思わぬ再会
八月三十一日、土曜日。
俺が蓮村さやかとして生まれ変わってから、ちょうど一週間が過ぎた。
この一週間は本当にあっという間で、あまりにも色んなことがありすぎたと思う。
そんな怒涛の八月も今日で終わりだ。明日からは九月。また新しい月が始まる。
俺は天岡市中心部にある駅の改札前にいた。絢子さんが選んでくれた白いワンピースに、半袖の薄いカーディガンを羽織っている。
髪も出がけに絢子さんが結ってくれた。サイドテールとかいう髪型らしい。俺は今朝絢子さんに髪を梳いてもらいながら、女として生きていくためにはそういう知識も身につけなきゃならないんだな、とぼんやり思った。
今日はこの駅で舞、依理子と待ち合わせだ。実は俺たちは相澤先輩が亡くなった水曜日、部活の前に土曜日は駅前へ遊びに行こうと約束していた。
俺がそれを断れなかったのは、提案者の舞が「さやかの退院祝いも兼ねて」と言い出したからだ。休日はこの一週間の疲れをじっくり癒したいと思っていたが、そう言われては断るに断れなかった。
木曜日は学校が終わったあと、相澤先輩の通夜へ行き、金曜日は学校を休んで告別式に出席した。告別式には俺、舞、依理子の他、木更津先輩と岬先輩も姿を見せた。木更津先輩はとても憔悴していて、俺たちを見ても何一つ言葉を発さなかった。岬先輩はそんな木更津先輩の傍を片時も離れなかった。
告別式の帰りに「明日どうする?」と俺が尋ねると、舞はしばしの沈黙のあと、「遊ぶ」と短く言った。
その答えを聞いて、俺は正直ほっとした。休みの間部屋に籠り、相澤先輩の死を一人で抱えていられる自信が俺にはなかった。きっと舞も同じだったのだろうと思う。
神羅の件があるので一人で外出はまずいか、とも思ったが、絢子さんは意外にあっさりと許可をくれた。
逃げた神羅の行方については、今、絢子さんたちが捜索を続けている。加えて万一俺が単独で神羅に遭遇したとしても、すぐに駆けつけられるから大丈夫だと絢子さんは言った。一応護身用として〝呪符〟なるものも渡されている。
絢子さんの霊力が込められた札らしく、使い方も簡単に習った。
とは言え、さやかの体に馴染みきれていない俺にはまだ使えるかどうか怪しいらしい。それでも神羅に見せれば虚仮威しくらいにはなるだろうと、絢子さんはそれを持たせてくれた。
「さやか!」
ワンピースのポケットに畳んで入れたそれの感触を確かめていると、不意に前方から声がする。顔を上げれば、改札から手を振りながら駆けてくる舞の姿が見えた。
しかし、一緒に来ると言っていたはずの依理子がいない。そのことに気づいた俺は、思わず首を傾げながら舞に問う。
「おはよう、舞。依理子は?」
「おはよ。依理子は今日来ないって」
「そうなの?」
「うん。やっぱり今はそういう気分になれないからって、昨日の夜メール来た」
「そっか……」
「ごめんね。さやかも本当は休みたかったんじゃない? その、何て言うか、さ……一応、事件の当事者みたくなっちゃったわけだし……」
カジュアルなボーダー柄のポンチョにショートパンツ、黒のトレンカ。いつもの制服姿とはちょっと印象が違って見えるそんな格好で、舞は気まずそうに俯いて言った。
けれども俺は、そんな舞の様子につい笑ってしまって。それに気づいた舞は顔を上げ、戸惑ったように目を白黒させる。
「な、何? あたし、なんか変なこと言った?」
「いや、ごめん。ただ、舞でもそんな風にしおらしくなることがあるんだなぁと思って」
「ちょ、何それひどい! 人がせっかく心配してあげてるのに!」
「だからごめんって。それに、私なら大丈夫だから。ありがとう」
決して大丈夫ではなかったけれど、舞を見ていたら何となく気分が軽くなり、俺はそう礼を言った。途端に舞が泣き出しそうな顔をしたので焦る。
こんなときにからかいすぎたかと思ったら、舞はまた俯いて「良かった」と小さく零した。そのせいで今度は俺の方が泣きそうになり、慌てて話題を変えることにする。
「そ、それよりどこ行く? 舞、靴買いたいって言ってなかったっけ」
「うん。でもその前にご飯食べない? あたし、今日まだ何も食べてないんだよね」
「ああ、いいよ。ちょうどお昼だし、どこで食べようか」
言いながら、俺がちらりと目を向けた改札上の大時計は、ちょうど昼の十一時を指していた。この時間なら、いくら休日とは言え飲食店はまだ空いているだろう。
俺たちが待ち合わせ場所に選んだ天岡中央駅は、周囲に様々なテナントが入った駅ビルが建ち並び、そこには例外なく飲食店も含まれていた。
各ビルは地下や上階に大小のレストラン街を持ち、ファーストフードから高級寿司まで、とにかく食べることには事欠かない。
俺たちはそのうち駅から最も近いビルのレストラン街へ入ることを決め、二人並んで歩き始めた。休日の中央駅はいつにも増して人が多く、ちょっと油断するとすぐ人にぶつかりそうになる。
「そう言えばさ、さやか。木曜日はバタバタしてて、ちゃんと聞けなかったんだけど」
「何?」
「さやかが今、実家じゃなくてイトコの家で暮らしてるって話。あたし、そんなの全然知らなかったからびっくりしたよ。何で急にそんなことになったの?」
そう言えば成り行きでそんな話をしたんだった、と思い出し、俺はたちまち苦い気分になった。
月、火、水と初めの三日は帰り先を上手く誤魔化せていたのだが、木曜にもなるとさすがにそうはいかなくなり、俺はついに絢子さんの家――と言ってもイトコと偽ってあるが――で暮らしていることを明かしたのだ。
「あー、えっと、それはね……ほ、ほら、私、階段から落ちたのが原因で記憶があやふやになっちゃったでしょ? それでちょっと色々あって、何となく親と気まずくなっちゃったんだよね。だから一時的に距離を置くことにしたって言うか……」
「そうだったんだ。それならそうと最初から言ってくれればいいのに。でも、天岡にさやかのイトコがいるなんて知らなかったなぁ。そのイトコって男? 女?」
「お、女だよ。最近他県から越してきたんだ」
「なーんだ。イケメンなら紹介してもらおうと思ったのに、残念」
またそんなこと言って、と呆れながらも、俺は本当に残念そうに口を尖らせている舞を見て笑った。
同時に少しだけ安堵する。良かった。いつもの舞らしくなった。
「――あれぇ? 舞ちゃん?」
ところがそのとき、背後から舞の名を呼ぶ声がする。俺たちと同じ年頃の、女の子の声に聞こえた。それに気づいた俺たちは足を止め、ほとんど同時に振り返る。
そこで、俺は息を呑んだ。
限界まで目を見張り、言葉を忘れて硬直する。
「あーっ、夏苗じゃん! それに智樹も、久しぶりー!」
これは夢じゃないだろうか。とっさに浮かんだそんな考えを否定するように、舞が俺もよく知る二人の名を口にした。
俺が武海タケルだった頃の友人那地智樹と、その妹の夏苗ちゃん。
嘘だろ、と呟いたつもりだったのに、その呟きは少しも声にならずに消えていく。
「舞、知り合い……?」
「ああ、うん、友達。親同士が昔から仲良くて、ちっちゃい頃からよく一緒に遊んでるんだ。話したことなかったっけ? 天岡一中の夏苗と天高の智樹」
「初めまして。那地夏苗です」
満面の笑みを浮かべて、舞から紹介された夏苗ちゃんがぺこりと俺に一礼した。
内巻きのショートヘアーがふわりと揺れる。さすがは元運動部、先輩に厳しく仕込まれたのかその所作はとても好印象で礼儀正しい。
一方の智樹はそんな夏苗ちゃんを一瞥し、「どうも」と短く答えただけだった。
何て無愛想なやつだ。だけど俺は知っている。実は智樹は対人関係に消極的で、極度の人見知りだということを。
こんなところで会えると思わなかった。その想いに声が震えそうになるのをこらえ、俺はただ一言、蓮村さやかです、と言って会釈した。
天岡市はそう広くない町だ。もしかしたらいつかどこかでこの二人を見かけることがあるかもしれないとは思ってたけど、まさかこうして話までできるとは思ってもみなかった。
特に智樹とはつい一週間前まで一緒にいたはずなのに、その声が、仕草が、何だか妙に懐かしい。
「けど珍しいねー、あんたたちが二人でこんなところにいるなんて。買い物?」
「う、うん、まあ、そんなところかな……舞ちゃんたちも遊びに来たの?」
「そ。これからさやかと二人でお昼食べに行くとこ」
「そ、そうなの? じ、実は、わたしたちもお昼まだなんだ。良かったら一緒に食べない?」
お昼を食べに行く、と言った途端予想外の食いつきを見せた夏苗ちゃんに、俺はつい目を丸くした。
けれども夏苗ちゃんは何やら必死な様子で、「ねっ、いいよねお兄ちゃん!」と隣の智樹を促している。
そんな夏苗ちゃんの様子も気になったが、俺がもっと驚いたのは、夏苗ちゃんに乞われた智樹が「まあ、いいんじゃね?」とそれを受け入れたことだった。
いつもの智樹なら、見知らぬ相手――この場合俺のことだが――と一緒に食事をしようなどと言ったら露骨に嫌な顔をする。それくらい人見知りの激しいやつなのだ。
しかし今の智樹はどういうわけか、半分以上上の空、という顔をしている。
「まあ、あたしは別にいいけど……さやかは? この二人と一緒でもいい?」
「も、もちろん!」
と、俺は舞からふと投げかけられた質問に、思わず全力で答えてしまった。
そんな俺の反応に舞と夏苗ちゃんはびっくりしたような顔をしていたが、やがて舞の方が人の悪い笑みを浮かべ、にやにやと俺の顔を覗き込んでくる。
「おやぁ? いつもは人見知りするさやかちゃんが、今日はやけに張り切ってますねぇ。もしかして智樹が気に入ったとか? 確かにこいつ、うちらとは同い年だけどさ」
「そ、そんなんじゃないし!」
何やら妙な誤解をされていると分かり、俺は慌てて舞の疑惑を否定した。しかしその慌て方が逆に怪しかったのか、舞はなおもにやつきながらくすりと口元に手を当てる。
「も~、さやかったらそんなに慌てちゃってぇ。だけどさやかには真人さんがいるでしょー? ダメだよ、こんなとこで浮気なんかしちゃあ」
「な、何でそこで真人さんが出てくるの!? あの人とはただの知り合いだって……!」
「……真人?」
と、ときに尋ねてきたのは、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ智樹だった。
智樹が何故真人さんの名前に反応したのかは知らないが、尋ねられた舞は〝しめた〟とばかりに大袈裟に頷いてみせる。
「そう。真人さんは聖女の傍にある『Sophia』ってお店の店長さんでねー、これがまたイケメンなの! 超紳士だし、お店で出してるケーキもめっちゃおいしくてさぁ」
「へー、いいな。そのお店わたしも行ってみたい。舞ちゃん、今度連れてってよ」
「いいけど、真人さんはさやかんだからね。かっこよくても惚れちゃダメよ?」
「だから、そんなんじゃないって!」
そんなことよりさっさとお昼を食べに行こうと、俺は強引に話を打ち切った。今日は依理子が傍にいないから、脳内お花畑系女子の暴走は俺が止めなければならない。
それから俺たちは駅隣のビルに移動し、最上階にあるイタリア料理店に入った。思ったとおり店はまだ空いていて、俺たちは接客に出てきた店員に禁煙席へと通される。
そこで思い思いのメニューを注文し、他愛もない話をしながら昼食を取った。ああ、まさかこうしてまた夏苗ちゃんと一緒に食事ができるなんて夢のようだ。
過去に一度だけ、智樹と夏苗ちゃんと三人で遊んだときに同じような図で食事をしたことがあるが、二人と死別した以上そんな機会はもう二度と訪れないのだろうと思っていた。
世間は狭いという言葉の意味を、俺は齢十六にしてようやく理解する。
「そう言えばさ、こないだニュースで見たんだけど、聖女、今大変みたいだね。学校で自殺した生徒が出たんでしょ?」
と、その食事も終盤に差し掛かった頃、夏苗ちゃんが大きな目を好奇心に輝かせながら尋ねてきた。途端に俺と舞は固まり、同時に食事の手を止める。
一瞬視線を通わせ合ったが、まさかその自殺した生徒が自分たちの部活の先輩だとは言えなかった。それを言葉にするのには相当の勇気が要ったし、今はあまりこの話をしたくないという想いが先に立つ。
「う、うん、まあね……うちらもあんまり詳しくは知らないんだけどさ……」
「そうなんだ? でもさ、最近何だか物騒だよね。今まで天岡で全国ニュースになるような事件なんてほとんどなかったのに、今年に入ってから事故とか事件とか多いじゃん。一人暮らしのおじいさんが男に殺されたとか、その犯人が自殺したとか、公園で会社員の死体が見つかったとか……あと、民家にトラックが突っ込んだ、とか」
そのとき、夏苗ちゃんがやや気まずそうに口にした話題に、俺は思わずどきりとした。
絢子さんの家にはテレビがないので、今のところニュースを知る手立てが新聞しかない俺は、しかしそれらの事件の大半を知っている。
おじいさんが殺され犯人が自殺したというのは、恐らく神羅に殺された喜与次さんと翔のことだろう。そして民家にトラックが突っ込んだというのは、言わずもがな俺の人生を変えたあの事故のことだ。
夏苗ちゃんはあの事故のことを、俺の死を、どんな風に受け止めているのだろう。それが気になりちらりと目を向けた先で、智樹がいきなり席を立った。
「トイレ」
と短く言って背を向けた智樹に、夏苗ちゃんがどこか怯えたような視線を向ける。智樹はその視線に気づいているのかいないのか、終始無表情にトイレのある店外へと消えた。
「ていうかさ、さっきから思ってたんだけど、智樹、なんか機嫌悪くない? いつもより口数も少ないし、何かあったの?」
と、その智樹がいなくなったのを見計らい、尋ねたのは隣の席の舞だった。実は俺もまったく同じことが気になっていたので、思わず舞の質問に頷きそうになってしまう。
初めは初対面の俺がいるせいかと思ったが、それにしても今日の智樹はやけに大人しかった。
暗い、と言ってもいいかもしれない。こちらから話を振っても返事は短く、本当に話を聞いているのかと疑いたくなるくらいだ。
おまけにいつもは屈託のない夏苗ちゃんも、今日は何やら様子がおかしい。特に智樹に対して妙におどおどと接している印象だった。
確かに智樹は以前から夏苗ちゃんには冷淡な態度を取ることが多い。とは言えそれも夏苗ちゃんが怯えるほどではなかったはずだ。
「それがね……さっき話した事故、あったでしょ? トラックが民家に突っ込んだってやつ。あの事故で亡くなった高校生、お兄ちゃんの友達だったんだ」
「えっ、うそ!」
信じられないと言うように、舞が目を見開いて言った。
一方の俺はその事故の当事者(というか死んだ本人)であるだけに、どう反応すべきか分からず束の間視線を泳がせる。
「タケル君っていうお兄ちゃんの同級生だったんだけど、その友達が亡くなってから、お兄ちゃん、ずっとあの調子で……今週は学校にも行かなかったの。お兄ちゃんとタケル君、本当に仲が良かったから……」
「が、学校にもって、それ重症じゃん。大丈夫なの、智樹?」
「分かんない。だけどわたし、お兄ちゃんが心配で……だからちょっとでも元気になってくれたらいいなと思って、今日も買い物に誘ったんだけど……やっぱり逆効果だったのかな。でもわたし、あんなお兄ちゃん見てられないよ……」
丈の長いチュニックの上で両手を握り締め、俯いた夏苗ちゃんの声は震えていた。
泣いているのだろうか。そう思い、しかし茫然と座り込んでいることしかできない俺の隣で、舞がさっと席を立つ。
「大丈夫だよ、夏苗。智樹もきっと、友達が急にそんなことになってショックだったんだろうけど……その友達だって、智樹がそんな風になるのを望んでるわけないじゃん。智樹だってそのうちそれに気づくよ。だから大丈夫。大丈夫」
立ち上がった舞はそう言って、夏苗ちゃんの隣――さっきまで智樹が座っていた席――に座り、優しく夏苗ちゃんの頭を撫でた。途端に夏苗ちゃんの目からは涙が零れ、店内に小さな嗚咽が響く。
ひょっとして舞は、俺の正体に気づいてるんじゃないだろうか。そう思いたくなるほど的確に、舞は俺の心の声を代弁してくれた。
しかしそれは同時に、相澤先輩を亡くした俺や舞自身に言い聞かせる言葉ではなかったか。人の死というものはそれほどまでに重く、抱えていくことに難儀する。
ならば俺にも、智樹のためにしてやれることはないだろうか。そんなことを考えながら、俺はその日一日を過ごした。
結局昼食のあとも、俺たちは行動を共にすることになったからだ。四人で一緒に買い物をしたり、ゲーセンに行ったり。けれどその間もまるで笑わない智樹を見ていたら、俺の想いはますます強くなっていく。
「それじゃあ、うちらそろそろ行くね」
やがて戻ってきた天岡中央駅の改札前で、俺たちが智樹と夏苗ちゃんにそう告げたのは、大時計の針が夕方六時を回った頃のことだった。
俺と舞は利用する路線こそ別だが、それぞれ電車に乗って帰る。那地兄妹は駅から出ている市営バスを使って帰る。ゆえに一緒に行動できるのはここまでだった。俺は二人との別れを惜しみながら、しかし胸の中である決断をする。
「あの、智樹君」
これまで呼び捨てにしていた相手を君呼びするのはちょっと気持ち悪かったが、俺はそれを堪えて智樹を呼んだ。智樹は夏苗ちゃんの隣で、相変わらず無表情に突っ立っている。
「これ、良かったら。私、携帯持ってないから家電だけど……良ければまた今度遊ぼう? もちろん夏苗ちゃんも一緒に」
俺がそう言って手渡したのは、絢子さんの家の電話番号を書いた紙だった。手帳なんて気の利いたものは生憎持ち歩いていなかったから、昼間に食事したイタリア料理店で、各テーブルに置かれていたアンケート用紙の裏に書き殴ったものだ。
会計間際に思いつき、急いで書いたものだったから筆跡は乱れていたが、智樹は受け取ったその紙に無言で目を落としていた。
……初対面の女子にいきなり連絡先を押しつけられたんだから、もっとこう、健全な男子高生らしい反応があるだろ? と思ったものの、そんな俺が期待した反応は、代わりに夏苗ちゃんが担ってくれる。
「えっ、そ、そんな、いいんですか? うちのお兄ちゃんにこんな……」
「うん、今日はすごく楽しかったから。あと、夏苗ちゃんも、その……できれば私のこと、名前で呼んでくれると嬉しいな」
夏苗ちゃんは今日一日、俺を〝蓮村さん〟と呼んでいた。そのことを考慮しての提案だったのだが、やはり自分からこういうお願いをするのは小っ恥ずかしい。
というか本音を言えば、俺はもう一度夏苗ちゃんに〝タケル君〟と呼んでほしかった。けれどもそれは叶わぬ夢。
ならばせめて次の逢瀬の約束くらい取りつけたっていいだろう。そんな俺の想いが届いたのか否か――夏苗ちゃんは俺が大好きな笑顔を浮かべて言う。
「うん、分かった。また遊ぼうね、さやかちゃん」
脳髄が痺れるような甘い感動。途端にじん、と熱を持った目頭への対処に必死で、俺はその先、二人とまともな別れの言葉を交わせなかった。
だけど、約束した。もう一度二人と繋がるための約束をした。
今日の成果はそれだけで十分だ。俺は舞と肩を並べて、バスプールへ向かうべく手を振りながら去っていく夏苗ちゃんと智樹を見送ってやる。
「うーん。智樹のやつ、あれで少しは元気出たかな?」
「どうだろうね……次に会うときは、みんなで『Sophia』にでも行こうか」
「ああ、それがいいかも。だけどさやか、やっぱり智樹に気があるんじゃないの?」
「神に誓って違います」




