「また」
八月二十八日、午後六時十六分。
私立聖繍女学院高校の世界史担当教諭氷室瞬は、教職員室で前日実施した小テストの採点をしながら、隣の席の男性教師と雑談をしていた。
そのとき不意に、デスクの片隅に置いていた彼のスマートフォンが震え出す。着信あり。
電話の発信元はすぐに分かった。点灯した液晶画面に表示された名は『月宮絢子』。
それを視界の片隅に認めた瞬は、話の最中だった教師に断りを入れて席を立ち、すぐさまスマートフォンを手に取って耳に当てる。
「もしもし?」
『――瞬、今すぐ写真部の部室に向かって!』
途端に耳へ飛び込んできたのは、いつになく切迫した絢子の声だった。
絢子と瞬は、既に五年近い付き合いになる。その長い付き合いの中で、これほど差し迫った絢子の声を聞いたのは瞬も初めてのことだった。
ゆえに聞こえた第一声で、瞬には何かろくでもないことが起こったのだという察しがつく。
「どうした。蓮村か?」
『そうよ。今、守護印が異様な反応を示してる。さやかちゃんの肉体が霊的干渉を受けてる証拠だわ。それもかなり強烈な……この力は間違いない、神羅よ。あの男、ついにタケルを見つけたんだわ』
鬼気迫る絢子の声を聞きながら、そのときには既に氷室は職員室を飛び出していた。
生徒や同僚たちから注がれる驚きの視線を浴びながら、しかしそれに頓着している暇などなく、一目散に西の部室棟を目指す。
『私も遷界門を潜ってすぐにそっちへ行くわ。渡しておいた呪符は持ってるわね?』
「ああ、確かに三枚」
『それを使ってタケルを助けたら、彼を外まで連れ出して。いい? 呪符はあくまでタケルを助け出すためだけに使うのよ。たった三枚の符で神羅と戦おうなんて思わないで』
「あんなもの、俺には一枚使うだけで精一杯だ。百年以上生きてる化け物とまともに戦り合えるなんて、初めから思ってない」
『ならいいわ。とにかく無茶はしないで。この間のサリーの二の舞になるのだけは避けてちょうだい。呪術師と戦うのは、私の仕事なんだから』
「だが絢子さん、あんた、月曜の夜に使い果たした魔力は回復したのか? もしまだなら、あんな化け物とはとても――」
『今は人の心配より自分の心配をなさい。いいわね、タケルを頼んだわよ』
電話の向こうの絢子は一方的な口調で言うと、こちらの返事も待たずに通話を切った。それに合わせて無機質な不通音を吐き出すようになったスマートフォンを一瞥し、瞬は小さく舌打ちする。
本当に大丈夫なのか。そんな疑念と懸念を抱きつつ、今は部室棟に向かって駆けた。
三階にある写真部の部室へ辿り着いたのは、職員室を出てから五分も経たない頃だったように思う。息を切らして手をかけた戸の向こうから、蓮村さやかの――正確にはタケルという少年の――魂を引き千切られるような絶叫が聞こえる。
「蓮村、相澤!」
がらりと開け放った戸の向こうに見えたのは、床に倒れたタケルとその上に跨がった写真部二年生、相澤由紀の姿だった。
まさか相澤が。一瞬の驚愕が過ぎったが、こちらに気づいた由紀もいくらか驚いたような顔をしている。
その由紀の右手。タケルの胸にめり込んでいた。
それを目撃した瞬は、混乱するよりもむしろ冷静になる。ああいう現象は知っていた。霊術の一種だ。
つまりこいつは、相澤由紀ではなく神羅で間違いない。
「――參の符、〝疾〟!」
瞬間、瞬は懐から取り出した一枚の呪符をかざし、絢子に言われたとおりの言霊を唱えた。それに呼応した符が目も眩むほどの光を放ち、光は疾風の刃と化して神羅へと襲いかかる。
その刃に触れることを恐れた神羅が、すんでのところで跳び退き瞬の放った霊術を躱した。
途端にぐらりと重心が傾くような感覚が瞬を襲う。呪符は多少の霊質がある者なら誰でも使えるという優れものだが、絢子のような訓練を受けていない者にはこたえるのだ。何しろ霊術の行使には、膨大な量の霊力――魂に宿る生命力のようなもの――を消費する。
「その呪符の放つ霊気……さては貴様、あの女狐の手先だな」
攻撃を躱した神羅が慎重に距離を取りながら、忌々しげな口調で言った。その声は紛れもなく由紀のものだったが、瞬の知る彼女とはまるで印象も言葉つきも違う。
ときに瞬が目をやった先で、タケルは意識を失っていた。恐らく絢子が仕掛けたという守護印を強引に剥がされそうになっていたのだろう。
それには激痛が伴うというから気絶してしまうのも無理はないが、これでは彼を連れて逃げるのは骨だ。何とか神羅の隙を衝き、抱え上げてここから脱出せねばならない。
「……だったらどうする」
「まったく、あの女にはずいぶんと手駒が多いようだな。しかも皆うまそうな匂いがする。特に貴様は強烈だな。それほど甘い匂いを発していては、さぞ霊魂に好かれて大変だろう」
そう言ってニタリと笑った神羅の表情には、肉体の元の持ち主である相澤由紀の面影など微塵もなく、瞬は図らずも背筋に悪寒が走るのを感じた。
だがここで怯むわけにはいかない。瞬はすかさず二枚目の呪符を出す。
短冊にびっしりと呪紋が書き込まれた強力な符だ。使えば再び神羅を怯ませることができるだろうが、果たしてそれに自分の体がついていくかどうか。
壹の符、〝覇〟。絢子から最も強力だと教わったその符を手に、しかし瞬はそれを唱えるのをためらった。
神羅はそれを見逃さない。こちらへ向けてかざされた手に、禍々しい色の光が宿った。
宿ったと思ったときには既に、凶器と化した膨大な量の霊気が瞬に向けて放たれている。
「死ねぇっ!」
裂けるように笑った神羅の声が部室に響いた。やられる。そう思った刹那、俄然目の前で光が弾け、巨大な破裂音がする。
神羅の放った霊術から瞬を守ったのは、同じ霊気によって生み出された光の壁だった。
それに気づいた瞬が驚いて振り向いた先――そこには鋭い眼光を宿した絢子の姿がある。
「出たな、女狐。今回はお早い登場じゃないか」
「これ以上あなたの好きにはさせないわよ、神羅。いい加減に観念なさい!」
次の瞬間、絢子の放った青い霊気の塊が、棒立ちした神羅を逆襲した。神羅はそれを霊気を宿した右手で弾き、すぐさま反撃の構えを取る。
ところがそのとき、
「氷室先生? どうしたんですか?」
俄然背後から声が聞こえ、瞬ははっとしてそちらを振り向いた。そこには不思議そうな顔をした生徒たちが集まっている。これだけ派手に騒いでいるのだ、不審に思われない方がおかしい。
同じく騒ぎを聞きつけて、近隣の部室からぞろぞろと生徒が集まり出していた。
これはまずい。とっさにそう判じたのは、瞬だけではなかったようだ。
「――神羅!」
鋭い絢子の声が聞こえ、同時にガラスの割れる凄まじい音がした。
絢子が背後の生徒らに気を取られた一瞬の隙。その隙を衝いて神羅が部室の窓を突き破り、そのまま外へ飛び出したのだ。
あっと声を呑んだときには既に遅かった。瞬は絢子とほぼ同時に、神羅が突き破った窓ガラスへと駆け寄った。
ここは三階だ。嫌な予感と共に窓を開け、身を乗り出して見下ろした校舎の麓には、目を覆いたくなるような光景が広がっている。
「相澤……!」
背後から、一部始終を目撃した生徒たちの悲鳴が聞こえた。恐慌は瞬く間に広がり、パニックに陥った生徒たちが気の狂れたような声を上げて騒ぎ立てている。
大変なことになった。そう思いながら瞬はまず最初に、隣に立つ絢子を見やった。
彼女は窓の外に広がる惨状を見下ろしたまま、微動だにしない。
「絢子さん。ここは俺が始末をつける。左手のそれ、霊化符だな?」
瞬がそう言って目をやったのは、絢子が左手に巻きつけている細長い紙の秘符だった。その表面にはやはり呪紋が書き込まれ、強い霊力が込められているのが一目で分かる。
霊化符とは言葉のとおり、それを巻きつけた対象を霊化させる呪符だった。
つまり絢子は現在、生きながら霊と同質の存在になっている。当然ながら体は物を貫通するし、その姿は強い霊感を持つ者にしか見えないはずだ。
「あんたはこのまま校門まで行って、学校から連絡を受けた蓮村の保護者として入ってきてくれ。蓮村は相澤の自殺を止めようとして揉み合い、倒れた拍子に気を失ったってことにする。一応保健室まで連れてくが、すぐに担任に送らせよう。病院沙汰にはならない方がいいだろ?」
「ええ……そうね。お願い」
絢子はやはり眼下に視線を落としたまま、ただ一言そう言った。瞬はそれに小さく頷き、すぐに踵を返して恐慌を来している生徒たちの収拾に取りかかる。
「――また救えなかった……」
そのとき瞬の耳に、微かな、しかし確かな絢子の呟きが聞こえた。
思わず顧みた先で、絢子は暗然と肩を落としている。
その後ろ姿に声をかけるべきかどうか迷い、瞬はやめた。
計り知れぬ苦悩を抱える相手への慰めの言葉は、ときとして相手を侮辱する言葉になることを、瞬はよく知っていた。




