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さよなら、俺

 怪しげな内装の占い部屋を抜けると、そこは和風邸宅だった。

 〝アヤコの店〟の奥、そこには『STAFF ONLY』と書かれた一枚のドアがあり、それを開けるとすぐ目の前に板張りの上がり口が見える。表の占い屋そのものがこの家の玄関、と言っても差し支えない構造だ。

 その先には家の奥へ真っ直ぐに続く廊下があり、仮漆にすの塗られた床板はぴかぴかに磨き上げられていた。

 両脇にそそり立つのは白い漆喰の壁。その途中に鶴と雲の透かし彫りがされた丸窓があり、風を入れるためかわずかに開いた障子の向こうには緑眩しい庭が見える。


 その、いかにも格式高い邸宅といった雰囲気に呑まれ、俺は図らずも踏み込むのをためらってしまった。

 が、一方の絢子あやこさんはそんな俺の様子など一顧だにせず、涼しい顔で式台を上がっていく。

 あれだけ堂々と入っていくということは、ここは絢子さんの家なんだろうか。だとしたらあの人は相当なお嬢様だぞ、と、俺はもう一度あたりを見渡した。

 邸宅としての風情はもちろん、広々として奥行きのある廊下はこの家がかなりの広さであることを窺わせる。玄関を上がってすぐのところには金箔を貼った蓮の衝立、その先には見るからに高そうな壺とそこに生けられた満開の花。

 更に突き当たりに見える漆塗りの戸棚には黒地に金の模様が入った扇が飾られ、隣には見事な龍の置物が並んでいた。

 どれを取っても、某鑑定団に出品したらかなりの値がつくのではないかと思わせるようなものばかり。それらすべてが絢子さんの財産ものだとしたら、この人は俺が思っていた以上にとんでもない人だ。


「ジリリリリ!」


 ところがそのとき、やしきの静謐を破って突如響き渡った騒音に、俺はびくりと跳び上がった。それが電話の呼び鈴だと気づくまでに必要以上の時間がかかる。

 どうやら廊下の左手に飾られた花に隠れて、すぐ隣に電話が置かれているみたいだった。今時の電話にしては妙に荒々しい音を立てるそれに、足を止めた絢子さんが振り向いてちょっと眉を寄せる。

 その反応から無視するつもりかとも思ったが、絢子さんはすぐに踵を返し、うるさく喚き散らす電話の受話器を取った。

 やはり花に隠れて本体は見えないが、何と大きくごつい受話器だろう。真っ黒なのは絢子さんの趣味だろうか、とこのとき思った平成生まれの俺は〝黒電話〟なるものを知らない。それが四十年も前に廃れた未知なる道具だと俺が知ることになるのは、もう少し先の話だ。


「はい、月宮です。……え? ああ、はい、そうです、私が店長の月宮です。……これからですか? 申し訳ありませんが本日はお休みを頂戴しております。……いえ、明日もちょっと無理ですね。というか当分無理なんです、明日からしばらく店を空ける予定でおりまして。……はい、はい、申し訳ございません。失礼致します」


 慣れた口調ですらすらと話し、絢子さんはほどなく受話器を置いた。ガチャン、とまるでコンビニのレジが開く瞬間のような、ベルにも似た音が聞こえてくる。


「仕事の電話ッスか?」

「ええ、そうよ。今から来たいって言うからお断りしたけど」

「明日からどっか行くんスか?」

「いいえ、別に?」

「え? じゃあ、何で今の電話……」

「だってめんどくさいじゃない」


 顔色一つ変えず、眉の一本も動かさず、さもそれが世間の常識だとでも言うように自称占い師はさらりと言った。

 めんどくさい……だと……? そんな理由で仕事を放棄するってのか? 世の中にはいくらめんどくさかろうと生きるために必死に汗水流して働いてる人たちがいるというのに、何とナメくさった発言をしやがるんだこの人は。

 そもそも占い師って儲かるのか? それともさっき言っていた副業とやらで稼いでるのか?

 何か特殊な仕事をしてるのは間違いないみたいだから、そっちで依頼主に法外な報酬を吹っかけてるとか……有り得る。出会ってものの数分だが、この人ならやりかねないという確信が俺にはある。

 黙っていれば見惚れるほどの美人だし、単純な男ならコロッと騙されてしまいそうだ。何という悪女。俺の中での絢子さんに対する評価は、本人の不遜な言動もあってみるみるうちに失墜していく。


「何よ、その顔は? それよりいつまでそんなところに突っ立ってるの? はぐれると迷子になるわよ。遅れずについてらっしゃい」


 どうやら全世界の勤勉な労働者の気持ちを代弁した俺の抗議はまるで伝わらなかったようだ。絢子さんは依然悪びれもせずにそう言うと、髪を優雅に靡かせながら身を翻す。

 本当にこの人についていって大丈夫なんだろうか。今更ながら再び頭をもたげてきた一抹の不安を抱きつつ、俺は絢子さんのあとを追った。

 今ならまだ逃げることもできるのだろうが、残念ながら先刻芽生えた〝生きたい〟という感情が俺を捕えて放してくれない。唯一、この自称占い師は怪しいと訴え続ける本能が必死にそれと戦っているものの、旗色が悪いのは明白だった。

 当然だろう。何せ心の底から〝生きたい〟と叫ぶそれもまた、俺の生き物としての本能なのだから。


「ここよ」


 やがて絢子さんが足を止めたのは、玄関から真っ直ぐ伸びた廊下を右へ曲がってすぐのことだった。

 そこには古めかしい納戸の扉があり、絢子さんは明らかにそれを示している。

 納戸には小さな南京錠がかかっていた。霊体である俺はそんなものお構いなしに擦り抜けられるが、ひとまず絢子さんを待つ。

 絢子さんはぱっくりと開いた黒のドレスの胸元から金色の鍵を取り出すと、それを使って手際良く錠を外した。……ん? この人、今なんかすごいところから鍵を出さなかったか?

 思わずそこにある谷間を凝視してしまった俺を余所に、絢子さんは再び元の場所へ鍵を戻すと扉を開けた。

 すると、驚いたことにその先には地下へと続く階段が伸びている。俺が勝手に納戸だと思っていたそれは、地下室への入り口だったらしい。


「暗いから足元に気を付けて……と、今のあなたには無用の心配だったわね」


 と、不意にこちらを振り向いた絢子さんに、俺は力なく苦笑を返した。確かに扉の先は暗い。通路の幅は狭く窓もないから、そこだけ空気が淀んでいるような感じだ。

 けれども今は壁さえ自由に擦り抜けられる俺が、暗さのあまり足を踏み外すのではないかなどと怯える必要がどこにあろう。絢子さんもすぐにそれを思い出したようで、笑いながら壁に掛けられていた一本の懐中電灯を抜いた。

 それは絢子さんの足元を照らすためのものだ。この人なら突然宙に浮いて移動を始めたところで、俺はまったく驚かないけど。


 地下へと続く階段は急だ。おまけにかなり古いのか、絢子さんが一段下りる度に軋みを上げる。

 あたりの暗さもあいまって、その音がやけに不気味だった。それはさながらお化け屋敷の空気にも似て、よもや幽霊でも出るのではあるまいなと、俺は自分のことを完全に棚に上げたままびくびくと進む。

 そうして辿り着いたのは、真の納戸の扉だった。

 そこには鍵の代わりに怪しげな御札が一枚貼られ、この上なく不気味な空気を引き立てるのに一役買っている。


 生唾があるのなら飲み込みたかった。そのとき、絢子さんが目の前の御札へすっと手を伸ばすのが見えた。

 瞬間、御札の上を這っていた文字とも紋様ともつかぬものの上を、微かな赤い光が流れていく。その光景に俺が目を疑った刹那、絢子さんが手をかけたわけでもないのに扉が開き、俺たちの前に道を開けた。

 そうか、絢子さんは手品師だったのか。目の前で起きた不可解な出来事を無理矢理納得するために、俺は大きく頷いてみせる。

 そうでもしなければ恐怖のあまり、その場から逃げ出してしまいそうだった。そんな俺を従えて、絢子さんは扉の先へと踏み込んでいく。

 納戸にしてはやけに広々とした空間だった。相変わらず暗いが、絢子さんがざっと照らした懐中電灯の明かりのお陰で、雑然と荷が置かれた十畳ほどの部屋だということが分かる。


「これよ。この中に、あなたの新しい身体うつわが入ってる」


 そう言って絢子さんが照らしたのは、納戸の最も手前に置かれた黒い箱だった。まるでロッカーのように縦長で、見ようによっては棺桶に見え……ないこともない。


「あ、あの……絢子さん? 一応確認なんスけど、この中にあるのって、ちゃんと人の形をしてるんですよね?」

「ええ、もちろんよ。これはあなたと同じ年頃の背格好をした器。あなたが望むなら、事故に遭う前のように高校へ通うこともできる。ただしさっきも言ったように、あくまで〝他人〟としてね。そのあたりの手続きなんかも、アフターケアとして私が受け持つから安心してくれていいわ」

「は、はあ……そッスか……」


 いつの間にか絢子さんに対する言葉遣いが敬語になっていたが、それに気づかない程度にはこの空気に呑まれていたし、何より俺は極度の緊張を覚えていた。

 ここまで来たからには、もうあとには引けない。俺は武海タケルという男の記憶を持ちながら、まったく別の人間として生まれ変わるのだ。

 それが一体どういうことなのか、実を言うと俺には上手く想像できていなかった。

 他人の体に自分の魂が入るというのはどんな感覚なのだろう。俺の意識は保たれるのだろうか。まったく違う顔の人間を、俺は俺だと認識できるのだろうか。

 様々な不安が去来する。それを見透かしたかのように、絢子さんが一際落ち着き払った声音で言う。


「もう一度確認するわ。あなたはこれから〝武海タケル〟という人間を辞め、新しい人生を歩み始めることになる。それは一度死ぬのと同じこと。けれどあなたが〝武海タケル〟だったという記憶は残り、それを口外することは許されない。――それでも、やるのね?」


 本当に、これが最後の確認なのだと思った。絢子さんの目は真剣で、まるで俺のすべてを見通すような、真っ直ぐな視線を投げかけてくる。

 けれども俺は、頷いた。もう一度人生をやり直したい。あのときそう思った気持ちに嘘は無い。

 ならば何を恐れることがある。今は〝勇猛に力強く進め〟と両親が与えてくれた〝タケル〟という名に恥じるような真似はしたくない。


「それじゃあ、儀式を始めましょう。それほど時間はかからないわ。目を閉じて、気持ちを楽にしてちょうだい」


 霊体になっても瞼はある。それをそっと下ろしてみると、視界には闇が広がった。

 人の魂って、どういう構造になってんだろう。俺がそんなことを考えている間にも、ガコリと硬い音がする。

 たぶん、あの箱の蓋が開く音だ。何となくそう思った。

 不意に闇が照らされる。

 瞼の向こうから現れた光が炸裂し、駆け抜けた白の濁流に、俺の意識は呆気なく呑み込まれていった。


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