老犬と少女
「――起きろ、オカマ! 朝だぞ!」
キーンという耳鳴りと共に、犬の鳴き声と耳障りな男の声が左耳を貫いた。
途端に俺は眉を顰め、不愉快極まりない心境のまま目を開ける。そこにはふさふさの尾を振った愛くるしいパピヨン犬がいて、これで中身がDQNだなんて絶対詐欺だ、という口惜しさを寝起きの頭に撃ち込んでくる。
俺が蓮村さやかに生まれ変わってから、四日目の朝だった。史上最悪の目覚ましとして枕元に座った翔の背後には縁側へと続く明かり障子があり、誰が開けたのか既に雨戸は払われている。
おかげで部屋の中は明るく、朝日を透かした障子紙が真っ白に輝いて見えた。そこは当座の間、俺の部屋として使っていいと絢子さんから宛がわれた広さ八畳ほどの座敷だ。
とは言え室内にあるのは布団を収うための押入れと箪笥、姿見、戸棚くらいで、あとは小さな卓が一つ、出番に備えて壁に寄りかかっているだけの殺風景な部屋だった。
テレビやパソコンなどもちろんない。何しろこの家にはレンジもエアコンも洗濯機もないのだ。
唯一存在する電化製品と言えば、あの黒電話と台所の冷蔵庫くらいなもので、風呂さえも薪で焚くと聞いた俺は真面目にひっくり返りそうになった。
まるで一昔前にタイムスリップしたような気分だ。どうやら絢子さんは、昨今世に氾濫している文明の利器というものが大層お嫌いであるらしい。
「よう、起きたか、オカマ野郎。起きたんならさっさと着替えて顔洗って飯食って学校に行きやがれ。モタモタしてっと遅れんぞ」
「オカマって言うなメス犬。あと朝っぱらから耳元でキャンキャン吠えるなメス犬」
「メス犬って呼ぶんじゃねえ! オレのことは翔様と呼べっつってんだろ!」
「はいはい、分かったからさっさと出てけよ翔様」
全身の毛を逆立たせていきり立っている翔を適当に追い出し、俺はため息と共にぱしりと襖を閉めた。まったく、朝からあんな調子で騒がれたんじゃたまったもんじゃない。
あ、ちなみに〝メス犬〟というのは、あいつの入っているパピヨンの体が実はメスらしいという情報を得て俺がつけてやったあだ名だった。
教えてくれた喜与次さんには感謝したい。この家に暮らす奇妙な住人たちの中で、俺の味方をしてくれるのはあの人だけだ。
俺は部屋から閉め出された翔の悪態が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、ようやく一人で着脱可能になった浴衣を脱いだ。
これを寝間着として渡された当初は着方も帯の締め方も分からず悪戦苦闘したものだが、今となっては慣れたものだ。
それから鴨居に引っ掛けていた制服を取ろうとしたところで、部屋の隅の姿見に映った自分の姿が目に入った。
そこにいるのは、ほとんど全裸に近い格好で素肌を晒した〝女子高生〟。途端に俺はかあっと全身が熱くなり、思わず姿見から目を逸らす。
この家での暮らしにはいくらか慣れてきたものの、俺は未だに自分の新しい体を直視するということができずにいた。
普通に鏡を覗き込むという行為にさえ必要以上の勇気を要する。そこに映る赤の他人が自分なのだと認めることに、頭が今も抵抗を示すのだ。
そもそもこの体は借り物で、元は蓮村さやかという別人のもの。つまり他人の、しかも同年代の女子の体をまじまじと見つめるというのはさすがに良心が咎めた。
けれども俺は、残り数日の間に今後の自分の生き方を決めなければならない。今は絢子さんに協力するという理由でひとまずこの体に入ることを肯じているが、その協力関係が途切れたあとはどうすべきなのか。
やはり女として生きていくことなどできないと死を選ぶか、それとももう少し蓮村さやかとして生きてみるか。選べる道はその二つのうちどちらか一つだろう。
そんなことを考えながら、俺は恐る恐る姿見を振り向いてみる。男のそれとは違い、やわらかく白い肌。腰から下半身にかけてのなめらかなくびれ。ふっくらと丸みを帯びた尻。
そして何より目を引くのは、胸についた二つの膨らみだった。
子供から大人の体へ移ろおうとする、未熟と成熟の間で揺れる体。ようやくそれを直視した俺は姿見と正面から向き合い、乳房をそっと両手で包み込んでみる。
何と表現したらいいのか分からないやわらかさだった。思わず頬が上気しかけるが、これは自分の体だと呪文のように言い聞かせる。
(俺、本当に女になったんだな……)
今更ながらそんな実感を噛み締めつつ、俺はしばらくの間ぼうっと姿見の前に立ち尽くしていた。
仮にこのまま女として生きることを選んだとして、俺は将来誰かと結婚し、子供を産んだりするのだろうか。生まれてこの方十六年、男として生きてきた俺に、そんな人生が受け入れられるのだろうか。
かと言ってこの体を捨てるとすれば、あとは死んで成仏するしかない。絢子さんたちの言っていた〝あの世〟というものが本当に存在するのかどうかは知らないが、どちらにしろ死ねば何もかも関係なくなる。その時点で、武海タケルとしてのすべてが終わる。
どちらの未来を想像しても、それは俺に漠然とした不安を与えるだけだった。
こんなことならいっそあのとき大人しく成仏してしまった方が良かったんだろうか。だけど昨日、両親に自分の想いを伝えられたことを良かったと感じていることもまた事実で――
「――おう、タケル、起きておるか。朝食の支度が……」
そのとき、俄然背後から聞こえた呼び声で俺ははっと我に返った。振り向けばそこには自力で襖を開けて入ってきたらしい喜与次さんの姿がある。
一方の俺はぼんやりと物思いに耽っていたせいで、未ださやかの胸に触れたままだった。
そんなポーズのまま俺が姿見の前に突っ立っていたところを、喜与次さんはバッチリ目撃してしまったらしい。
「……すまん。邪魔したの」
「ち、違う!! 違うんだ喜与次さん、誤解だ!!」
直前までのシリアスな思考もすべて吹っ飛ぶ勢いで、俺はこちらに背を向けた白黒のパピヨン――喜与次さんに必死の形相で訴えた。
が、喜与次さんは一度もこちらを振り向かず、哀愁漂う後ろ姿で立ち去っていく。ああああ、まずい、今すぐあとを追って無実を主張しなければ!
とは言え裸にパンツ一枚という格好のまま部屋を飛び出すわけにもいかず、俺は大慌てで箪笥へと飛びついた。
そこから先日、絢子さんにつけ方を教えられたブラジャーなるものを引っ張り出し、目の前に広げたところでまた小っ恥ずかしくなる。
だがこの非常事態にいつまでも一人で赤面しているわけにはいかない。俺は急いでストラップに腕を通すとカップを胸に当て、次いで背中のホックを留めようと両手を回した。
が、これがなかなかの曲者なのだ。上下に二つ並んでいる小さなホックをもう一方の留め具に引っ掛ける、ただそれだけなのだが何分見えないので難しい。
俺は何度も留め具に逃げられ、意味もなくくるくると回りながらようやくその作業を成功させると、次にキャミソールを着て制服へと手を伸ばす。
臙脂色のカラーがついた上着を身につけ、未だ穿き慣れないスカートに両足を通した。
股がスースーすると泣き言を言いながら紺色のソックスを履き、最後に黄色のリボンを首に引っ掛けて一目散に茶の間を目指す。
「おはようございます!!」
茶の間には既に絢子さんがいるものと想定し、俺は勢い込んで開けた襖の先へと飛び込んだ。
ところがそこに絢子さんの姿はない。俺の分と思しい一人前の朝食が卓に乗っているだけだ。
昨日はここで一緒に朝食を取っただけに、俺は何となく拍子抜けした。ともあれひとまず用意された食事の前に腰を下ろせば、ふと目の向いた縁側に、こちらへ背を向けて座る喜与次さんの姿を発見する。
「あっ、あの、喜与次さん、さっきは……」
「いや、言わんでいい。心配せんでも、先程見たものは誰にも言わんから安心せい。こう見えてわしも口は堅い方じゃ。人間、誰でも気の迷いというものはある」
「だ、だからあれは誤解なんだって! 俺は別にやましい気持ちがあったわけじゃ……!」
「しかしの、タケル。できることならその体は大切にしてやってくれまいか。既におぬしのものとなった体についてわしがとやかく言うべきではないし、そんな権限がないことも分かっておる。それでも、やはりの……孫の魂を守ってやれなんだ分、せめて残った体だけでも何とか守ってやりたいんじゃ」
「孫?」
唐突に喜与次さんの口を衝いて出たその単語に、俺は図らずも首を傾げた。
すると喜与次さんはおもむろにこちらを振り返り、一度だけ深く頷いてみせる。
「その体の元の持ち主、蓮村さやかはわしの孫じゃ。おぬしにはまだ話してなかったかの」
「えっ。ま、孫って、それじゃあ舞が言ってたのは……」
〝おじいちゃんのところには行くな〟。つい昨日、学校からの帰り道、舞は確かにそう言っていた。
あのときはわけも分からずその話を聞いていたが、あれは喜与次さんのことを言っていたのか。予想もしていなかった展開に、俺はつい目を見開いて聞き返す。
「そ、そういや俺、さやかの家族について何にも知らねーんだけど、さやかの家はここじゃなくて青女町にあるんだよな? 他の家族はさやかのこと心配してねーの?」
「ああ。さやかの身に起こったことは、既に両親にも伝えてある。娘夫婦には、さやかは死んだのだと納得してもらった。いずれこんなことになるような気はしていたと、半ば諦めた様子じゃったがの……娘には、本当にすまぬことをしたと思っている」
――さやかは死んだ。下を向いた喜与次さんが紡いだその言葉が、やけに重い響きを持って俺の頭を殴りつけた。
そうだ。俺はどうも、事実をあまりに軽く認識していたような気がする。俺が初めてこの家に来た日、喜与次さんはこう言っていたはずだ。さやかは〝肉体が生きているにもかかわらず、魂だけがこの世から消えてしまった〟と。
俺はその事実の重さを理解していなかった。体が生きているということは死んだことにはならないのだろうと、何故だか楽観的に考えていた。
けれどよくよく考えてみれば、〝魂が消える〟ということは〝人格が消える〟ということではないか。
つまりさやかは、神羅によって〝殺された〟。
「わしは人であった頃、この町で常民と霊能師を繋ぐ仲介屋をやっておっての。霊現象や科学では原因を解き明かせぬ問題を抱えた者に、それを解決できる霊能師を紹介しておった。しかしそんな職業柄、周りには人の理解を超える力を持った者ばかりが集まっての。わしの娘……つまりさやかの母親はそんなわしを気味悪がり、高校を卒業すると同時に家を出て、ほとんど顔を見せることもなくなった」
「……」
「じゃが、これも因果というものかの。やがて娘が生んだ孫は、果霊質という特異な体質を持った娘じゃった。ゆえにさやかは似た境遇の知人が多いわしを慕い、母親の目を盗んでわしに会いに来るようになったのじゃ」
「果霊質?」
「うむ。霊能師というものには二つあっての。一つは絢子のように、強い霊力を魂に宿して生まれた者。これを種霊質と言う。もう一つは、霊力が魂よりも肉体に偏って生まれた者。これを果霊質と言う。〝種〟とか〝果〟とか言うのは、人を果実に見立ててのことじゃ。〝種〟である魂の力は子孫に遺伝するが、その魂を包む〝果肉〟、つまり肉体に宿った力は一代限りで、子や孫に受け継がれることはない」
「なるほど。この前この体には霊感があるって言ってたのは、そういうことだったのか」
だから俺には、動物の肉体に入っている翔や喜与次さんの声が聞こえる。この不思議な現象のカラクリはそういうことだったのかと、俺はようやく合点がいった。
ちなみに喜与次さんの話では、たとえ霊感を持っていなくても、魂だけの存在になれば誰でも他の魂が見えたり、念話――いわゆるテレパシーというやつだ――を聞くことができるようになるらしい。俺には生前霊感など皆無だったのに、迎えに現れたサリーの声が聞こえたのはそういう理由だったようだ。
「娘はわしに近づくなとさやかにきつく言っておったようじゃが、さやかも他人とは違う力を持って生まれたことを悩んでおってのう。ゆえにさやかは絢子たちによく懐き、わしもここへは来るなと強く止めることができなかった。しかし、さやかはそのせいで……」
「神羅に狙われた?」
「左様。神羅が探しておったのは果霊質を持つ若いおなごだったのだ。そこでやつはこの町で仲介屋をしていたわしのもとを訪れ、情報を引き出そうとした。折悪しく、さやかもそのときわしを訪ねてきておってのう……結果、さやかは突如現れた神羅に魂を抜かれ、二度と元の体には戻れぬよう、その場で魂を消されてしもうた」
俯いて表情の見えない喜与次さんの声が、震えていた。そのとき俺の体を駆け抜けた感情を、人は何と呼ぶのだろう。
恐怖。悲愴。怒り。
どれを取っても違うようでいて、それらに類似する感情。
それはまるで体を頭から爪先まで駆け抜ける電流のようだった。俺は朝食の箸を取ることも忘れ、ただ凝然とうなだれた喜与次さんを見つめている。
「わしが肉体を失ったのもそのときじゃ。神羅はさやかを逃がそうとしたわしを刺し、肉体を殺した。そのまま魂まで消されそうになったところを、翔から話を聞いて駆けつけた絢子に救われての。さやかの肉体が神羅の手に渡ることを防げたのも、絢子がやつと戦い遠ざけてくれたおかげじゃ」
「だ、だけどそれじゃあ、翔のやつもそのときに?」
「――違えよ。オレが魂を抜かれたのは、キヨじいたちよりもっと前だ。野郎、いきなりオレの部屋に現れたかと思ったら、〝新しい器が必要だ〟とか意味分かんねえことほざいて勝手に魂ぶち抜きやがってよ。んで、魂だけになっちまったオレが、たまたま取り憑いた霊感持ちのツテを頼って、絢子に事の顛末を訴えたわけ。神羅ってイカレた野郎がなんか天岡に来てんだけどってな」
答えたのは、喜与次さんではなく廊下から現れた翔の方だった。その表情はいつになく物憂げで、翔はさりげなく喜与次さんの隣に座るや否や、盛大なため息を畳に落とす。
「ったく、マジで冗談じゃねーっつーの。たまたま出たのがお前ん家だったから、なんてわけ分かんねえ理由で魂抜かれて、体はいきなり現れたオカルト野郎に乗っ取られて、後日そいつはオレの体で見知らぬじいさんを刺したあと、〝犯人は自殺〟とか言って橋から飛び降りた水死体で見つかったんだぜ。激おこなんてレベルじゃねえよ、ガチで野郎のナニを噛み千切ってやんねーと気が済まねえレベルだよ」
「そんなことがあったんだな……けど、それじゃあのサリーって女は? あの人も元は人間だったんだろ?」
「いや、サリーがあの姿になったのは神羅のせいではない。三年ほど前に、今回とは別の事件に巻き込まれての。そのとき絢子が、殺されたサリーの魂をあの肉体に封じたんじゃ。あの二人は事件が起こる前からの友人じゃったからのう」
「何だ、そうなのか。てっきりあの人も今回の事件に関わってんのかと思ったけど……」
「まあ、関わってるっちゃあ関わってるんだけどな……」
と、ときにそう呟いた翔が、珍しく深刻な顔をしているのが見えた。
その横顔はまるで誰かを心配しているかのようで、そんな翔を見た喜与次さんも案じ顔になる。それを見た俺は何かあったのかと二人を見比べたが、視線に気づいた喜与次さんは、いや、と首を振っただけだ。
「けどさ、そんなヤバいやつが相手なら、やっぱり俺をこの体に入れたのは失敗だったんじゃねーかな。その、自分可愛さから言ってるんじゃなくて、俺みたいな素人が中に入ってたんじゃ、いくら絢子さんが守ってくれるっつってもいざってとき役に立たないっつーか……それでもしその神羅ってやつに、さやかの体を持っていかれちまったら……」
「大丈夫じゃ。その点は抜かりない。おぬしが今入っておるその体には、守護印というものが封じてある。まあ、分かりやすく言うとすれば、非常に力の強いお守りのようなものかの。その守護印があれば、抜魂術――つまり、肉体から魂を抜く術はまず効かぬ。加えて神羅も、あれほど執着しているさやかの体を傷つけるような真似はせんであろうしの」
「守護印、か……それも絢子さんが?」
「左様。たった今わしと翔が入っておる、この二匹の飼い犬の魂を使っての。……しかし、それでもやはり力を使いすぎておる。これから先、先見の力さえ使えぬとなると、神羅との戦いは……」
「え?」
何か深く考え込む顔で、喜与次さんが言った。
そのとき、茶の間のすぐ外の廊下から、ボーン、ボーンと柱時計の音が聞こえてくる。
チャイムは八回。つまり、時計が八時を回ったことを示していた。
そこで俺ははっと我に返る。確か聖女の登校時間は、八時三十分ではなかったか。
対して俺の目の前には、まだ一口も手をつけていない朝食。ついでにまだ歯も磨いてなければ、顔も洗ってない。
「わーっ! やべえ、遅刻する!」
ようやく意識が現実へと帰ってきた俺は、慌てて手に取った茶碗の米とおかずとを掻き込んだ。もはやそれをじっくりと味わっている暇はなく、固形の食べ物はすべて味噌汁かお茶で流し込み、乱暴に「ごちそうさま」をしたあと洗面所へと飛び込んでいく。
その後十分足らずですべての支度を終え、俺は学校鞄だけを手に玄関を飛び出した。
今朝は結局絢子さんに会えなかったが、部屋まで挨拶に行ってる時間はない。
「いってきまーす!」
せめてその声だけは届くようにと振り向いて叫び、それから俺は駆け出した。
八月二十七日、火曜日。
本日も晴天。
朝から強烈な日射しと蝉の声が、容赦なく降り注いでいる。




