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青い霧

 さらさらと目の前を流れる川の水面みなもに、月の光が反射していた。

 流れに合わせて揺れる水面の月は、対岸まで続く光の道を描いている。

 その道をファインダーの真ん中に捉え、由紀ゆきは無心でシャッターを切った。

 カシャッという小気味の良い音が耳をくすぐる。もう一枚。河原に腹這いになったまま、由紀はあらゆる角度からシャッターを切り続けた。

 光の道の先には住宅街の素朴な夜景があり、その上空には皓々と輝く下弦の月が浮かんでいる。


 雲のない夜だった。由紀は自宅からほど近い河川敷を訪れ、文化祭用の写真撮影に熱中していた。

 今年、聖女写真部が展示会でのテーマとして掲げたのは『光』だ。そのテーマを聞いたとき、由紀の頭に真っ先に浮かんだのは、今、目の前に広がるこの光景だった。


 本当は半月ではなく、満月の夜にこそ撮影したいと思ったのだが、作品提出の期日までに満月に出会えるチャンスは一度だけだ。それもその日、空に雲がかかってしまっては望みどおりの写真を撮ることはできない。

 だから由紀は万一満月を撮影できなかったときのために、これから月の綺麗な夜は毎日撮影に来ようと決めた。大賞が欲しいというわけではない。ただ写真愛好家の端くれとして、展示会には自分の納得のいく作品を出したいというささやかなプライドがあるためだ。


 それでなくとも今日は、珍しく心が澄み切っていた。こんな日は、いつもより優しい写真が撮れるような気がした。

 昼休み、いつもと同じメンバーに囲まれて罵詈雑言を吐かれていたところを、部の後輩に助けられたことを思い出す。内気でいつも自信がなくて、友達も少ない自分をあそこまで真剣に庇ってくれたのは、あの子たちが初めてだった。


 それが本当に、本当に本当に嬉しかったのだ。事件の直後はイジメの事実が明るみに出たことで取り乱してしまったが、職員室で「今日のことは翼先輩には伝えないで下さい」と教師たちに頭を下げたとき、一緒に嘆願してくれた彼女たちの姿を見て、自分は何と優しい後輩に恵まれたのだろうと泣きたくなった。


 あんな後輩たちに出会うことができたのも、翼のおかげだ。二年前のあの日、写真の中で出会った翼がたくさんの勇気をくれたから、自分は今日まで歩いてこれた。

 だから翼に、翼と出会わせてくれた麗奈れいなに、優しい三人の後輩に、何か恩返しがしたかった。


 今の自分にできることは、近頃風紀が乱れがちな写真部の部員として真面目に活動し、部の模範となることだ。翼はそれが何より嬉しいと言ってくれるし、先輩としてきちんと道を示すことで後輩たちを育成することにもなるだろう。

 写真部はついこの間まで廃部の話が出ていたような部活だから、やる気のある後輩を育てることは急務なのだ。そうして写真部の基盤を盤石にすることで、翼や麗奈には安心して学校を卒業してほしかった。


 あの二人の悲願が、聖女写真部の存続であることは由紀が一番良く知っている。だから陰湿なイジメにも屈しない。聖女写真部は自分が守るのだ。

 その使命感がある限り、どんな陰口を叩かれようと、何度暴力を振るわれようと、自分はそれに耐えてみせる。


(ふう……とりあえず、今夜はこれくらいでいいかな)


 それから何度か撮影の位置や角度を試行錯誤したのち、由紀はようやく体を起こし、胸についた砂や枯れ草を軽く払った。

 首から下げたカメラは聖女写真部のフィルムカメラで、今夜どんな写真が撮れたのかは部室で現像してみるまで分からない。


 それがフィルムカメラの醍醐味だと思いつつ、実は由紀はもう一つ、自分のデジタルカメラも持参していた。

 これは今年の正月に、お年玉と初売りを利用して買ったものだ。これを使ってフィルムカメラで撮ったものと同じものを記録すれば、現像を待つまでもなく家で写真のチェックができる。まったく同じ写真というわけにはいかないが、今後の撮影のヒントくらいは拾えるはずだ。


(今夜はまず、二、三枚撮っていけばいいかな……)


 フィルムカメラでの撮影中、このアングルはいい、と感じた位置と角度を再現する。月と川を画面に収め、まず一枚、シャッターを切ろうとした。そのときだ。

 カツン、と背後で物音がして、河原の石が由紀の隣に転がってきた。自分以外に人がいるのかと思い、はっとして振り返る。

 ところがそこに、それらしい人影は見当たらなかった。由紀の背後には緑に覆われた土手があり、その上に立つ街灯の明かりで麓まで明るいが、その土手の上にも人がいる気配はない。


(……気のせいかしら)


 と由紀は首を傾げたが、そのとき、何とも言えない不気味さを感じた。

 まるで誰かに見られているような、そんな気配を間近に感じる。じっとりと肌に触れてくる、生温かい風が吹く。


(何か、いやだ)


 由紀は、何やら急に恐ろしくなった。そこは川のすぐ傍で、夏の夜とは言え先程までは川面から冷たい風が吹いていたのだ。

 とにかく今日はもう、さっさと撮影を済ませて帰ろう。正体の見えない恐怖に急き立てられながら、由紀は再びカメラを構えた。

 次の瞬間、由紀は「ヒッ」と息を呑んで目を見開き、目の前にあるカメラの画面を凝視する。


 蒼白い霧のようなもの。画面に映り込んだそれが、こちらを覗き込む人間の顔に見えた。

 大声で悲鳴を上げたかったが、喉が引きって声が出ない。全身から汗が噴き出し、恐怖で凍りついた体は瞬きさえさせてくれなかった。

 カメラを放り投げたいのに、両腕が言うことを聞かない。まるで何か、見えない力に腕を押さえられているかのようだ。


 見開かれた由紀の目から、恐怖のあまり涙が溢れた。

 声が出ない。人の顔。次第にはっきりとしてくる。由紀を見て、笑った。

 蒼白い霧。由紀へ向かって伸びてくる。いやだ。心で叫び、首を振りたかったが、やはり体は動かなかった。


 それは一体いつの間に画面の外へ出たのだろう。

 目と口だけが刳り抜かれた人間の顔が由紀に迫った。

 ようやく微かに零れた悲鳴は、しかし、すぐに掻き消えた。

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