絶体絶命、からの
天岡第三児童公園。ようやく辿り着いたその公園の入り口には、簡素な作りの看板が立ち、確かにそう記されていた。
初めて通る道ばかりだったので少し迷ってしまったが、何とか目的地には到達できたようだ、と、それを見て俺は安堵する。
夏の夜の熱気と共にじっとりと額に張りついた汗を、俺は右手で軽く拭った。
公園を囲む茂みのあちこちから虫の鳴く声が聞こえる。ずいぶん待たせてしまったが、智樹は怒っていないだろうか。
夜の公園には人気がなく、周辺を走る道路も人通りは少なかった。あたりは住宅街なので民家の明かりはあるのだが、それにしてもちょっと静かすぎるな、と、俺は少しだけ心細いような気持ちになる。
すっかり日の暮れた町は暗かった。公園の四隅にはすらりと背の高い街灯が立っているものの、それもすべての闇を照らせているわけではない。
入り口から分かるのは滑り台やシーソー、ブランコ、鉄棒に回転ジムといった遊具がぽつぽつと奥の方に並んでいるということだけで、他には砂場と水道と、いくつかのベンチがある程度だった。俺はそのベンチが並ぶ方向に目を凝らしてみるが、そこに智樹らしき人影はない。
まさか待ちくたびれて帰ってしまったか、と思いながら、俺は急いで公園に駆け込んだ。ぐるりとあたりを見渡しながら、智樹君、と呼びかけようとしたところではたと止まる。
まるで大きな鳥籠のようにも見える、回転ジム。そのジムの中に誰かいた。
智樹かと思ったが、それにしては背丈がありすぎる。
だとしたら先客か、と慎重に目を凝らしたところで俺は固まった。
最も近い街灯の明かりが照らし出したその人は――真人さんだ。
「真人さん……!?」
どうしてこんなところに真人さんが。俺が驚いたのはそれだけではなかった。
真人さんは回転ジムの真ん中にある柱に背中を預けたまま、ぐったりとして呼びかけにも応じない。
明らかに様子がおかしかった。俺はその一瞬、自分がここへ来た目的も忘れて真人さんに駆け寄ろうとする。
「――動くな」
そのとき、ひたりと背後から突きつけられた一声に、俺はぎょっとして足を止めた。
振り向いた先には、智樹がいる。ついさっきまでは影も形も見当たらなかったのに、こいつはいつの間に俺の背後を取ったのか。
「と、智樹君? あ、えっと、遅れてごめん! だけどその、ほら、そこにいる人、私の知り合いで……何でこんなところにいるのか分からないんだけど、何だか様子が」
「その男は私が連れてきた。しかしそれは脱け殻だ。本体とも言うべき魂は、ここにある」
「え?」
何言ってんだよ、智樹。
そう聞き返す暇もなかった。
智樹が腰に引っ掛けたベルトポーチから取り出したのは、何の飾り気もない小瓶。
その小瓶の中に、黄色とオレンジの中間のような暖かい色の光が浮いている。
瞬間、俺は全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
この違和感。この既視感。
間違いない。
いや、しかし――。
「智樹……? まさか、お前……!」
信じたくない。その一心で、俺はその言葉を紡いだ。
――嫌だ。嘘だ。頭の中で繰り返すその言葉が思考を塗り潰し、俺は体中を震わせる。
しかし智樹はそんな俺を嘲笑うように、目を細めて小瓶の栓に手をかけた。
智樹がそれを抜いた瞬間、俺の頭の中には夕方聞いたばかりの――真人さんの声が響く。
『逃げるんだ、タケル君! この男は神羅だ、さやかちゃんの体を渡してはいけない!』
神羅。直接俺の脳に響いたその言葉が、再び俺を失意のどん底へと突き落とした。
まさか。そんな。どうして――どうしてよりにもよって智樹なんだよ?
せっかくまた会えたと思ったのに。もう一度やり直せると思ったのに。
夏苗ちゃんが、最近智樹の様子がおかしいと言っていたのはあの事故のせいなんかじゃなかったってのか?
全部――全部また、神羅のせいだったってのか?
『タケル君? 何をしているんだ、早く――』
「――逃げよう、などとは思うなよ。逆らえばこの男の魂を殺す。和泉真人を助けたければ、大人しく私の言うことに従え。貴様とてこれ以上、自分のために罪なき人間を死なせたくはないだろう?」
『神羅! お前は――』
「力なき者は黙っていろ。私が用があるのはその娘だけだ」
言って、智樹は――神羅は既に用済みだとでも言うように、真人さんの魂を再び小瓶の中へと押し込んだ。それでも真人さんは何事か叫んでいたが、神羅が瓶に栓をしてしまうと途端にその声は聞こえなくなる。
そうして俺の顔を見つめ、神羅は嗤った。
俺から既に抵抗の意思が消え失せていることを覚ったのだろう。そのままつかつかと歩み寄り、いきなり俺の手を掴むと、
「来い」
と言って乱暴に腕を引いてくる。
やがて神羅が俺を連れ込み、突き倒したのは、公園の奥にある灌木の中だった。
その間も神羅の手にはしっかりと真人さんの魂が入った小瓶が握られていて、俺がちょっとでも変な真似をすれば即座に握り潰してやるという無言の恫喝を伝えてくる。
「この間は無理に守護印を引き剥がそうとしてあの女に勘づかれたが、同じ愚は二度犯さぬ。やはり女子の体に憑依したのが間違いであった。守護印を破る法は、こうでなくてはな」
言って、神羅は倒れた俺の上に跨がると、ニィッと細く笑みながら俺の顎を掴んできた。
そのせいで俺は強制的に神羅の方を向くことになり、見たくもない変わり果てた親友の姿を直視する羽目になる。
「知っているか? 人の身に宿された守護印の破り方は二つある。一つはこの間のように、術を以て印を引き剥がす方法。そしてもう一つは――これは相手が女子ならばの話だが――その貞操を、奪うことだ」
ぞくり、と、嫌な悪寒が背筋を舐めた。それは自分の置かれた状況に対する恐怖によるものでもあったし、神羅が浮かべた醜悪な笑みに対する生理的嫌悪感によるものでもある。
つまり神羅は、これから俺を犯すと言っているのだった。
こんな事態になって初めて、俺は絢子さんが初日に言っていた忠告を思い出す。
〝あなたはただ、さやかちゃんの処女さえ守ってくれればそれでいい〟。
あれはタチの悪い冗談ではなくて、さやかの体に宿された守護印を守るためのものだったのだ。
「いずれ師の御身となる体だ。できることなら傷つけとうはなかったが、こうなっては仕方あるまい。これ以上この件に時はかけたくないのでな」
「ハ……あのさ、神羅。一応言っとくけど、お前が今から犯そうとしてる相手、男だぜ? お前にどんな野心があるのかは知らねーけど、それって一生の汚点じゃね?」
「確かに私に衆道の気はない。男を犯すなどまったくの不本意だ。しかし私は師のために、これまでどのような障害をも乗り越えてきた。ならばこれしきのこと、体は紛うことなき女子と思えば耐えられぬことではない」
ああ、一応こんなやつでもそういう〝恥じらい〟はあるんだな。半ば自棄になって笑いながら、俺は暗い空を仰いだ。
俺がこのままこいつにさやかの体を奪われたら、きっと絢子さんは怒るだろう。喜与次さんは悲しむだろう。
だけど、俺には無理だ。真人さんと智樹を天秤にかけることなんてできない。仮に真人さんを無事に助けられたところで、智樹はどうなる? 何かの拍子にまた、都合の悪くなった神羅が智樹まで殺してしまったら?
神羅の手が下半身を這う不快さをこらえながら、俺は涙が滲みそうになる目をぎゅっと閉ざした。
救えなかった相澤先輩の顔が目に浮かぶ。ああ、俺は何て無力なんだろう。
ここで神羅の言いなりになったところで、誰も救えやしないのに。
真人さんも智樹も絢子さんも、誰も救われないことは分かってるのに――
「――くたばれ、この変態呪術師!!」
そのとき、まるで品性の欠片もない雄叫びが、夜の公園に轟き渡った。
瞬間、はっとして目を開いた俺の視界に、茂みを突き破って現れた一匹のパピヨンが飛び込んでくる。
翔。俺が声にならない声でその名前を呼んだとき、威嚇の咆吼を上げた翔が牙を剥いて神羅に飛びかかった。不意を衝かれた神羅は左腕を噛まれ、悲鳴を上げて翔を振り払う。
けれども翔は怯まず着地し、全身の毛を逆立てて神羅を睨んだ。そうして低く喉を鳴らし、闘争本能を剥き出しにして吠え立てる。
「ようやく見つけたぜ、神羅! 人気ラノベ作家、刹那天翔を犯罪者にして殺しやがったクソ野郎め! そんなに抜きたきゃ、てめえのナニはオレ様の口に突っ込みな! 根元までガッチリ咥えて噛み切ってやっからよォ!!」
いや待てそれは神羅じゃなくて俺の親友のナニだ――そう突っ込む隙も与えず、怒り心頭の翔は再び神羅へと襲いかかった。
その二度目の跳躍が迷わず顔面を狙ってきたことで、神羅も避けざるを得なかったのだろう。辛くも翔の攻撃を躱し、下がりながらよろよろと立ち上がった神羅は、背後にあったクヌギの木にぶつかってようやく止まる。
刹那、体勢を立て直そうとした神羅の頭上から、突然黒い塊が降ってきた。それは真っ逆さまに落ちてきて神羅を急襲し、その右手から真人さんの魂入りの小瓶を叩き落とす。
鋭い爪で神羅の手を引っ掻き、短い悲鳴を上げさせたのは木の上から現れたサリーだった。
サリーはそのままくるりと器用に着地すると、あとは間髪入れずにこちらへ向けて駆けてくる。
そうして逃げるサリーの姿に、神羅が気を取られた一瞬の隙だった。にわかに駆け抜けた小さな影が神羅の足元に転がった小瓶を咥え、颯爽と掠め取っていく。
サリーとの鮮やかな連携プレーで真人さんの魂を救出したのは、言わずもがな喜与次さんだった。
そして、その喜与次さんが勝ち誇ったように真人さんの魂を届けた先――そこには黒衣をまとって佇んだ、絢子さんの姿がある。




