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18/30

先輩とケーキと恋心

 放課後のチャイムを背中で聞きながら、俺は舞、依理子えりこと共に校門を出た。

 今日は写真部の活動日ではないので学校に残る理由もなく、まっすぐ家に帰るだけだ。


 昼休みの一件は、氷室と二年生の学年主任にすべての事情を話し、学校側で厳正に対処する、との回答をもらった。

 昨今、イジメの発生という後ろ暗い事実は隠蔽するのが学校の体質と思われがちだが、今回ばかりはイジメの現場を教師が目撃してるわけだし、おざなりにはできないだろう。


 もちろん相澤先輩の要望どおり、この件は木更津先輩には内密にしておいてもらうという約束も取りつけた。三年生はこれから受験も控えているし、将来を決める大事な時期に余計な心配をかけたくないのだ、ともっともらしい言葉を並べた甲斐あって、先生方も一通り納得してくれたようだ。


「はー、それにしても、一時はどうなることかと思ったよねー。依理子ってば、ほんと熱血漢なんだから」

「だから、〝漢〟は〝男〟だって言ってるでしょ。だいたい熱血でもないし」

「でも、正直ちょっとびっくりしたよ、依理子。依理子って確かに毒舌で性格キツいなと思ってたけど、相澤先輩のために二年生にも怯まず喧嘩売りに行くなんて、なかなかできることじゃないよね」

「さやか。それ、褒めてるの、けなしてるの?」

「も、もちろん褒めてますとも!」


 隣を歩く依理子にギロリと睨まれ、俺は若干上擦りながらも弁解した。

 本当は暗に依理子の危なっかしい性格をいさめたいという意図もあったのだが、口で戦ったところで勝てる相手でないことは、俺も嫌というほど学習している。


「でもさ、あそこで氷室先生が来てくれなかったらマジでちょっとヤバかったよね。生徒のピンチに颯爽と駆けつけてくれるなんて、氷室先生ってやっぱかっこいい~!」

「それはそうなんだけど……あの人、何で昼休みにあんなところにいたのかしら。部室棟なんて、放課後じゃなきゃ生徒さえ寄りつかない場所なのに」

「あ、それね。あたしも気になって先生に訊いたんだけどさ、あのとき先生もたまたま教室棟にいて、うちらが慌てて部室棟に走ってくのが見えたんだって。だから何かあったのかと思って、一応様子を見に行ったって」

「ふーん……ま、おかげで今回は助かったから、素直に感謝しとくけどさ」

「あ! もしかして依理子もついに先生に惚れた!?」

「あんたってさ、いいよね、いつ見ても悩みなさそうで」

「失敬な、あたしだって悩みくらいあるし! たとえば最近あんまり出会いがないなーとか、氷室先生が全然振り向いてくれないなーとか、イケメンな彼氏が欲しいなーとか……」

「さすが、脳内お花畑系女子はやっぱり違うわね」

「え? やだぁ、そんなに褒めないでよぉ」

「安心して、褒めてないから」


 あんなことがあったあとでも変わらずそんなやりとりを交わす二人に、俺はやはり苦笑を零すしかなかった。けれどもそのとき、俺は視界の端にふと見覚えのある人間の顔を見つけて、思わずはたと足を止める。

 それは昨日、俺が舞と駅に行く行かないで揉めたあの曲がり角だった。

 その角を曲がってまっすぐ行けば駅があるし、すぐそこには真人まさとさんが経営するカフェ『Sophia』がある。


 問題の人物は『Sophia』の向かい、小さな本屋の軒先で何故かそわそわと『Sophia』の方を窺っていた。

 その人物とは、昼休みの事件の間接的当事者にして我らが写真部の部長――木更津きさらづ先輩だ。


「木更津先輩?」


 半ば電柱の陰に隠れるようにしてこそこそと顔を覗かせている先輩に気づいた俺は、考えなしにそう声をかけてしまった。

 途端に先輩がびくりと跳び上がり、慌てた様子でこちらを振り向いてくる。舞と依理子の二人も、そこで初めて先輩の存在に気がついたようだ。


「あー、ほんとだー! 木更津先輩、そんなところで何してるんですかぁ?」

「しーっ! い、一之瀬、声がでかい!」


 舞がいつもの要領で声を上げた途端、先輩は更に取り乱した様子で人差し指を立てた。

 その声量は何故かぎりぎりまで抑えられており、何か後ろめたいことでもあるのかと俺たちは揃って顔を見合わせる。


「すみません、先輩。で、何やってるんですか? 端から見たら完全に怪しい人ですよ」

「い、いや……これにはちょっとわけがあって……」

「ていうか先輩の帰り道って、確か逆方向ですよね? 何でこんなところにいるんですか?」

「そ、それは……き、今日はこっちにちょっと用事が……」


 俺と依理子が続けざまに投げかけた問いに、木更津先輩はめっぽうばつが悪そうに答えた。声量は依然落としたままだし、顔も俺たちの方には向けず、視線を宙に泳がせている。

 あの溌溂として気持ちのいい先輩が、これは一体どうしたことだ。明らかに様子がおかしい先輩に、俺たちはつい眉をひそめる。と、そのときだ。


「――さやかちゃん!」


 背後から急に名前を呼ばれ、驚いた俺は反射的に声のした方向を振り向いた。

 そこには昨日と同じ白のワイシャツ姿に緑のエプロンを巻いた、真人さんの姿がある。


「あ、真人さん。こんにちは」

「え!? ちょ、さやか、この人誰!? 知り合い!? 超イケメンなんだけど!」

「舞……」


 真人さんの登場と同時に突如としてテンションを上げた舞を、俺は思わず遠い目で見つめてしまった。それは恐らく、隣に立つ依理子も同じであったに違いない。


「会えて良かった。今、学校の帰りかい?」

「はい。今日は部活がないんで、昨日より帰りが早いんです」

「そうだったのか。そちらは学校のお友達?」

「はい。同じクラスの舞と依理子です。それから、写真部の先輩の……」

「……ん? 木更津さん?」

「え?」

「ああ、やっぱり木更津さんじゃないか。久しぶりだね」

「あっ……は、はい、ご無沙汰してます!」


 そのとき、俺が紹介するより早く真人さんが先輩の名前を呼んだことに、俺は少なからず驚いた。一方の先輩は真人さんに声をかけられると、途端に真っ赤になって返事をする。

 ああ、もしかして。そんな先輩の反応を見た俺は、先輩がこんなところで隠れていた理由に何となく察しがついてしまった。

 二人が知り合いというのは驚きだけども、それよりも意外だったのは、真人さんを前にした先輩のあまりに初々しい反応の方だ。


「えーっ、もしかして木更津先輩もこの方とお知り合いなんですかぁ?」

「あ、ああ……こ、この人はあの喫茶店の店長さんで、和泉真人さん。昔ちょっと色々あって、そのとき個人的にすごくお世話になったんだ」

「いや、私はそんな大層なことはしてないけどね。良かったら少し店で涼んでいかないかい? 実はちょうど、来月出す予定の新作ケーキのモニターを探してたんだ。店に試作品があるから、ぜひ食べていってもらえると嬉しいんだけど」

「ケーキ!? 食べます、超食べますぅ! さやか、依理子、寄ってくよねっ? ねっ、ねっ!」

「うん。先輩も一緒に行きますよね?」


 真人さんが俺たち四人を誘ったことは言うまでもなかったが、俺は念を押すつもりで先輩にそう声をかけた。

 すると先輩は赤い顔のままぎくりと固まり、しかしややあってから小さく頷いてくる。

 ……何だ。男らしいと評判の木更津先輩にも、意外と可愛いところがあるんだな。

 内心そんなことを思いつつ、俺はつい笑いが零れそうになるのを必死に堪えた。

 昼休みに相澤先輩をいじめてた連中が知ったら憤死しそうな新事実だ。だけどあの件は、先輩には覚られないようにしないとな。


「おっじゃまっしまーす!」


 やがて上機嫌に声を弾ませた舞を筆頭に、俺たちは『Sophia』へと入った。

 相変わらず店の中は冷房が効いていて過ごしやすい。今日は俺たち以外にも、お茶や軽食を楽しむ客の姿がちらほらと目に入る。

 が、俺は店に入るや否やその客の間に目を走らせ、そこに絢子あやこさんの姿がないことを確認した。もしかしたら今日もまた俺を迎えに来ているのではないかと身構えたが、どうやらその心配は杞憂で済んだようだ。

 とは言え完全に油断するにはまだ早い。あの人は神出鬼没だからな。

 次は一体どこから現れるか分からない。たとえ現れたとしても、できることなら他人のフリを通したい。


「わあ、素敵なお店ですねっ! なんか大人のお店って感じ~!」

「ははは、ありがとう。まずは空いてる席へどうぞ。今、ケーキを持っていくから」


 わざとらしいくらいはしゃぐ舞にも変わらぬ笑顔を向け、真人さんは俺たちに奥の席を勧めてくれた。

 昨日俺と絢子さんが座っていた席には、子連れの主婦らしき人が座っている。母親と向かい合ってケーキを頬張った女の子は、いかにもご満悦といった様子だ。


「ねえ、ちょっとさやか。あんた、あんなイケメン店長さんといつの間に知り合ったの?」


 と、舞が声を潜めてそう尋ねてきたのは、俺たちが勧められた席に着いて早々のことだった。

 真人さんは厨房を兼ねたカウンターの方にいて、早速俺たちに出すケーキと飲み物を用意してくれている。


「あー、えっと、真人さんは知り合いの知り合いで……私も知り合ったのは最近だけど」

「じゃあ何でさっさと紹介してくれないのよぉー! 友達なのに水臭いじゃん!」

「舞。あんた、ついさっきまで〝氷室先生かっこいい!〟とか言ってなかったっけ?」

「それはそれ、これはこれ」


 キリッと腹が立つくらい凛々しい顔で答えた舞に、依理子が露骨なため息をついた。そう言えば昨日、絢子さんもこの店で似たようなことを言ってたような……。


「そう言えば、木更津先輩はどうして真人さんと知り合ったんですか? 確かさっき、前にお世話になったとか言ってましたけど、もしかしてここでバイトしてたとか?」

「い、いや、別にそういうんじゃないんだけどさ……写真を、見せてもらったんだ」

「え?」

「シーザー・カヴァーデルっていう、海外の写真家の写真集を見せてもらったんだ。日本じゃあんまり知られてない写真家らしいんだけど、すごく繊細で独特な写真を撮る人でさ」

「知ってます。日本人の自然に対する感傷に共感して写真を撮り始めたって言う、ヨーロッパの写真家ですよね。私もその人の写真、すごく好きです」

「何だ、真野まやも知ってたのか。あたしさ、あの人が撮った『希望』ってタイトルの写真がすごく好きなんだよ」

「あの、アスファルトの裂け目から空に向かって一本だけ伸びるコスモスの写真ですか?」

「そう、それだ。あの写真を初めて真人さんに見せてもらったとき、あたし、ちょうどどん底まで落ち込んでてさ。陸上選手になるのが夢だったのに、大会で大怪我して走れなくなって、なんかもう自暴自棄になってたときだった。毎日こんなにつらいなら、いっそ死んだ方がマシなんじゃないかって、そう考えてたときに真人さんに会ったんだよ。真人さんは橋の上でぼーっと突っ立ってたあたしに声をかけてくれて、家まで連れてってくれて……そこで、カヴァーデルの写真集を見せてくれた」


 橋の上。木更津先輩が何気なく口にしたその言葉から、当時先輩が何をしようとしていたのかは容易に想像することができた。

 その不吉な推測にぞっとする一方で、俺は昨日の舞の話を思い出す。

 やっぱり先輩も、陸上を辞めた直後は全然平気なんかじゃなかったんだ。真人さんがいなかったら、今頃は先輩もどうなっていたか分からない。


「そこであたし、カヴァーデルの写真にめちゃくちゃ救われたんだ。あの人の写真はどれも儚くて、だけどまっすぐで、迷いがなくて……気づいたときには、そこが人ん家なのも忘れてボロボロ泣いてた。世界はこんなに綺麗なんだって、初めて知ったような気がして……こんな世界でなら、もう少し生きてみてもいいかなって思えた。あの『希望』って写真のコスモスみたいに、固いアスファルトを突き破って、もう一回咲いてみようって」


 そう話す先輩の眼差しは真剣で、けれどもその口元には淡く優しい笑みがあった。

 そんな先輩の横顔に、俺は昼休みに見た相澤先輩のそれを重ねる。岬先輩が撮ったというあの写真の話をするとき、相澤先輩は今の木更津先輩とまったく同じ顔をしていた。

 ああ、そうか。だから余計に相澤先輩は木更津先輩に惹かれるのかもしれない。相澤先輩と同じように、木更津先輩もまた写真に救われた一人だから。

 きっと同じ感傷を持つ者同士、二人の間には何か通じ合うものがあるんだ。そう考えると、写真の持つ力って純粋にすごいと思う。


「やっぱり人ってさ、人の力に救われるもんなんだよな。本人は何気なくやったことでも、それに救われる人間だっている。あのとき改めて、人間は一人じゃ生きていけないんだなって思ったよ。人を傷つけるのも人間なら、助けるのも人間なんだって」

「なんか、すごく深くていい話ですね。あたし、今までそんな風に何かを真剣に考えたことってなかったなぁ」

「人間、生きてりゃいつかは壁にぶつかって、嫌でも考えるときが来るよ。大事なのは、〝そのとき自分はどうしたいのかって気持ちを見失わないこと。それが分からなくても、いつか見えると信じて目を背けないこと〟ってカヴァーデルが言ってた」

「先輩、もしかしてカヴァーデルの日本語版写真集持ってるんですか?」

「ああ、持ってるよ。真人さんが二冊持ってるからって、一冊あたしにくれたんだ。しかもカヴァーデルの直筆サイン入り」

「それ、私も見たいです! 昔、叔父が持ってるのを一度だけ見せてもらったことがあるんですけど、英語版だったからあとがきの部分が読めなくて!」

「それなら明日、部活に持ってってやるよ。あたしの家宝だから貸出はできないけど、その場でだったらいくらでも読んでくれていいから」

「ありがとうございます! ちょっと見せてもらえるだけでも充分です!」


 まるで人が変わったような依理子の食いつきに、俺は若干驚いて引いてしまった。が、先輩の方はそんな依理子を見慣れているらしく、笑いながら写真談義に花を咲かせている。

 だけど、〝大事なのは自分はどうしたいのかって気持ちを見失わないこと、それが分からなくてもいつか見えると信じて目を背けないこと〟……か。

 俺もそのカヴァーデルって人の写真をちょっと見てみたいな。そうしたらこんな俺にも、自分の未来を決める想いが生まれたりするんだろうか。


「お待たせ致しました。こちらが新作のカップマロンケーキとプリンフルーツケーキでございます。お飲み物には、甘さ控え目なアイスセイロンティーをどうぞ」


 それから数分後、真人さんが俺たちのテーブルに持ってきてくれたのは、二種類のケーキとグラスに注がれたアイスティーだった。

 ケーキの方は、紙製の丸いカップにすっぽりと収まったモンブラン――と言っても、他の店で見かけるモンブランよりもシックな感じで茶色みが濃い――が二つと、生クリームを挟んだスポンジの上にプリンと苺、桃、ブルーベリーなどの果物を載せたショートが二つ。

 それらがテーブルに並べられた途端、舞などは街角で有名若手俳優を見つけたような黄色い声を上げる。


「きゃあああ! 何これすごい、可愛い、おいしそう! 写メ撮ろう写メ!」

「おや、さすが写真部だね。どんなときでもしっかり写真に収めるなんて」

「いや、真人さん……舞の場合は違います。単にはしゃいでるだけです」

「これ、全部店長さんの手作りなんですかぁ!? めちゃめちゃおしゃれなんですけど!」

「ありがとう。味の方もご期待に添えるといいんだけど、マロンの方はちょっと甘すぎるかもしれないと思ってね。食べた感想を聞かせてもらえるととても助かるよ」

「じゃあ、あたしマロンの方食べまぁす!」

「それなら、先輩もマロンの方をどうぞ。うちらはプリンでいいですから。ね、依理子」


 俺がそう勧めると先輩は少し面食らったような顔をしていたものの、その先輩が何か言うよりも早く俺はマロンケーキの方を差し出した。依理子もそれで異存はないのか、何も文句を言わずにプリンケーキの方を引き寄せる。

 先輩が少しでも真人さんと話せるように、と気を遣って選んだプリンケーキだったが、味の方は「うまい」の一言に尽きた。

 プリンの上に載ったカラメルの甘さとスポンジのふわふわの食感、ついでに果物のほどよい酸味もあって、飽きがこない上に食べやすい。


 一方のマロンケーキは、スポンジの上に載ったマロンクリームに黒糖を混ぜてあるらしく、一口食べた舞が絶賛していた。

 聞けば木更津先輩は甘すぎるのが苦手らしいのだが、クリームには栗の渋みも効いていて、これなら自分でも食べられる、とのこと。ついでに言えば、真人さんが甘いケーキのお供に選んでくれたほろ苦いアイスティーが、味を調えるのに一役買ったというのも大きいに違いない。そのあたりのさりげない気遣いは、さすがプロと言ったところだろうか。


「みんな、ご協力ありがとう。この分なら来月の頭から新作を店に並べられそうだよ」

「いえいえー! あたしも店長さんのお役に立てたなら嬉しいですぅー!」

「今日はこちらからモニターをお願いした形だから、お代は要らないよ。良かったらまた今度、新作を食べに来てくれるかな」

「もちろんですよぉ! こんなおいしいケーキなら、毎日だって食べに来ちゃいますぅ!」

「舞、毎日はさすがに太るよ」

「だいじょーぶ! あたしの場合、お肉は全部胸に行くから――痛ッ!」


 そう言って得意気に胸を張った舞の頭を、ときに隣の依理子が無言のまま引っ叩いた。

 舞は涙目になって抗議していたが、依理子はツンとそっぽを向いて答えない。それは木更津先輩に対する配慮だったのか、それとも自分の胸と舞のそれを比べての嫉妬ゆえだったのか。

 ……どちらも有り得そうだったので、俺は敢えて口を挟まないことにする。


「あ、あの……真人さん」

「ん? 何だい?」


 と、そのとき、俺は隣から聞こえる先輩と真人さんの会話に何気なく視線を向けた。舞と依理子は依然向かいの席でやり合っており、二人の声は聞こえていないようだ。


「じ、実はあたし、真人さんにお願いがあって……あ、あたしたちの学校で、十月に文化祭があるんですけど、そこで今年も写真部の展示会をやるんです。それで、その、あたし、今年はこのお店の写真を展示会に出品したくて……できれば夜のお店を撮らせてほしいんですけど、これから何日か、撮影に通わせてもらってもいいですか?」


 再び顔を耳まで真っ赤にして、けれど真剣な面差しで、木更津先輩はまっすぐに真人さんを見つめて言った。

 ああ、そうか。

 先輩が昨日言っていた〝撮りたいもの〟ってのは、この店のことだったのか。

 今年の展示会のテーマは、『光』。

 それは物理的な〝光〟だけを指しているのではなくて、きっとこの店が、真人さんの存在が、先輩にとっては自分の道を照らしてくれる〝光〟なんだ。


「ああ、もちろん。こんな店で良ければ、いくらでも撮影してくれて構わないよ。ちなみに今年の聖女の文化祭はいつだったかな?」

「こ、今年は十月十九日と二十日です。十九日の午後からは一般公開もします」

「十九日というと……うん、土曜日だね。それじゃあその日は、店をお休みして展示会を見に行くよ。去年はもらったアルバムでしか木更津さんの写真を見れなかったし、この店を撮ってもらえるなら、楽しみにしておかなくちゃなぁ」


 それに、さやかちゃんたちの撮る写真も見てみたいしね。笑いながらそうつけ足した真人さんの言葉は、しかし木更津先輩にはもう聞こえていないみたいだった。

 真人さんが展示会を見に来てくれると聞いた先輩は、半ば放心状態で。真っ赤な顔で座り込んだまま、うっすらと涙ぐんだ目をきらきらと輝かせている。

 それからほどなく、俺たちは真人さんに暇を告げて店を出ることにした。あまり長居をして騒いでいたのでは他の客の迷惑になるし、真人さんにも余計な気を遣わせてしまうだろうと思ったからだ。


「それじゃあ、ご馳走様でしたー」


 四人揃ってお辞儀をして、そのまま店を出ようとする。ところがそのとき、俺は真人さんに呼び止められた。

 他の三人がそれに気づかず、一足先に店を出ていくのを横目に見た俺は、何事かと真人さんに向き直る。


「どうかしましたか?」

「いや、呼び止めてごめんね。ただちょっと絢子さんのことが心配で……何度か家に電話も入れてみたんだけど、誰も出る気配がなかったからさ。絢子さん、大丈夫そうなのかい?」

「え? 大丈夫、って?」

「私も詳しくは聞いてないんだけど、昨日の夜は何だか大変だったみたいじゃないか。できれば私もお見舞いに行きたかったんだけどね。急なことで、店を休めなかったから……」


 と、申し訳なさそうに真人さんは言ったが、俺はそんな真人さんにぽかんと間抜け面を返すしかなかった。

 〝昨日は大変だった〟って、一体何の話だ?

 俺は昨日、さやかを演じ疲れて二十一時頃には就寝したが、そのときは絢子さんも家にいたし、特にこれと言って変わったことはなかったはずだ。


「タケル君……もしかして、昨日のこと聞いてない?」

「は、はあ……実は俺、今日は朝から絢子さんに会ってなくて……朝飯とかは用意しててくれたみたいなんですけど、昨日からお互い顔を見てないんですよね」

「そうだったのか……いや、そうとは知らず引き止めてすまなかったね。それじゃあ今日は、これを絢子さんに持っていってもらえるかな」


 そう言って真人さんが差し出してきたのは、ケーキ屋でよく見かける把手とってつきの紙箱だった。閉じた箱の口の上には店名の入った金色のシールが貼られていて、ちょっとした高級感を演出している。


「これは?」

「さっき君たちに出したのと同じケーキだよ。いつもケーキの新作を出すときは、最初に絢子さんに食べてもらう約束になってるんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。それが店を開いたときからの約束でね。破ると絢子さんが怒るんだ。だから今回のケーキの試食第一号は君たちだってこと、絢子さんには秘密にしておいてくれるかな?」


 右手の人差し指を立て、真人さんはちょっと悪戯っぽく笑ってみせた。

 それを聞いた俺もつられて笑い、真人さんからケーキの箱を受け取りながら言う。


「分かりました、内緒にしておきますよ。あの人、確かに怒ると怖そうですもんね」

「ありがとう、恩に着るよ。帰りはくれぐれも気をつけてね」

「はい。また来ます。今日はご馳走様でした」


 改めてケーキの礼を言い、俺はようやく真人さんと別れた。

 店の外では俺が出てこないことに気づいた舞たちが待っていて、こっちこっち、と手を振ってくる。


「さやか、店長さんと何話してたの? 二人だけの密談? てか、その箱どーしたの?」

「これは、ちょっと知り合いの家まで届けてほしいって頼まれちゃって……そう言うわけだから私、今日も寄り道して帰る。舞たちは先に帰ってて」

「いいなぁ、店長さんから頼まれ事なんて。今度あの店寄るときはあたしも誘ってね」

「う、うん……でも、氷室先生のことも忘れないであげてね」


 木更津先輩が目の前にいる手前、俺は何となく気まずくなって舞にそう釘を刺した。それから舞、依理子、先輩の三人とも別れ、俺は月宮邸への帰路に就く。

 それにしても、さっき真人さんが言ってたのは何だったんだろうな。

 思い返すと微かな不安が胸を過ぎったが、帰ったら絢子さん本人に確かめればいいのだと言い聞かせ、俺は足早に陽炎の中を渡っていった。

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