矢間やざま喜与次じゃ。今でこそこのような姿をしておるが、そこの翔同様、元は人間での。おぬしをこの家まで導いたサリーもそうじゃ。ゆえにこうしておぬしとも会話することができておる」

「サリーって、あの猫もそうだったのか。じゃあ、あんたらの声が聞こえるのも、もしかしてテレパシーってやつ?」

「いかにも。とは言えすべての人間がわしらの声を聞けるわけではない。念が届くのはその肉体や魂に魔力を宿す者だけじゃ。世間にも馴染みのある言葉で言い換えるとすれば、〝霊感のある者〟とでも言えば良いかの」

「霊感……? けど俺幽霊なんか見たことないし、親戚にも霊感強い人なんていないぜ?」

「それでもわしらの声が聞こえるのは、その肉体が強い霊感を持っておるからじゃ。もっとも霊感というものは、本来どんな生き物にも備わっておるものでの。それを使えるか使えないかは、本人の資質による。……と、あまり小難しい話をしても、今は余計に混乱させてしまうだけじゃな」


 言って、喜与次さん――声の感じからしてかなり高齢っぽいから、この人は〝さん〟付けで呼ぼう――はまるで苦笑するように、つぶらな瞳をわずかに細めた。

 正直、次から次へと発生する想定外の事態についていくだけで精一杯の俺には、そんな喜与次さんの配慮が大変有り難かったりする。

 とにかく、今の俺が置かれた状況を簡単に整理するとすればこうだ。

 俺は本日午後十二時半頃、いきなり自宅へ突っ込んできたトラックに潰され死亡した。次に気がついたときには幽霊になっていて、サリーとかいう怪しい猫に絢子さんという怪しい占い師を紹介され、生き返りたいなら生き返らせてやると言われた。

 その結果がこれだ。俺は目覚めると何故か女子の体に入っていて、そこに喋る二匹のパピヨンが現れた。

 最後の要約だけでも想像を絶する事態であることはお分かりいただけるだろうか。

 これが夢なら一刻も早く覚めてほしいし、そうでないなら何がどうなってこうなったのか納得のいく説明を求めたい。


「おぬしの言いたいことは分かっておる。わしらは一体何者で、今、自分の身に何が起こっているのか。まずはそれが知りたいのじゃろう?」

「あ、ああ……ほんと、わけ分かんなくて吐きそうなんですけど……」

「無理もないな。しかし、こちらも何から話せば良いか……一度にすべて話したところで、わしらの事情はおぬしの理解の範疇を超えてしまうじゃろう。とりあえず言えることは、わしも翔もこのようなナリをしておるが決して怪しい者ではないということかの。ただ、とある事故で肉体を失い、縁あって絢子に助けられた。その肉体もまた然りじゃ」

「〝その肉体〟って……つまり、俺が今入ってるこの体のことだよな。やっぱりこれって人間の体なんだろ? 人形とかじゃなくて……」

「うむ。じゃがその肉体からは、持ち主の魂が抜けてしもうた。肉体が生きているにもかかわらず、魂だけがこの世から消えてしまったのじゃ。ゆえに絢子は代わりとなる魂を探しておった。魂の抜けた肉体は、たとえ無傷であっても緩やかに朽ちてしまうからの……」


 そう話した喜与次さんの口調は、何だか少しつらそうだった。それきり喜与次さんは目を瞑り、何か考え込むように黙り込んでしまう。

 俺はそんな喜与次さんの様子を不思議に思いながらも、ようやく一つだけ理解できたことがあった。

 それは俺の魂がこの肉体に入れた理由。儀式の前、絢子さんは死んだ肉体に魂を入れることはできないと言っていたのに、何故棺桶に入れられていた死体(?)に俺の魂が宿れたのか。それが素朴な疑問だった。

 けれども今の喜与次さんの話を信じるならば、この肉体は死体ではなくて生きていたのだ。肉体は生きているのに魂だけが抜けてしまう、なんてことが本当にあるのかという新たな疑問こそあれ、こうして俺の魂が宿れたということは、そういう事例も確かに存在するという裏づけになるのだろう。


 まったくとんでもない話だ。幽霊だとか魂だとか怪しげな儀式だとか、そんなもんはもっぱらフィクションの中の話だと思ってたのに。

 だけど自分が実際に幽霊となり、その〝怪しげな儀式〟を経て確かに――肉体の性別は別として――生まれ変わるという体験をしてしまった以上、それらすべてを空想の産物だと断言することは、俺にはできなくなってしまった。

 まずはそれを認めるところから始めなければ、恐らく話は進まない。たとえ心が、頭が、本能が、これは夢だという思いを拭い切れずにいるとしても。

 二匹のパピヨンに隠れてつねった腕は、確かに痛い。


「け、けどさ、それじゃあ何でその代わりの魂として選ばれたのが俺なんだよ? 普通に考えて、体が女なら魂だって女にした方がいいに決まってるだろ」

「バーカ。この天岡あまおか市周辺って限られた空間で、さやかくらいの年頃の女が死ぬ確率なんてそうそうねえだろ。そんなに都合良く女の魂が手に入んなら、最初っからてめえみてえなゆとり男子なんざ捕まえてくるかっての」

「ゆ、ゆとりで悪かったな! だいたい誰だよ、その〝さやか〟って!」

「はあ? んなもん、てめえが今入ってるその体の持ち主の名前に決まってんだろが。つーかそんなに代わりの魂が必要なら、オレがさやかに入ってやるって言ったんだけどよ、絢子もキヨじいもどうせ入れるならさやかと同年代の魂がいいとか言って無視しやがって……そんで連れてきたのがこんな頭の悪いガキとかねーわ、マジねーわ。しかも散々粘っといて結局野郎だしよぉ」


 さも遺憾と言いたげな顔で翔はうなだれたが、本当に遺憾なのは見ず知らずの相手(しかも犬)に初対面からここまでボロクソに言われなければならない俺の方だった。

 そもそも俺は、厳密に言えば騙された被害者だぞ。それが何で加害者の一味に好き放題言われなきゃならないんだ。俺だって新しい体が女だと事前に知らされていれば、安易に生き返りたいなんて言わなかった。

 そこを確かめなかった俺にも多少の非はあるとは言え、ここまでこてんぱんにディスられるいわれはないだろう。


「つーかさ、そっちの事情は何となく分かってきたけど、何でそこまでして代わりの魂を用意しなきゃならなかったわけ? そうまでしてさやかって娘を生き返らせたかったの? だとしても中に入ってるのが男じゃまったくの別人じゃん。男じゃなくても別人だけど」

「いや。わしらはさやかを甦らせたかったわけではない。ただ今しばらく、どうしてもその体が必要だったのじゃ。ことわりの崩壊を防ぐためにの」

「は? コトワリ?」

「この世がこの世として成り立つための法則。時の流れ。あの世とこの世の境界。そういうもののことじゃ。今さやかを失えば、今度こそその理が崩れてしまう。それがわしらの恐れる未来……そしてそれを止められるのは、今のところ絢子ただ一人だけじゃ」


 ……まずい。さっぱり意味が分からない。

 何だか急に話がぶっ飛んだような気がするのは、俺の理解力が乏しいせいなのだろうか。ここまではギリギリ話についてこれていた(ような気がする)のに、いきなり流れが壮大なファンタジーみたいになってきて思考が停止する。

 仮にその〝コトワリ〟ってのが時間の流れだとか世界の境界だとかいうものだったとして、それが〝崩れる〟ってどういうことだ? それが崩れたらどうなるんだ? そんなことが本当に有り得るのか?

 そもそも俺が今入っているこの体――名前は〝さやか〟というらしい――が〝コトワリ〟の崩壊を止めるために必要ってのも意味が分からない。さっき喜与次さんはこの体が強い霊感を持ってるって言ってたけど、それと何か関係があるのだろうか。


 ……ああ、駄目だ。考えれば考えるほど頭がこんがらがる。

 とりあえず分かったことは、このひとらと俺は住んでる世界がまったく違うってことだけだ。そんな異世界の話を延々とされたところで、今の俺にはまったく理解できる気がしない。

 ならば話を変えてしまおう。

 これ以上こんなわけの分からない話を聞いていたら、間違いなく頭が痛くなる。

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