彼女の理由
「なーなー絢子、頼むよ。今の時代、やっぱパソコンくらいないとやってけねーって。安いノートパソコンでいいんだ。オレはワープロとネットさえ使えりゃそれでいいからさ」
家に帰ると、茶の間から珍しく甘えるような翔の声が聞こえた。俺がこの家に住み始めてから一週間、翔のこんな声を聞いたのはこれが初めてかもしれない。
八月三十一日、十九時三分。駅で舞たちと別れて帰宅した俺は、手土産を片手に茶の間へと続く襖を開けた。
その先には、障子を開け放った縁側の傍でくつろぐ絢子さんと翔、喜与次さん、そしてサリーの姿もある。
「只今帰りましたー」
「あら、タケル。おかえりなさい。どうだった、女の子たちとの3Pデートは?」
「妙な誤解を生みかねない卑猥な表現はやめていただけませんか。つーかそもそもデートじゃねーし。まあ、普通に楽しかったですけど」
帰宅して早々絢子さんから投げられた魔球を素早く躱し、俺は努めて淡々と答えた。この一週間の付き合いで、絢子さんのペースに乗せられることがいかに愚かかということを、俺もしっかりと学習している。
今日も今日とて黒のロングドレス――しかも今宵は蒸し暑いせいか露出度が高い――を見にまとった絢子さんは、片手で団扇を扇ぎながら、もう片方の手で一冊の本を開いていた。
それはどこかの書店のカバーがかけられた文庫本で、開かれているページの厚みから察するに、ちょうど半分くらいまで読み進めているらしい。
「それ、何読んでるんですか?」
「『もえもえ☆ぱにっく~幼馴染みと妹とロリとケモ耳娘の俺争奪戦がカオスすぎる~』よ」
「は?」
「ちなみにこれは第一巻。六月に出たばかりの最新刊まで、六冊全部揃えてあるわ」
言って、絢子さんがぺらりと剥がした書店の紙製カバーの下には、やたらと童顔で目の大きい美少女が、無駄に大きな胸をバーンと画面いっぱいに主張しているイラストが描かれていた。
その美少女の横にはたった今、絢子さんが閊えることなくすらすらと述べたタイトルがずらり。背景は真っ白。一見すると文庫サイズの漫画本に見えなくもないが、それにしてはあまりにも表紙の構図に芸がない。
「……絢子さん。それ、読んでて楽しいんですか?」
「楽しいかどうかを判断するために読み始めたのよ。あなたが神羅と遭遇した場合に備えて私は家を離れられないから、昼のうちに瞬を呼びつけて買ってきてもらったの。今やっと四人目のヒロイン、お稲荷様のヨーコが主人公・竜斗への想いを具現化させて、自らをケモ耳美少女へと擬人化させたところよ。ラノベで人間の作法を学び、『男はケモ耳と貧乳と全裸で落ちるのだろう』とドヤ顔で現れたあたりが胸熱ね」
「今すぐ先生に電話して謝罪なさい」
俺は意気揚々とその本の内容を語ってみせる絢子さんを全力で糾弾した。
もしも俺が氷室だったなら、そんな本を六冊も積み上げて書店のレジへ並んだ時点で死にたくなる。たとえそれが恩人である絢子さんからの頼みであったとしても、当分部屋に引き籠ったまま出てこられなくなる自信がある。
けれども絢子さんはそんな男心が分からないとでも言いたげに、「えー」と年甲斐もなく口を尖らせながらカバーを丁寧に戻した。
そもそも絢子さんは何故そんなものを突然読み始める気になったのか。その元凶は、意外なところから現れる。
「おいオカマ、てめえは少し黙ってろよ。絢子は今オレと大事な交渉をしてんだ」
「はあ? 何だよ、〝大事な交渉〟って」
「んなもん、オレのラノベ作家生命を懸けた交渉に決まってんだろ! オレが書いたこの『もえぱに』シリーズが面白ければ、絢子がパソコンを買ってくれっかもしれねーんだよ!」
「……え? それ、もしかしてお前が書いたの……?」
「何だ、その憐れみに満ちた顔は!? オレがラノベ作家でなんか悪ィのかよ!?」
「まあ、世間一般の認識では、あまり胸を張って誇れる職歴じゃないかもしれないわね」
と、ときに気のない口調で言ったのは、ふわあ、と大きなあくびをしながら畳に伏せたサリーだった。
同時にちりんと涼しげに鳴ったのは、サリーの尻尾の鈴だったのか、縁側に吊られた風鈴だったのか。俺は帰り道に『Sophia』で買ってきたケーキの箱を卓の上に置きながら、絢子さんの向かいへと腰を下ろす。
「だけど、そう言や俺もずっと気になってたんですよね。ほら、この家ってパソコンどころか、テレビも電子レンジもないじゃないですか。絢子さん、こんな家で暮らしてて不便に思ったりしないんですか?」
「私はこの家での暮らしが長いから、そんな風に感じたことは一度もないわね。むしろこれ以上電化製品を増やしてしまうと、かえってそちらの方が不自由になる。現代の利器が垂れ流す電磁波は、霊能師の能力を阻害しやすいのよ。私たちの業界では〝霊障〟って言うんだけどね。この家には外敵の侵入を阻む結界も紡いであるから、それが霊障によって揺らいでしまっては困るの」
「霊障、って……俺はてっきり、悪霊とかが引き起こす障害のことだと思ってたんですけど、違うんですか?」
「現代ではそういう意味に取り違えられてしまったようね。きっと漢字だけを見て誤解が広まったんでしょう。本来の意味は〝霊気に障る〟、だから〝霊障〟。あまり強い電磁波を浴び続けると、霊能師の中には自分の霊気――つまり魂の波長を狂わされて、体調を崩してしまう人もいるのよ」
淡々とした口振りで言いながら、絢子さんは目の前の本のページをぺらりとめくった。
そう言いつつも一応翔の交渉に耳を貸してやっているということは、絢子さんはパソコン一台くらいならまだ霊障には耐えられる、ということだろうか。
「あの……絢子さん」
「何?」
「これもずっと気になってたんスけど……絢子さんはどうして霊能師になったんですか?」
すっと本から外された絢子さんの目が、静かに俺を見つめてきた。その視線を受けた俺はやはり訊いてはいけないことだったかと思いつつ、首を竦めて絢子さんを見つめ返す。
俺が絢子さんの〝霊能師〟という肩書きを知ったのは本当にごく最近のことだが、絢子さんが人智を超えた特別な力を持っていることは初めて会ったあの日から分かっていた。
けれどもそれは俺の理解を遥かに超えた世界の話で、聞いたところで分からない――できることなら聞きたくない、関わりたくないと思わせるような力だった。
こんな漫画かゲームみたいな奇妙奇天烈な力を持った人間と関わったりしたら、きっとろくなことがない。その得体の知れない力に関わることで、自分にも何か危害が及ぶかもしれない。
だったら分かったふりをして、妥協をして、知らんぷりをしておこう。そんな思いが胸の奥底にあったことを、俺は完全に否定できない。
けれども神羅の力を知って、その無差別で理不尽な暴力に怒りを覚えて、俺はそんな神羅と戦う絢子さんの姿に初めて共感を抱いた。だから真実を知りたいと思った。
まったく身勝手な言い分だと言われればそのとおりだ。結局のところ俺が絢子さんに心を許したのはお互いの利害が一致したからで、そんな理由でもなければ他人と歩み寄れない人の性が、何だか無性に悲しかったりする。
「……そうね。何故なったのかと言われれば、世の霊能師のほとんどは〝ならざるを得なかったから〟と答えるでしょう。もちろん私もその一人。私には生まれつき人の未来を見てしまう力があって、自分でもその力を持て余していた」
言って、絢子さんは開いていた伊狩翔の遺作をぱたりと閉じた。今の問いには答えてもらえないかもしれない、と思っていた俺は、少し意外な思いで絢子さんを見つめる。
「当時は自分の意思に関係なく、偶発的に人の未来を見ることが多かったのよ。それも事故とか病気とか、そんなもので相手が怪我をしたり亡くなったりする未来ばかりだった。だから私は不幸な未来が迫っている人たちに警告を続けたの。この日この時この場所で、あなたはこういう事故に遭うから気をつけなさいとね。だけどいくら警告を重ねても、私の見た未来は変わらなかった。私がどう動いても、彼らを助けることはできなかった。そして悟ったのよ。私が一度見てしまった未来は、決して変えることができないのだと」
一度見てしまった未来は変えられない。絢子さんが遠い目をして告げたその言葉に、俺は聞き覚えがあった。
そうだ。ちょうど一週間前の今日、ここで突然女にされてしまったことを激しく抗議した俺に、絢子さんは同じ言葉を吐いた。
どこか開き直ったような――今にして思えば、諦めたような口調で。
「だけど私がその事実に気がついた頃にはもう手遅れだった。私の周りの人間は家族も含めて、私を〝不幸を呼ぶ子だ〟と気味悪がった。どんな未来が見えようと、変えられないのなら黙っていれば良かったのよ。それを馬鹿正直に告白し続けたから、周りの目には私が不幸を呼び寄せているように見えたのでしょうね」
「あ……だから、〝厄呼びの魔女〟?」
月宮絢子とは何者なのか。あの日いきり立ってそう尋ねた俺に、そんな呼び名があると教えてくれたのは絢子さん本人だった。
俺がその名を口にすると、絢子さんは視線だけをこちらに向けてふっと笑う。それはどこか寂しそうな――見る者の胸を、罪悪感で抉るような笑みだ。
「そう。人々は私が不幸を招くと恐れ、私も人の未来を見ることを恐れた。たった今目の前にいる友人が、明日には死ぬと分かっているのに救えない。そういうのって、意外と応えるのよ。だから私は人と関わり合うことを避けるようになった。本当に自分がすべての不幸の元凶のように思えて、消えてしまいたいと何度も願った」
「……」
「だけどそんな私を拾ってくれたのが、ここにいる喜与次さん。喜与次さんは事情を知ると、すぐにチエさん――真人さんのお祖母様と、私を引き合わせてくれた」
「真人さんの……お祖母さん?」
そこで不意に登場した予想外の人物の名に、俺は目を丸くした。
そう言えば俺が初めて『Sophia』に行った日にも、絢子さんはそんなことを言っていたような気がする。俺の記憶が確かなら、絢子さんと真人さんが知り合ったのもそのチエさんという人がきっかけだったと言っていたはずだ。
「チエさんはね、ありとあらゆる霊術を極めた〝呪祓師〟と呼ばれる存在だったのよ。神羅のような、霊術を悪用する存在――〝呪術師〟と戦うのが彼女の仕事だった。しかもチエさんはその道のベテランでね。喜与次さんから話を聞くと、私を親元から引き取って、孫のように傍に置いてくれた。そして私に、持って生まれた力を御する術を教えてくれたの。おかげで私は、自分が望んだとき以外に他人の未来を見てしまうことはなくなった」
それがどれほどの救いだったか――と、絢子さんは穏やかな、それでいて当時を懐かしむような横顔で告げた。
チエさんは、この世で初めて絢子さんを受け入れてくれた理解者だったのだ。
彼女と出逢ったことで私の人生は大きく変わった、と、絢子さんは感慨深げに話してくれた。自分は生きていてもいいのだと、初めてそう思えたと、話してくれた。
「真人さんの店の名前『Sophia』はね、そのチエさんの名前から取ったものなのよ。〝ソフィア〟はギリシャ語で〝智慧〟を意味する言葉。だから店名はそれがいいって、私が一方的に提案したの」
「だけど真人さんは、それを採用してくれたんですよね?」
「ええ。彼もああ見えて、相当のお祖母ちゃんっ子だったから。チエさんが亡くなって、一番悲しんだのは真人さんだと思うわ。だから彼は亡き祖母の名を店の名前に掲げて守り、私はチエさんの弟子として、彼女の遺志を守ると誓った」
そう話す絢子さんの横顔は真剣で、迷いもなくまっすぐで、俺はこの人の意外な一面を見たような気分になった。
普段はおちゃらけているけれど、絢子さんは立派な呪祓師で。自分に生きる理由を与えてくれたチエさんのために、その〝理由〟をまっとうしたいと願っているのだということは、俺にもはっきりと伝わった。
それが、絢子さんの戦う意味。
単なる義憤とか、喜与次さんたちをひどい目に遭わされたからとか、この人はそんな単純な理由で神羅と戦っているわけじゃないんだ。
もっと重い何かを背負って、それでもしゃんと前を向いて、背筋を伸ばして歩いてる。
俺にも、そんな風に生きることができるだろうか。
「ところでタケル。『Sophia』と言えばさっきから気になってたんだけど、それ、『Sophia』のケーキよね?」
「あ、そうそう、これ、帰りに『Sophia』に寄って買ってきたんですよ。今日は絢子さんにお小遣いもらっちゃったし、お土産くらい買っていかないと呪われるかなと思って」
「まあ、よく分かってるじゃない。殊勝な心がけよ。変な呪いをかけられたくなかったら、これからもしっかり私を敬いなさい」
「一瞬でも見直した俺が馬鹿でしたよ……」
「それじゃ、食後のデザートも来たことだし、そろそろ夕飯にしましょうか。今日は――」
と、何事か言いかけながら絢子さんが立ち上がろうとした、そのときだった。ジリリリリ、という騒がしいベルの音が廊下から聞こえ、俺たちは揃って顔を上げる。
この家の玄関前に置かれた、黒電話の鳴る音だった。それに気づいた絢子さんが〝少し待つように〟と手で合図し、電話を取るべく茶の間をあとにする。
ところがそれから数十秒後、電話の呼び鈴が止まったかと思いきや、一分と待たずに絢子さんが茶の間へ戻ってきた。ずいぶん早いな、と思ったら、
「タケル、あなたに電話よ。那地智樹君っていう男の子から」
と予想外の名を告げられ、俺は思わず跳び上がる。
「智樹から!?」
まさかこんなに早くリアクションがあるとは思わなかった。あいつはここまで積極的なやつだったかと思いながらも、俺は旧友からの電話と聞いて舞い上がらずにはいられない。
急いで廊下に飛び出し、黒電話のもとまで走った。昭和の時代に現役だったという黒電話には、当然保留機能などない。
代わりに電話から外れた受話器がそのまま無造作に置かれていて、俺は息を整えながらそれを手に取った。
ずしりと硬く重い感触。過去に一度だけ使ったことがある公衆電話なるものが、確かこんな具合だった。
「もしもし、智樹君?」
『――ああ、蓮村。ごめんな、急に電話なんかして』
受話器の向こうから聞こえたその声は、紛れもなく智樹のものだった。
口調にこそ抑揚はないものの、早速舞い込んだ旧友との復縁のチャンスに浮かれた今の俺には、そんなものなど気にならない。
「いいよ、そんなの気にしなくて。だけど、まさかこんなに早く電話もらえるとは思わなかった。何かあったの?」
『いや……実は少し、蓮村と話がしたくてさ。妹にバレないように、今、外からかけてるんだ。良かったらこれから二人で会えないか? そんなに時間は取らせないから』
そのとき、ズキューンと俺の胸を貫いたのは、もちろん恋の予感などではない。
昼間の俺の想いが旧友に届いたという喜びと、あれ? これってなんかヤバくね? という、冷静な思考のダブルパンチだった。
だって考えてもみろ。俺は今女なんだ。そして智樹は男で、年頃の男子高生で、そんな智樹からこの電話。
俺の知る限り智樹は極度の人見知りで、女よりゲームの方が好きと時折断言するような、ちょっと困ったやつだった。
その智樹が初対面の女子に対してこれほど主体性に満ちた行動を見せるとはどうしたことだろう。辿り着く答えは一つ。
――まさか、俺に一目惚れした……?
『……? 蓮村、聞いてるか?』
「はっ……き、聞いてます! だ、だけど、これから会うっていうのは……」
『駄目か?』
「いや、その……こ、心の準備が……」
『は?』
「な、何でもない! いいよ、会おう! だって友達だもの、きっと分かり合えるはず!」
『お、おう……それじゃあ、天岡第三児童公園って分かるか? おれ、今そこにいるんだ』
「えっと、場所は分からないけど、知り合いに聞いて行く。ちょっと待たせるかもしれないけどいい?」
『ああ、待ってる』
その〝待ってる〟に込められた様々な可能性を可能な限り考えて、俺はあらゆる事態への対応を講じながら電話を切った。
そうして一度深く息をつき、大丈夫大丈夫分かり合えるあの智樹に限ってそんなことはない信じろ信じるんだ自分を親友を俺たちの友情を、と一息に念じたところで振り返る。
それは急いで茶の間に戻り、絢子さんから道を聞くために取った行動であったが、俺はすぐにその必要性がないことを悟った。
何故なら俺が顧みた廊下の角からは、この家の家主と愉快な仲間たちがこっそり(と言うにはあまりに堂々としすぎているが)顔を覗かせて、こちらの様子を窺っていたからだ。
「サリー、聞いた? あの子、これから男の子と逢い引きするって」
「ふーん……最近の子は進んでるって言うけど、まさかここまでとはね……」
「おい、やめろよお前ら。キヨじいが横でぷるぷる震えちまってるだろ、可哀想だろ」
「心配しなくてもお前らが想定してるような事態はねーよ」
聞こえがよしに聞こえる一人と三匹の会話をばっさりと斬り下ろし、俺は今日の出来事、智樹との関係を簡潔に説明した。そうして少しあいつと話がしたいからと、智樹が電話で言っていた公園の場所を尋ねれば、絢子さんがその場で簡単な地図を書いてくれる。
それはここから歩いて三十分くらいのところにある公園らしく、結構遠いな、と俺は頭を掻いた。
智樹の家がある方向ともずいぶん違うが、あいつは何故そんな公園を待ち合わせ場所に指定したのだろうか。疑問は残るものの、あまりあいつを待たせるわけにもいかず、俺は絢子さんからもらった地図をワンピースのポケットに捩込んだ。手にした荷物はそれだけで、急ぎ足に玄関を出る。
「それじゃあ、いってきます」
なるべく早く戻りますから、とつけ足して、俺は絢子さんの家を出た。
相変わらず今夜は蒸し暑い。
八月最後の夜、月は雲に隠れたり覗いたりしていた。




