まるですべてが白昼夢
……どうも納得がいかない。
八月二十八日水曜日、朝。
俺がそんなことを考えながらじっと目を据えたのは、茶碗にこんもりと盛られた白米と、その上に載った食べかけのシシャモの塩焼きだった。
テレビも何もない茶の間にいるのは俺一人で、今日は翔や喜与次さんさえもいない。結局絢子さんとは、昨日丸一日会うことができなかった。
家の中にいることは確からしいが、会いに行くなと翔は言う。理由を尋ねても答えてはもらえなかった。
何かあったのかと問い重ねても、返ってくるのは「何にもねえよ」という答えだけ。あまりにしつこく詮索したら、翔に右足の脛を噛まれた。未だに痛い。
喜与次さんも絢子さんのことは何も心配するなと言うばかりで、俺の問いにはまともに取り合ってくれなかった。
確かに昨晩もしっかりと夕飯が用意されていたし、今朝もこうして主菜、副菜、汁物すべてがバッチリ揃った健康的な朝食が用意されている。それがまたうまいのが納得いかない。
シシャモは塩加減、焼き加減共に絶妙だし、目玉焼きは黄身が半熟のトロトロ、一寸の狂いもなく綺麗に切られたキュウリの漬け物にはピリッとからしが効いていて食欲をそそる。極めつけはナメコの味噌汁だ。豆腐はまったく崩れてないし、味もしょっぱすぎず薄すぎずちょうどいい。米だって炊き方がいいのか瑞々しくてモチモチだ。
有り得ない。こんな旅館の朝食みたいに完璧な食事をあの絢子さんが手がけているなんて、とてもじゃないが信じられん。
あの人はもっとこう、おどろおどろしい色をした大鍋を笑いながら掻き混ぜている図の方が似合う。……すまない、話が逸れた。とにかく昨日から納得のいかないことばかりだ。
おかげで真人さんから預かったお土産も冷蔵庫に入ったまま。そこにお土産があるということさえ、俺は絢子さんに伝えられていなかった。
本当に何があったんだろう。俺だけが除け者にされているような疎外感と不安、苛立ちにため息をつく。けれども箸だけは順調に進む自分が憎い。だって本当にうまいんだもん。
そうして孤独な食事を終えた俺は、ひとまず食器を下げるだけ下げ、学校へ行く支度を整えた。
歯を磨き、顔を洗い、やや長めの前髪を赤い花のパッチンピンで留める。留め方は絢子さんに習った。さやかは生前、よくこうして学校に行っていたと言う。
それから部屋に戻って鞄を持ち、結局誰とも朝の挨拶を交わさないまま玄関へ向かった。下駄箱の上にはピンク色の弁当包み。そういや昨日忘れていった弁当は、帰ってきたらなくなってたな。絢子さんが気づいて片づけてくれたんだろうか。それならそのお礼とお詫びもしときたいのに。
「ったく、こそこそ隠れて飯の準備するくらいなら、顔くらい見せろよなぁ……」
「――じゃあ見せるわ。おはよう」
「うはぁっ!!」
背後からの予想もしていなかった急襲に、俺はいつかのごとく大声を上げて跳び上がった。
バクバクとなる心臓を押さえながら振り向いた先には、障子を開けた丸窓から顔を出し、頬杖をついた絢子さん。その腕の中には、何とあの喋る猫サリーの姿もある。
「あ、あ、あ、絢子さん!! おどかさないで下さいよ!!」
「何よ、あなたが〝顔くらい見せろ〟って言ったんでしょう? だからこうして顔を見せてあげたのに、怒鳴るなんてひどいわ。ねえ、サリー?」
「本当ね。だけど絢子、聞いた? さっきの間抜けな悲鳴。あれは傑作ね」
「だから言ったでしょ、タケルはからかい甲斐のある子だって。次はどうやっておどかしてやろうかしら」
「あんたは人をおどかさずに登場するってことができないんですか!」
ああ、くそ、やっぱり納得がいかない。丸一日姿が見えず、健気に心配してやった結果がこれだ。さっきまでの俺の不安を返せよ、と、俺は立て続けに思いの丈をぶちまけてやりたくなった。
けれどもそこで、俺は絢子さんの顔色がずいぶんと青白いことに気づき、思わず怒りを呑み込んでしまう。
「ていうか絢子さん、なんか顔色悪いですよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ただ昨日は夜遅くまでサリーたちと麻雀してて、ちょっとはしゃぎ過ぎただけ」
「猫だの犬だのに麻雀ができるんですか」
「やろうと思ってできないことはないわよ。ねえ、サリー」
「約束のニボシ百匹、忘れるんじゃないわよ、絢子」
よりにもよって賭け麻雀かよ……しかも猫に負けたのかよ……と、つっこみたいことは多々あったが、俺はふざけた大人のやりとりにそんな気力さえ削がれていく。
「つーかいい大人が揃いも揃って何やってんスか。昨日、真人さんも心配してましたよ。何回家に電話しても誰も出なかったって」
「それ、昼間の話でしょ? その時間は寝てたから。それよりタケル、学校の方はどうなの? 一応翔や喜与次さんから話は聞いてるけど、大丈夫そう?」
「まあ、今のところは……神羅らしき相手も特に見当たりませんし、そいつ、本当にこの体のこと探してるんスかね?」
「死んでない限りはね。あの様子じゃたぶん、仕留め損ねたと思うけど」
「仕留め損ねた?」
「こっちの話。とにかく身の回りには十分気をつけて。あの男の執念を甘く見てると、思わぬしっぺ返しを食らうわ……一体何があの男にあそこまでさせるんでしょうね」
台詞の後半はほとんど独白のようで、絢子さんは物憂いため息と共に前髪を掻き上げた。
その横顔には、濃い疲れの色がある。……本当に麻雀だけが原因なのだろうか。今の俺には絢子さんが、ひどく衰弱しているように見える。
「あの、絢子さん、俺……」
「それより、そろそろ家を出ないと遅刻するんじゃない? いってらっしゃい。今夜は一緒に食事しましょうね」
わざとなのか、それとも無意識なのか、絢子さんは俺の言葉をやんわりと遮って、口元に薄い笑みを刻んだ。
その笑みが、今にも日の光に溶けて消えてしまいそうに見えたのは、俺の考えすぎなのだろうか。
絢子さん。もう一度そう呼びかけようとしたときには、既に絢子さんの姿は視界の外に消え、ぱしん、と静かに明かり障子が閉められた。
最後に吹き込んできた風が、庭に咲く芙蓉の香りをふっと散らしては消えていく。
白昼夢を見たような気分だった。




