もうすぐ
蓮村さやかから手渡された一枚の紙切れに、智樹はじっと目を落としていた。
天岡市中心部のビル街に、ゆっくりと日が沈もうとしている。天岡中央駅の正面にあるバスプールには、土曜だというのに平日の帰宅ラッシュ時と変わらぬ人混みが溢れていた。
駅から半円状に突き出た空間に並ぶバス停。そのバス停ごとに作られた長蛇の列の一つに混ざりながら、智樹はふと先刻さやかと別れたばかりの中央駅を仰ぎ見る。
そんな智樹の様子を、すぐ傍に立つ妹の夏苗が先程からちらちらと窺っていた。どうやらこちらに話しかけるタイミングを計っていたらしい。
「今日は舞ちゃんに会えて良かったね、お兄ちゃん。さやかちゃんもいい人だったし」
ようやく紙片から顔を上げた兄に、夏苗はやや控え目な口振りで言った。兄の反応と顔色を窺っているのだろう、しかし智樹は答えない。
「さやかちゃん、お兄ちゃんに気があるのかな。遊んでる間もお兄ちゃんのこと、ずっと気にしてたもんね。だけど、もしものときはちゃんと言った方がいいよ? お兄ちゃんは舞ちゃんのことが好きなんだって――」
「――夏苗」
冗談めかして言った言葉に、兄の冷たい声が返ってきて夏苗は震えた。
余計なことを言ってしまっただろうか。そう思い、若干の怯えを孕んで見つめた先で、兄は手にした紙片をぐしゃりと握り締めている。
「お前、先に帰れ」
「え?」
「おれはちょっと寄ってく場所があるから。帰りは少し遅くなる」
「そ、そうなの? だったらわたしも一緒に――」
「――先に帰れ、と言った」
今度は強い語調で言われ、夏苗はまたしても肩を竦めた。こちらを睨み据える兄の視線が別人のように恐ろしい。
夏苗はその視線に逆らえず、震えながら頷いた。智樹はそれを見届けると、あとは夏苗に興味を失ったように身を翻す。
バスを待つ人々の列を抜け、智樹は駅の切符売り場へと走った。そこで適当な値段の切符を買い、改札を通ってホームに下りる。
天岡中央駅には一から八番までのホームがあった。あまり電車に乗る機会のない人間は、まずそのホームまでの別れ道で迷い、自分の目指すホームはどこかと右往左往するものだ。
しかし智樹は迷わなかった。気配を辿って五・六番ホームへ続く階段を駆け下り、ぐるりとあたりを見渡したところでさやかを見つけた。
あの舞とかいう騒々しい娘は傍にいない。既に別れたのだろう、さやかはこちらには気づかずにぼんやりと電車を待っている。
そのさやかが並んだ五番ホームに、間もなく車輌が到着するというアナウンスがあった。智樹はさやかに存在を覚られぬよう、彼女から三つ離れた列に並んだ。
列車が到着し、開いた扉からぞろぞろと出てくる降車客と入れ違いに車輌へ乗り込む。智樹とさやかは隣り合った別々の車輌に乗る形になった。
乗車するや否や、智樹は扉の真ん前の位置を陣取り、窓からいつでも外を覗けるようにする。扉が閉まり、列車が動き始めた。揺られることおよそ十分。隣の車輌からさやかがホームに降りたのが見える。
一拍遅れて智樹も電車を降り、ひたひたとさやかのあとを尾行けた。ホームが二つしかない小さな駅で降りたさやかはまっすぐに寂れた商店街を抜け――るかに見えたところで足を止める。
不意に、何かに誘われるようにして向きを変えた。その先に一軒のカフェがある。緑色の軒と看板。店名は『Sophia』とある。
さやかは一人でそのカフェに入り、十分ほどで店を出てきた。その手には、店に入ったときには携えていなかった白い箱がある。
小さな鐘の吊られた店の出入口を抜けながら、さやかは誰かに手を振った。店の前面を覆ったガラス越しにその相手が見える。優男という言葉がぴったりの若い男だ。
(……あれだな)
電柱の陰に立ち尽くし、智樹はそう確信した。さやかは手にした純白の箱に目をやると、満足げに歩き出す。
しかし智樹はそれ以上さやかを追わなかった。追う必要がなくなった。その後ろ姿が夕闇に包まれた街角を曲がり、見えなくなるまでじっと待つ。
ふと手の中に光を生み、そこから現れた小瓶を薄暗い空にかざして笑った。
「もうすぐ、もうすぐです、恩師。あの器さえ手に入れば、我々はまた手を取り合って生きてゆけます」
小瓶の中には純白の光が浮いている。魂の色は、その持ち主の本質を表すと言われていた。
智樹は暗い空の下で、星のように輝くそれを愛おしそうに見つめると、再びそれを魂の中へと収う。小瓶には霊化符が巻きつけてあった。その中で束の間、白い光が何かを訴えかけるように明滅したが、智樹はそれを見ていなかった。
蓮村さやかはもういない。その気配が既に遠いことを確かめて、智樹は『Sophia』へと入った。
やわらかい色の電飾が灯った店内は薄暗い。中には客がちらほらといて、連れ合いと談笑したり、酒や食事を愉しんだりしている。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
カウンターの向こうから、先程の優男が声をかけてきた。智樹を客だと思っているのか、愛想のいい笑みを浮かべている。
智樹はその優男――恐らくこの店の店主だろう――につかつかと歩み寄った。
あまりにもまっすぐに自分を目指して歩いてこられたので、店主は少し驚いたような顔をしている。
「お前が〝真人〟か?」
「はい?」
「お前が〝真人〟か、と訊いている」
「はあ……確かに私が店主の和泉真人ですが」
私に何かご用でしょうか。そう言って小首を傾げた店主に、智樹はにやりと笑みを返した。
次いで柳茶色の上着の胸ポケットから、三角に折り畳まれた小さな紙の包みを取り出す。薬包だった。中には特別に調合された散薬が包まれている。
智樹はそれを丁寧に開き、露わとなった白い粉にふっと息を吹きかけた。途端に散らばった粉はしかし、まるで時が止まったように宙に浮かんで静止する。
その光景に驚いた店主が、客が、呆気に取られた様子で宙に浮いた粉と智樹とを凝視していた。
次の瞬間、パン!と智樹が両手を合わせたのを合図に、店内を爆風が駆け抜ける。
何もかもが吹き飛ばされた。店内のあちこちから悲鳴が上がった。
皿の割れる音。椅子が倒れる音。インテリアが落下する音。しかしそれらはすぐに静まり返る。
店内にいたすべての人間が、風に乗って飛散した散薬を吸っていた。それをぐるりと確かめた智樹は、満を持してカウンターの中へと侵入する。
「き……君、は……何を、するん……だ……っ?」
カウンターの中では、力なく倒れた店主が微かな意識を繋ぎ止めていた。他の人間は皆薬を吸い、すっかり眠りこけているというのに、この店主にはわずかながら霊術に対する耐性が備わっているらしい。
しかしそれも意識を保つのが関の山で、体を起こすことはおろか、指先に力を込めることさえできないようだった。
智樹はそんな店主を見下ろし、細く冷徹な笑みを浮かべる。
「今度こそ、すべてを終わらせる」
言って、智樹はすっと右手を持ち上げた。
その手の中に、邪悪さを孕んで明滅する紫の光が宿っていた。




