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17/30

 聖女学内の食堂は構内の西、部室棟の隣にある第一体育館の二階にあった。

 この建物は三階建てで、一階が体育館、三階が生徒会室や茶道部、華道部用の畳部屋――ときには合宿の雑魚寝部屋としても使われるらしい――といった造りになっている。


 食堂の隣には食品や文房具が並ぶ売店もあり、第一体育館周辺は昼休みになると一段の賑わいを見せた。俺は舞、依理子えりこと三人で売店に群がる女生徒たちを横目に見ながら、一足先に体育館をあとにする。昼休みが終わるまで、あと二十分はあろうかというところだ。


「はー、冷やし中華おいしかったねー。依理子も食べれば良かったのに」

「お弁当腐らせるよりいいでしょ。それにお金も使いたくなかったからいいの」

「依理子、今月そんなにジリ貧なの? しょうがないなぁ、それじゃあたしが特別にアイスでも恵んであげよっか?」

「要らない。別に貧しくないから。ただ、私も岬先輩みたいに自分のカメラが欲しいの。だからなるべくお金を使わないようにしてるのよ」

「へー、依理子も自分のカメラ持つんだぁ。ちなみに一台いくらくらいするの?」

「私が欲しいのは十万くらい」

「じゅっ……!? 依理子、そんなお金あったら一緒にネズミーランド行こうよ! 今年は三十周年のイベントもあるし、あたしずっと行きたいと思ってたんだよね!」

「じゃあ行けば? 私は行かないけど」

「何で!? あたしとの友情とカメラ、どっちが大事なの!?」

「カメラ」

「即答しないでよ! ひどいよ! 悩むフリでもいいからしてよ!」

「ごめん。私、どんなときでも自分に正直に生きたいから」

「わーん! さやか、最近依理子がますます冷たくなっていくよー!」


 泣き真似をした舞に飛びつかれ、俺はまたしてもその胸の弾力に弾かれそうになった。

 今日は俺が弁当を忘れ、舞も売店でパンを買うつもりだったと言うので昼食を食堂で取ったのだが、この二人は食事中から終始この調子だ。

 俺もいい加減この二人のやりとりには慣れてきたものの、巻き込まれるとろくなことにならないので何とか苦笑でやり過ごしていた。それより当面の問題は、恐らく絢子あやこさんが用意してくれていたであろう本日の弁当を家に置いてきてしまったことだ。


 今朝は慌てていたせいで記憶が朧気なのだが、確か昨日と同じ下駄箱の上に弁当の包みが置いてあった……ような気がする。

 それを視界の端に留めておきながらすっかり持ってくるのを忘れてしまったとなれば、帰ってから絢子さんにどんな折檻をされるか分からない。


 どうしたもんかな、と内心物憂いため息をつきながら、ときに俺は何気なく隣の部室棟へと目をやった。

 依理子がカメラの話をしたので思い出したが、そういや昨日から結局一枚も写真を撮っていない。カメラも家に置いてきてしまったし、明日の部活までに何か一枚くらい撮っておかなきゃマズいかなと、俺は写真部の部室がある三階へと目線を上げた。

 そのときだ、俺がそれを発見したのは。


「ねえ、あれ……相澤先輩じゃない?」


 そう言って俺が指差した先には、見覚えのある後ろ姿があった。

 相澤先輩と思しいその人影は三階廊下の窓に背を向けて立ち、俯いたり首を振ったりしている。

 足を止めて更に目を凝らすと、そこには先輩の他に数人の女生徒がいるみたいだった。舞や依理子もそれに気づいたようだが、ときに依理子が顔色を変えて三階の窓を凝視する。


「ちょっと……あれ、ヤバいかも」

「え?」

「相澤先輩と一緒にいるの、同じ二年の先輩だよ。しかも前に舞が言ってた、木更津きさらづ先輩のファンクラブの」

「えっ。そ、それってもしかして、氷室先生のファンと一緒に写真部に流れてきた?」

「そう。あの人たち、前に相澤先輩のことすごい勢いで罵ってた。相澤先輩が木更津先輩に気に入られてるからって」

「ってことは……あれってイジメ?」


 俺がわずかに頬を引きらせて尋ねると、舞は青ざめ、依理子は無言で再び棟を見上げた。

 言われてみれば窓際で相澤先輩を囲んでいる女生徒は、みんな険しい顔で先輩に詰め寄っている。とても穏便な話し合いの輪、という空気ではなさそうだ。


「どっ、どうしよ!? もしイジメだったら、誰か先生呼んできた方が良くない!?」

「そんなの時間がもったいない。私が止めにいく」

「ちょ、ま、待ちなよ依理子! 相手は二年の先輩だよ!?」

「関係ない。二年だろうと三年だろうと、精神年齢がガキなら〝大人〟がさとしてやらないと分かんないのよ」


 いつもどおり淡々と毒を吐くや否や、依理子は迷わず部室棟に向かって駆け出した。怖いもの知らずとはまさにこのことだ。俺は愕然として舞と顔を見合わせるも、このまま依理子と先輩を放っておくわけにもいかず、すぐさまあとを追いかける。

 三階まで一気に階段を駆け上がった。かしましい女の怒鳴り声が聞こえる。

 見れば人気のない部室前の廊下で、女生徒の一人が相澤先輩に口汚い言葉をぶつけていた。先輩は囲まれ逃げ場がない中で、じっと俯きながらその暴言に耐えている。


「だから、もう二度と翼先輩に近づくなっつってんの! 写真オタクの根暗のくせに、勘違いしてキモいんだよ! どうせ自分だけが特別先輩に気に入られてるとか思ってんでしょ? だからそうやってうちらのこと見下してんだよね? でもその前に一遍自分の顔鏡で見た方がいいよ、ブス!」

「わ、私は……私は、みんなのこと、見下したりしてない……」

「は? 何ブツブツ言ってんの? 聞こえないしキモいんですけど」

「ていうかさ、うちらのこと見下してないって言うなら、その証拠にさっさと写真部から消えてくれない? 前からそう言ってるよね? 日本語通じないの?」

「そ、それだけは……嫌、です」

「あ?」

「それだけは、嫌です。この学校で先輩と一緒にいられるのも、あと半年だけだから……だから私は、一秒でも長く先輩と一緒にいたい。最後まで先輩の傍にいたい。先輩に恩返しするためにも……私、写真部は絶対に辞めません」

「……っ! 何それ、ふざけてんのこいつ!?」


 一際甲高い声を上げた女生徒が、真っ直ぐな目をして顔を上げた相澤先輩を乱暴に突き飛ばした。そのせいで先輩は窓にぶつかり、痛みでうずくまってしまう。


「相澤先輩!」


 これ以上はさすがに見過ごせないと、俺たちは声を上げて先輩たちへと駆け寄った。

 足音を聞いた女生徒たちは一瞬怯んだようにこちらを振り向いたが、やってきたのが年下の一年だけだと知ると、途端に口元を歪ませる。


「何、あんたら? うちら今取り込み中なんだけど。部外者はどっか行ってくんない?」

「ってかこいつ、あのクッソ生意気な写真部の一年じゃん。ガキのくせに身のほど知らずだとは思ってたけど、今度は何? 仲のいい先輩助けて正義漢気取り? あははっ、馬鹿みたい! そーゆーの超サムいんですけど!」

「たかが一歳年上なだけで何もかも勝ったような気になってる勘違い女よりマシです。ていうか年上面する割に〝正義漢〟って、日本語間違ってるし。正義漢の〝漢〟って、〝男〟って意味ですよ。そんなことも知らないんですか? 年上なのに」


 聞いてるこっちがぞっとするような痛言を、依理子は相変わらず淡々と二年生の集団にぶつけた。

 それがあまりに非の打ちどころがない正論だったがゆえに、相澤先輩以外の二年生はたちまち顔を真っ赤にする。


「他人の日本語能力を心配する前に、自分の心配をなさった方がいいですよ。いっそ道徳の授業がある小学校からやり直した方がいいかもしれませんね。相澤先輩、大丈夫ですか?」

「ま、真野まやさん……」

「いちいちこんな低レベルな人たちを相手にする必要なんかありませんよ。行きましょう」


 抑揚もなく言って、依理子は当惑顔をしている相澤先輩へと手を差し伸べた。ところがそのとき、パンッと乾いた音が廊下に響き、俺と舞は息を呑む。

 依理子に正論を吐かれた二年生の一人が、依理子の頬をしたたかに打った音だった。その形相はもはや鬼のそれだったが、頬を腫らした依理子はそれでも顔色を変えず、相手に冷ややかな視線を返す。


ちましたね。人間って反論のしようがない正論を言われると、暴力を振るうしかなくなるんですって。つまり今、先輩たちは私の言うことが正しいと認めたってことですね」

「うるせえんだよガキ! 二度とうちらに生意気な口利けねーようにしてやる!」

「依理子!」


 逆上した先輩の一人が依理子の髪を引っ張り、再び手を振り上げた。それを見た舞が悲鳴を上げたのを聞きながら、俺はとっさに依理子と先輩の間へ飛び込んでいく。

 怖いとかマズいとかヤバいとか、そんな感情ばかりが噴き出して、正直ここから逃げ出したかった。

 けれども俺は男だ。この中でたった一人の男だ。

 なら、依理子は俺が守ってやんなきゃ。

 たとえ体は女でも、心が男なら。

 依理子も相澤先輩も間違ったことは言っていないと、心が叫んでいるのなら。


 勇んで猛れ、俺!


「暴力反対、ですッ!」


 腹の底から叫ぶと同時に、俺は依理子の髪を掴んでいた先輩の手を、自分の中の恐怖ごとがむしゃらに振りほどいた。

 そのまま依理子の体を後ろに押しやって突き放し、次いで掻き分けた人の間から、茫然と立ち尽くしている相澤先輩を引っ張り出す。

 その相澤先輩を更に依理子たちの方へ押しやったところで、二年生の一人に突き倒された。


 そこへ次々と鬼の形相をした二年生が迫ってくる。ああ、やべえな。そういや聖女の生徒って、自分が好きな相手のためなら他人の足も平気で折っちまうんだっけ。

 さやかの足を折られたら喜与次さんに顔向けできない。そんなことを頭の片隅で考えながら、振り上げられた拳からとっさに頭を庇う姿勢を取った――そのときだ。


「お前ら、何してる!」


 突如響き渡った怒声。それは紛れもなく男の声だった。俺は二年生の一人に胸ぐらを掴まれたまま、ぽかんとしてその声の主を見やる。

 ――氷室。

 またお前か。どうしてここに、という疑問より先に、そんな感想がぽろりと心から転げ落ちる。


「やべっ……逃げよ!」


 怒りで我を失っていた二年生も、これにはさすがに肝を潰したらしい。四、五人の集団は慌てて氷室に背を向けると一目散に逃げ出した。

 その拍子にいきなり胸ぐらを放された俺は、身構える暇もなくごちんと床に頭をぶつける。痛みで間抜けな声が出た。それを聞いた舞たちが血相を変えて俺の傍に駆け寄ってくる。


「さやか、大丈夫!? 今のでまた記憶飛んだ!?」

「い、いや、大丈夫……依理子と相澤先輩は? 怪我ありませんか?」

「私は平気。でも、真野さんが……」

「私も平気です。こういうのには慣れてますから。だけど、さやか。あんたは無茶しすぎ。無駄にハラハラさせないでよ」

「私だって依理子に相当ハラハラさせられたよ。だからこれでおあいこ」

「……ありがとう、助けてくれて」

「い……いいよ、これくらい。友達なんだから」


 言ってから、ズキリと胸が痛むのを俺は感じた。

 何が〝友達〟だ。本当は赤の他人のくせに。

 だけど依理子が心底ほっとしたように、それでいて泣き出しそうに笑うから、俺はそれ以上何も言えなかった。

 思えば依理子の笑った顔って、初めて見たような気がする。何だよ、笑うと意外に可愛いじゃんか。時々こんなレアな笑い顔が見れるから、さやかや舞は依理子の友達をやめずにきたんだろうか。


「で、お前ら。さっきの騒ぎは何だったんだ。逃げたあいつらも写真部の生徒だな?」

「ひ、氷室先生ぇ……あたし、あたし、超怖かったですぅー!」


 と、ときに目を潤ませ、どさくさに紛れて抱きつこうとした舞を、氷室がサッと涼しくかわした。

 おかげで抱きつく先を失った舞がよろよろと廊下に倒れ、まるで舞台上の悲劇のヒロインみたいにがっくりとうなだれている。


「先生、さっきの二年生、全員退部させて下さい。あの人たち、ここで相澤先輩をいじめてたんです。私たちがそれを止めに入ったら、暴力まで振るってきました」

「なるほど。その頬は、さっきの連中にやられたのか?」

「はい。相澤先輩も突き飛ばされましたし、さやかも見てのとおりです」

「相澤は日常的にイジメを受けてたのか? それとも今日だけ、たまたまか?」

「わ、私は……」


 氷室から尋問口調で問われると、相澤先輩は返答に困ったように俯いた。

 何か答えられないような事情があるのだろうか。それとも相手が氷室だから答えたくないのだろうか。

 俺だったら後者も有り得る。が、当の氷室にはそんな生徒の心の機微など分からないらしく、更に抉るような口調で尋ねてくる。


「どうなんだ、相澤。日常的なイジメだったなら、相手はいつもあの連中だったのか?」

「あ……あの、その……」

「氷室先生、相澤先輩はあんなことがあったあとで、ちょっと混乱してるんです。落ち着いたら一緒に職員室まで行きますから、今は依理子を保健室に連れていって下さい」


 と、先輩がどうにも答えづらそうにしているのを見かねた俺は、そう言って氷室の気を逸らすことにした。

 本当は氷室と必要以上の関わり合いなんて持ちたくないんだがこの際しょうがない。そんな俺の意図を察してくれたのか、依理子もまた先輩を一瞥いちべつして頷くと、おもむろに立ち上がって言う。


「さっき逃げた先輩たちなら、私も全員顔と名前が分かります。詳しいことは保健室に行ってからお話してもいいですか?」

「……そうか。なら、まずはお前たちから話を聞こう。相澤、あとで職員室に顔を出せるな?」

「は、はい……大丈夫です」

「それじゃあ、落ち着いたら蓮村はすむらと二人で来るように。午後の授業には出なくてもいい。俺から担任と学年主任に話しておく。蓮村、相澤を頼んだぞ」

「分かりました」


 何だかずいぶん大事になってしまったな、と思いながら、俺は依理子と共に階段へ向かう氷室の背中を見送った。

 舞は途中までどうしたら良いか分からないという顔をしていたので、俺が目だけで〝依理子と一緒に行け〟と促してやる。

 舞はそれに頷くと、最後まで俺たちを気にしながら階段の方へと姿を消した。残された俺と相澤先輩はしばらく座り込んだまま、三人の足音が遠くなっていくのを聞いている。


「――どうしよう……」

「え?」

「この話、翼先輩の耳に入ったらどうしよう……私、先輩を傷つけたくなかったのに……だから全部黙ってようって決めたのに、どうしよう……っ」


 やがて足音が聞こえなくなった頃、突然そう言って泣き出してしまった先輩に、俺はまたしても間抜け面を晒してしまった。

 ああ、そうか。先輩が事情を話したがらなかったのはそういうわけか。

 確かに木更津先輩の性格なら、自分のせいで相澤先輩がいじめられてるなんて知った途端、自分を責めてしまいそうだ。先輩と話をしたのは昨日一日だけだけど、何となくそんな気がする。


「だ、大丈夫ですよ、相澤先輩。それなら氷室先生にも、このことは木更津先輩には内緒にしてて下さいって言えばいいんだし、私たちも絶対に他言はしませんから」

「ほ……本当に? 大丈夫、っ、かなぁ……っ」

「本当です、大丈夫です。あとで職員室に行ったら、先生方に一緒にお願いしましょう。だからほら、泣かないで下さい。目、腫らしたまま木更津先輩にバッタリ会ったりしたら、逆に言い訳に困っちゃいますよ?」


 よもや二日連続で泣いてる女子を慰める羽目になろうとは、と思いつつ、俺は言葉を尽くして先輩を落ち着かせようとした。

 するとそれを聞いた先輩も、頷きながら「ごめんね」と繰り返し、何度も何度も目尻に浮かんだ涙を拭う。


「私、駄目だね……一年生の蓮村さんや真野さんが落ち着いてるのに、一人だけ取り乱して……こんなんじゃ、先輩失格だね」

「そんなことないですよ。だけど先輩、本当に木更津先輩が好きなんですね。誰かのことを泣くほど心配するなんて、なかなかできないですよ」

「そ、そう、かな……本当は翼先輩みたいに、私ももっと強くなりたいんだよ。先輩はいつだって私の憧れなの。あの人は、私に生きる希望をくれた人だから……」


 ――生きる希望。相澤先輩の口から予想外に大きな言葉が出てきたのを聞いて、俺は思わず目を丸くした。

 相澤先輩もそんな俺の反応に気づいたようだ。赤くなった目を上げてにっこりと微笑むと、立ち上がりざま俺に手を差し伸べてくる。


「来て。蓮村さんにも見せたいものがあるの」


 言うが早いか先輩は俺の手を引いて、すぐそこにある写真部の部室へと入った。どうやら先輩はこの部室に用があって来たところを先程の二年生に尾行けられ、囲まれたようだ。本来なら職員室に行って借りてこなければならない部室の鍵を先輩が持っていたことから、何となくそんな想像がつく。


「これ」


 やがて先輩が席に着いた俺の前に持ってきたのは、一冊のアルバムだった。

 アルバム、と言っても学校の卒業アルバムのような、あんな立派なものではない。表紙に『平成二十三年度聖繍せいしゅう写真部フォトアルバム』と書かれているから辛うじてそれが分かるような、手作り感満載のアルバムだ。


 けれどもその中から相澤先輩が真っ先に見せてくれた写真に、俺は思わず息を飲んだ。

 聖女のロゴが入った臙脂色のジャージと白いティーシャツを着て、青空を背景に宙を翔ぶ木更津先輩を至近距離から撮った写真。


 画面の右下に辛うじて白黒の枠が写っていることから、ハードル跳びの最中の写真なのだと分かった。

 真っ直ぐに前だけを見つめ、惚れ惚れとするようなフォームで翔ぶ先輩。

 その背中に、羽が生えている。作り物ではない。背景の青天に浮かぶ雲が、ちょうど半分先輩の陰に隠れて、真っ白な羽が生えたように見えるのだ。


 まるで意識が吸い込まれそうなほど完成された構図。

 その写真の撮影者は、『一年一組 岬 麗奈れいな』となっていた。

 作品のタイトルは、『翼』。


 その写真のあまりの美しさに俺が絶句していると、これが一昨年の文化祭で大賞を獲った作品だと相澤先輩が教えてくれた。

 確か一昨年の展示会のテーマは、『夢のある景色』。

 まさしく、これだ。人に夢を見させてくれる写真。こんなに心を揺さぶる写真を、俺はこれまでに見たことがない。

 何と形容したらいいのか分からない、それでもこの心の底から衝き上げてくる感情は、どんな名前で呼ぶのが相応しいのだろう。


「すごいでしょ? 私はこの写真を見て、翼先輩に憧れた。真野さんは麗奈先輩に憧れた。だから写真部に入ったの。ここに入れば、もっとたくさんの夢を見られるような気がして」

「夢……」

「私、こんな性格だから中学の頃もよくいじめられてね。二年の終わりくらいからあんまり学校に行けなくなって、引き籠りみたいになってたの。だけど二年前、お母さんに誘われて行った聖花祭でこの写真を見たとき、涙が溢れて止まらなかった。どうしてあんなに泣いたのか、今でもよく分からない。だけど翼先輩の目があんまり真っ直ぐだから、この写真にこう言われたような気がしたの。〝生きろ〟って」


 だから死に物狂いで勉強して、私はこの学校に入ったんだ、と、相澤先輩は少しだけ照れ臭そうに笑って言った。

 だけど俺は、そんな相澤先輩の話にもらい泣きしそうになって。

 必死に涙をこらえながら、目の前にある木更津先輩の真剣な横顔を見つめる。


 〝生きろ〟。

 確かにそう言われたような気がした。

 本当に、こんな俺でも生きていていいのだろうか。両親を欺きながら、友人を裏切りながら、それでも生きていていいのだろうか。

 この写真を絢子さんに見せたら、あの人は何て言うだろう。その答えを、少しだけ聞いてみたいような気がした。


 相澤先輩はこの写真を見る度に、心の底から勇気が湧いてくると言う。

 それなら俺も今しばらく、この写真から勇気をもらっておこう。

 職員室に行けば、きっと舞と依理子が待ってる。

 あの二人にもう一度、ちゃんと笑いかけられるように。

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