光の魔女
線香から細く立ち上る煙を見つめ、目を閉じた。
手を合わせ、黙祷を捧げる。慰めるべき魂も既にこの世にはないと知りながら、それでも故人の冥福を祈らずにはいられない。
〝相澤家之墓〟。
目の前の墓石には、そう刻まれていた。
夏、あんなに賑やかだった蝉の声はもう聞こえない。代わりに色とりどりのコスモスが町を賑やかす季節だ。
黙祷を終え、ふと顔を上げて目を開けると、隣でまだ黙祷している絢子さんの姿が目に入った。
その足元では翔もサリーも喜与次さんも、未だ目を閉じて黙祷を捧げている。全員が綺麗に横に並び、前脚を揃えて行儀良く〝おすわり〟をしている様は、何だか少し微笑ましい。
「ここで最後ですね」
やがて絢子さんたちが黙祷を終えたのを見計らい、俺は蓮村さやかの声でそう言った。
こちらを振り向いた絢子さんが、ふっと笑って頷いてくる。
秋彼岸。
俺たちは今日、九月の連休を利用して、神羅を巡る一連の騒動で亡くなった人々の墓参りにやってきていた。
あちこちの寺を回り、すべての人の墓に花を供え、ようやくここ、相澤先輩のお墓でその旅も終わりとなる。
寺を巡るための車は、氷室が出してくれた。墓参りの行程には、喜与次さんや翔の墓も――ついでに言うと、何故か俺の墓も――含まれていて、それなら自分も同行すると、率先して車を出してくれたようだ。
「そろそろ行くか。和泉が待ってる」
その氷室が足元にあった水と柄杓入りのバケツを持って、俺たちを促した。墓参りが済んだら帰りは『Sophia』に寄るからと、事前に真人さんに伝えてあるのだ。
八月最後の日。あの夜、絢子さんと共に神羅と戦った俺は、生きていた。本当は死ぬつもりで俺の魂を使ってくれと言ったのだが、何故か生き残ってしまった。
絢子さんももちろん無事だ。ならばあの夜一体何が起こったのかと言われると、実は俺にもよく分からない。
ただ絢子さんの話によれば、絢子さんが俺の魂を使う前に、〝俺自身が自分の魂の力を放出した〟と言うのだ。
霊感や霊力といったものは、本来どんな生き物にも備わっている。かつて俺にそう話してくれたのは喜与次さんだった。そして、その力を使えるかどうかは本人の資質による、とも。
あれはつまり、絢子さんのように生まれつき強い霊力を持たない人間でも、素質があれば鍛錬次第でその力を引き出せる、という意味だったらしい。
もちろん俺はそんな鍛錬などまったく積んでいないわけだが、それでも魂に〝素質〟があったのだろうと絢子さんは言った。
つまり火事場の馬鹿力というやつだ。俺は絢子さんを助けたい一心で一時的にその力を解放し、絢子さんの力と自分の力を合わせて神羅の力を打ち破った。
事件のあと、絢子さんは俺ならゆくゆくは霊能師になれるかもしれないと話してくれたがそんなのは御免だ。あんな芸当、もう一度やれと言われてもできる気がしない。
何しろ神羅を倒したあと、力を使い果たして衰弱した俺は、応急措置としてさやかの体に戻されたが一週間ろくに起き上がることさえできなかった。あんなキツい体験は正直もうしたくない。
ともあれ智樹の体を乗っ取っていた神羅の魂は消滅し、俺たちは戦いに勝利した。
一時的に魂を抜かれた真人さんや智樹も無事だ。二人の魂は絢子さんの手によって元の体へと戻され、智樹については簡単な記憶処理を行ったとも絢子さんは言った。霊能師というのは本当に万能らしい。
「神羅の気持ちも分からなくはないわ」
と、相澤先輩の墓参りを済ませた帰り道、そう言ったのは絢子さんだった。
「人間にとって未知の力を持つ霊能師は、往々にして世の中に理解されず、迫害される。だから、そんな自分を理解し受け入れてくれる人と出会えることは最高の喜びだし、その相手を失ったときの悲しみも大きい。私もチエさんが亡くなったときは、世界にたった一人で取り残されてしまったような気がしたわ。だけど私は一人じゃなかった。真人さんがいたし、喜与次さんがいたし、サリーやさやかちゃんもいた。きっと恵まれていたのね」
寺の外へ抜ける道を歩きながら、絢子さんは言う。神羅には生まれて初めて自分を受け入れてくれた師以外に、理解者が誰もいなかったのだろうと小さく続けた。
それでも、と、絢子さんは言う。
「それでも、神羅のしたことを許すことはできないわ。彼はこの世界の在り方が悪いのだと言っていたけれどそうじゃない。神羅も師に出会ったときに気づけば良かったのよ。自分が不幸だったのは、世界が自分を閉め出したからじゃなく、自分が世界を閉め出していたからだとね」
だって世界は、こんなに開かれているんだもの。
まっすぐ前を見てそう告げた絢子さんの横顔が、俺には何だか眩しかった。
そうだ、世界は開かれている。だから俺はもう一度、蓮村さやかとして生きてみることにした。
答えを焦る必要はない、と思ったのだ。それよりも今は、きっともっと生きたかっただろうさやかや相澤先輩の分まで、全力で生きてみるべきなんじゃないかと思った。俺は、たとえ体は女でも、〝生まれ変わる〟という贅沢なチャンスを手に入れたのだから。
それから俺たちは墓地を抜け、白塀に囲まれた境内を出た。氷室の車は寺から少し離れた駐車場に停めてある。
寺のすぐ外は雑木林になっていて、塀と林に挟まれた細い道には砂利が敷かれていた。俺はその砂利道に出たところでふと立ち止まり、相澤先輩の墓がある方角を振り返る。
そうしながら、首から下げた大きなフィルムカメラに触れた。
先輩が聖女写真部に懸けた想いは、俺たちが引き継ぎます。その決意の証として持ってきたカメラだった。
もちろんそれは部から借りてきたもので、カメラの底には『聖繍女学院高校写真部』と印字されたシールが貼られている。
「武海、置いてくぞ」
「あ、は、はい!」
背後から呼ばれ、我に返った俺は振り向いた。そこには立ち止まった氷室とサリー、そして喜与次さんがいる。
絢子さんと翔は、と思って目をやると、二人は並んで先に行っていた。何やら話し込んでいるらしく、俺たちが遅れていることにも気づいていないようだ。
「何をぼんやりしとったんじゃ?」
「ん、ちょっとね。……ところでさ、サリー」
「何?」
「実はずっと気になってたんだけど、神羅を倒したあのとき、俺たちは智樹の中に入ってた神羅の魂を叩き出してそのまま滅却しただろ? そのときに、さ……俺の気のせいかもしれねーんだけど、神羅とは別の声が聞こえたような気がしたんだ。その、女の人の声で〝ありがとう〟って」
あの声は俺だけが聞いた幻聴だったのだろうか。それがどうしても気になって、確かめずにはいられなかった。
翔と喜与次さんには既に同じことを尋ねたが、二人には「そんなものは聞いていない」と首を振られてしまったのだ。絢子さんにも尋ねてみようかと思ったが、先に聞いた二人の返事がそれだったので、やはり気のせいだったのかと納得したつもりでいた。
だけどさっきの絢子さんの話を聞いて、もしや、とある推測が頭をもたげたのだ。
もしかしたらあれは、神羅が甦らせようとしていた〝恩師〟の声ではなかったのか?
だとしたらあの声の主は、開かれた世界を知ることなく狂ってしまった弟子の姿を見ていたということで。
本当は、それを誰かに止めてほしいと願っていたのではないか。だからあのとき、神羅の野望を食い止めた俺たちに〝ありがとう〟と囁いてみせたのではないか。
それはさすがに考えすぎか。そう思いながらも、俺はあの悲しそうな、寂しそうな、それでいて救われたような囁きを忘れることができなかった。
もしもその推測が当たっているとしたら、あの事件の結末はあまりにも悲しすぎる。神羅は本心から愛していたはずの人を苦しめ、相手もそんな神羅を救えぬまま、この世から消滅してしまったのだから。
「きっと、おおよそのことはあなたが考えているとおりでしょうね」
「!」
「だけど悲しむことはないわ。あたしはその声を聞いてはいないけど、もし本当に〝ありがとう〟と聞こえたのなら、少なくとも彼女は救われたのよ。きっと彼女はこれ以上、自らの弟子に苦しんでほしくはなかったのでしょう。心から〝生きたい〟と思えぬ自分が、再び生を手に入れることはできないと知っていたから」
――いくら優れた魔力を以てしても、〝生きたい〟と強く願っていない魂を肉体に宿すことはできない。
耳に蘇ったその声は、いつか聞いた絢子さんの言葉だった。
ああ、もしかしたら。神羅はそれを知っていたから、強い霊力を秘めた肉体を求めていたのだろうか。
生を望まない魂をも閉じ込めることができるほどの、霊力の檻。
そうまでしてあいつは愛されたかったのか。救われたかったのか。
「だけど、そんなことをしたって……誰も幸せになれないだろ」
「ええ、そうよ。そして神羅もどこかでそれを分かっていたのだと思う。だけど彼は止まれなかった。だから師は彼を止めてほしいと願っていた。あなたたちはそんな二人の苦しみに、最善の形で終止符を打ったのよ。だとしたら、何も悔やむことなんてない」
人の命を代償にしてまで紡がれる、偽りの生。一度自らの死を受け入れた人間に、そんな生を押しつけるのは酷だ。
神羅もそれを分かっていたのに止まれなかったのだとしたら、それは本当に悲しいことだと思った。
人が生きることと死ぬことは、こんなにも重い。自分の命の重さにさえ潰されてしまいそうだ。
けれどそのとき、俺の少し前を歩いていたサリーがふと足を止める。それにつられて俺も立ち止まれば、サリーはその場に腰を下ろし、前を向いたままで言う。
「ねえ、タケル」
「ん?」
「未来を変えてくれて、ありがとう」
「え?」
「あの晩あなたに救われたのは、あの二人だけじゃなかったってことよ。もしも絢子まで失ってしまったら、あたしもいつかは神羅のようになっていたかもしれない。それにね――あなたはあたしたちに新しい未来を見せてくれた。人の想いは運命だって変えられる。そんな未来を」
それが絢子にとってどんなに重大なことだったか、あなたに分かる?
そう言って、振り向いたサリーは悪戯っぽく笑った。
絢子さんが、決して変えられはしないと言っていた未来。その未来は姿を変えた。
だけど今の俺にとって、そんなのは大して驚くべきことじゃない。
だって、世界は――。
俺がそう答えようとしたそのとき、前方を歩いていた二人がようやく俺たちとの距離に気づいたようだった。
そこで一度立ち止まり、こちらを振り向いた翔が相変わらずの調子で吠え立ててくる。
「おい、てめえら何やってんだ! モタモタすんな、さっさと行くぞ!」
「分かってるよ、今行くって」
まったくこのメス犬が、と零れそうになった悪態を、俺はすんでのところで呑み込んだ。犬の聴覚はナメたら怖い。小さな愚痴を聞き咎められて、また不毛な口論へと発展するのはさすがに御免だ。
ところがそのとき、再び歩き出そうとしたところで、俺は、
「あ」
と足を止めた。
絢子さんと翔は、そんな俺には気づかずまたしても先へ行く。どうやらパソコンを買う買わないの交渉をしているようだ。翔はその性格に似合わず、最大の武器であるパピヨンの愛らしさを全開にして、何とか絢子さんを口説き落とそうとしていた。
そんな翔を見下ろして、日傘を差した絢子さんが笑っている。
今だ。
天の声、あるいは本能に導かれるがままに、俺は胸元のカメラを構えた。どうした、と尋ねる氷室の声も今は聞こえない。
無心でファインダーにその景色を収め、シャッターを切った。
カシャッという小気味の良い音が、その瞬間、世界を切り取った。
*
「――真人さん、いらっしゃい!」
聖女写真部三年の木更津翼がそう声を弾ませたのは、十月十九日の午後、聖花祭が最も盛り上がりを見せる時間のことだった。
そこは普通教室棟の一階にある三年二組の教室だ。余計な椅子や机が撤去された室内には純白のパネルがいくつも並び、写真部のこの一年の成果であるありとあらゆる写真が展示されている。
既に先客の姿がちらほらと見えるその教室で、真人はコートと同じ色のフェルトハットを静かに下ろした。
奥の席で店番をしていた翼は立ち上がり、跳ねるような足取りで真人へと駆け寄ってくる。
「やあ、木更津さん。思った以上の盛況ぶりで驚いたよ。あちこち寄り道していたら、約束していた時間より少し遅くなってしまったね」
「いえ、とんでもないです! お忙しい中、来ていただけただけでも感激です!」
「こちらこそ、お誘いいただいてありがとう。さやかちゃんたちはいないみたいだね」
「ええ。それが、ちょうど店番の交替の時間で、ついさっき遊びにいったところなんです。一之瀬あたりに連絡して呼び戻しましょうか?」
「いや、そこまでしてもらうことはないよ。きっと今頃はみんなで文化祭を楽しんでいるところだろうしね。それより……」
と、そこで顔を上げた真人があたりを見渡したのを見て、翼もすぐにその目的が分かったようだった。
彼女は赤らめた頬を少しだけ照れくさそうに掻くと、教室の奥、最も目立つ位置に置かれたパネル群を指して言う。
「あたしが撮らせてもらった写真はあそこです。ただ、真人さんには一つ、謝らなきゃならないことがあって……」
「謝らなきゃならないこと?」
「はい。せっかく何度もお店にお邪魔して撮影させてもらったのに、今年の大賞は他の写真に持っていかれそうなんですよ。一般公開前の午前中から、そっちにごっそり票を取られちゃって……」
「そんなにすごい写真があるのかい?」
「ええ、まあ。あたしも今回の写真はかなり自信あったんですけど、まさか蓮村に持っていかれるとは……あいつ、この間まで現像の〝げ〟の字も知らないド素人だったのに、一体どこであんな写真を撮ってきたんだか」
苦笑した翼の口から漏れた名に、真人は図らずも目を丸くした。
蓮村と言えば、つい二ヶ月ほど前に写真部へ入ったばかりのあの〝少年〟のことではないか。
この二年、聖花祭での大賞は翼の親友である岬麗奈が独占していると聞いていた真人は、大穴とも言うべき彼の名に驚きを隠せなかった。
試しに票数を尋ねてみれば、なるほど、他の作品とは既に圧倒的な差がついている。
「その、さやかちゃんの写真っていうのは?」
「こっちです」
気になって問い重ねてみると、翼はすぐにその写真のもとへ案内してくれた。
そうして問題の写真の前に立ったとき、真人は大きく目を見開き、しかしやがてその口元に穏やかな微笑を刻む。
「ああ、なるほど。確かにこれは大賞をあげたくなるね」
真人がそう言って見つめた写真には、真っ黒なドレスに真っ黒な日傘を差した女性の姿が写し出されていた。
その足元には一匹の小犬。まるで笑っているかのような愛くるしい表情を浮かべたその小犬は女性を見上げ、女性もまた小犬を見つめて優しげに微笑んでいる。
撮影された場所がどこかは分からないが、女性が歩く砂利道の右手には森があり、一人と一匹の頭上を緑の葉が覆っていた。
その枝葉の間から斜めに射した日の光が、まっすぐに女性へと降り注いでいる。
それはまるで、天が彼女の行く道を祝福しているかのような写真だった。
その写真のタイトルにはこうある。
『光の魔女』と。
(了)




