追跡、衝突
チリンチリンチリン、と、鈴の音が塀の上を移動していた。
灰色の毛並みを闇の中に溶け込ませ、サリーはゆく。首から提げた子供用の携帯電話が前脚に当たって煩わしかったが、それもあと少しの辛抱だと言い聞かせ、足早に民家の塀を渡っていく。
天岡市の一角にある、古い住宅街だった。時刻は深夜と呼ぶにはいくらか早いが、町にはすっかり夜の帳が落ち、道は静まり返っている。
あたりに人の姿はなく、目につくのはぽつぽつと所在なげに立ち尽くす街灯の明かりだけだった。
中には蛍光灯が切れかかり、頼りなく点滅を繰り返しているものもあったが、夜目の利く猫に憑依したサリーは暗闇も気にならない。
何より今、サリーが最も重視しなければならないのは視覚から得られる情報ではなく、霊覚に訴えかけてくる微かな魂の気配だった。
それは実際に臭うわけではないが〝匂い〟に似ていて、一度嗅いだことのある気配は他と区別された情報としてはっきりと脳に残る。
特にサリーは生まれつき人より霊覚鋭敏で、人や霊の気配を嗅ぎ分けることに長けていた。
そして今、彼女の研ぎ澄まされた霊覚は、彼女がずっと探していた気配を嗅ぎ当てその方向を示している。
――近い。
徐々に強くなってくるその気配を辿りながら、サリーはそう確信した。焦るまいとは思っても自然と歩調が速まっていく。
ここで気配を見失ったら今日までの苦労が水の泡だ。この気配の主を見つけること、ただそれだけに、この二ヶ月サリーはあらゆる労力を費やしてきた。
人間の八倍も優れていると言われる猫の聴覚が、人の足音を捉える。それは目下、サリーが目指している方角から聞こえた。
この足音の主で間違いない。そう当たりをつけて、今度は聴覚をも駆使しながら問題の気配を追っていく。
やがて道の先に、背広を来た男の後ろ姿が見えた。
黒いビジネスバッグを小脇に抱え、手には小さなビニール袋を提げている。コンビニかどこかに寄った帰りだろうか。そう思いながらサリーは目を細め、改めて男の気配を嗅いだ。
間違いない。この男だ。
確証を得たサリーは塀の上で脚を止め、そこに腰を下ろして遠ざかってゆく男の背中に目を据える。
「ようやく見つけたわ」
声なき声で呟き、サリーは男の背中が闇に溶け込んだのを見計らって、首から携帯電話を外した。
そうしてそれを塀の上に置き、右の前脚で器用にボタンを操作する。
いかにも小学生の女子が好みそうな、ピンク色の携帯の画面が光った。そこに『呼び出し中』という文字が表示され、可愛らしい電話のアイコンが画面の隅で揺れている。
『――もしもし』
五回ほどのコール音のあと、ようやく電話の向こうから声がした。
その声を鋭敏な聴覚でキャッチしたサリーは、ぴんと耳を立てたまま脚元で光る携帯電話に目を落とす。
「絢子、見つけたわ」
『サリーね。今どこに?』
「穂張町。天岡第三児童公園の近くよ」
『思いの外近いわね。今、ちょうど瞬が来てるの』
「まさか、一緒に来るつもり? 素人を寄越すのは危険だわ」
『足くらいにはなってくれるわよ。今日の除霊料の代わりってことで』
「何でもいいけど、とにかく急いで。あたしは引き続き追跡を続けるわ。このまま行くと、公園の前を通る。今は真っ直ぐ北に向かってるわね」
『了解。私もすぐに向かうわ。魔力を温存したいから遷界門は使わずに行くけど、今から行けば十分くらいで合流できると思う』
「分かった。それまで見失わないようにするから」
『サリー』
「何?」
『相手は百年以上人の魂を食らい続けてきた強敵よ。私が行くまで無茶はしないで』
「あなたはこれから無茶をするのに?」
『どんな結末を迎えようと、私はチエさんとの約束を果たす。それだけよ』
「……。とにかく、追跡を続けるわ」
『サリー』
「大丈夫。善処するから」
サリーは携帯の電源ボタンを押し、絢子との通話を切った。
胸の奥がちりちりと痛む。しかしだからと言って使命を放棄するわけにもいかず、サリーは目を伏せて立ち上がる。
携帯はそのまま塀の上に残し、跨ぎ越して先程の男を追った。
途中で道の向かいにゴミ集積所を見つけ、一度塀を飛び降りる。それからポリバケツやカラス避けのケージを足場に反対側の塀へ移った。そちらの方がより男に近づけるからだ。
更にこの道を真っ直ぐ行けば、塀の先には小さな児童公園がある。まずはその公園を目指すつもりで進んでいくと、途中で例の男に追いついた。サリーの追跡は鈴の音で既に気づかれているはずだが、男にこちらを気にした素振りはない。
ということは、相手はこちらをただの猫だと思っているのか。だとしたら僥倖だと思いながら、サリーは塀を渡ってさりげなく男を追い越した。
怪しまれない程度に盗み見た男の横顔は意外に若い。レンズの細い眼鏡をかけた面立ちは理知的な印象で、傍目にはごくごく普通の会社員か何かに見える。
けれどもその気配は、紛れもなく異端者のそれだった。これほど禍々しい魂の気配を、サリーはこれまでに感じたことがない。
緊張で尻尾の毛がぶばっと膨らみそうになるのを堪えながら、サリーは更に先へ進んだ。ほどなく行く手に塀の切れ目が現れ、サリーは迷わずそこから地上へ飛び降りる。
着地した先は既に公園の中だった。滑り台やブランコといった最低限の遊具が並ぶ、やや寂れた公園だ。
公園の外周は民家の塀と背の低い柵、植木で囲まれ、住宅街の真ん中に緑溢れる空間を作り出していた。サリーはそんな公園の片隅に座り込み、近づいてくる男の足音をじっと聞いている。
絢子は無茶をするなと言った。
言われなくとも、人間の肉体を失った今のサリーには昔のように霊術を駆使することはできない。この牝猫の体でできることはと言えば、せいぜい今回のように霊覚を頼って、標的の捜索、追跡を行うことくらいだった。
だが、だからと言ってこのまま大人しく絢子の到着を待っていてもいいのだろうか。彼女が見たという未来の到来を、座して待つだけでいいのだろうか。
絢子は、特殊な力を持って生まれた自分を理解してくれた初めての友人だった。彼女と出会って世界が変わり、サリーは異能を持って生まれた自分を、ようやく受け入れることができた。
それは同じく人にはない力を持って生まれた絢子が、サリーの痛みを自分の痛みのように思い、手を差し伸べてくれたからだ。
自分はその絢子に何か恩を返せただろうか。絢子にこれ以上、友人としてしてやれることはないのだろうか。
「――物好きだな。獣の器に入っているとは」
不意に聞こえたその声に、サリーの毛が逆立った。
振り向くと、公園を囲う灌木の向こうに男がいる。何かの間違いであってくれと願ったが、男の目は疑いようもなく、真っ直ぐにサリーを見つめている。
――まさか、正体がバレていたとは。
「牝猫……いや、〝化け猫〟か。元の器はどこへ置いてきた?」
「……三年前、魔物の腹の中に」
「魔物? 怪……いや、〝魔喰らい〟か。それは難儀であったな」
言葉とは裏腹に哀れみの気配など一寸もない――むしろ嘲弄の響きさえある口振りで男はにたりと細く笑った。
瞬間背筋を走った悪寒が、サリーの毛並みを更に逆立たせる。
「しかしお前は、種霊質であろう。だのにその魂を喰われることなくそうして別の器に収まっているということは、その魔喰らいは獲物を逃したのだな」
「まあ、そういうことになるわね。今頃はあの世で、あたしの魂を喰らい損ねたことを心底悔しがっているはずよ」
「だろうな。何せお前の魂からは――ひどくうまそうな匂いがする」
冗談ではない。男が浮かべた凶悪な笑みを見て、サリーはそう思った。
思ったときには、バネのような瞬発力を持つ猫の体を利用して、その場から大きく飛び退いている。
そのまま公園の奥を目指し、走った。霊術も使えないこの体であの男に挑むのは自殺行為だと分かっていた。
ならば今の自分にできることは、巧妙に逃げることだけだ。今更この世に未練はないが、せめて絢子が来るまでは時間を稼がなければならない。
そんなことを考えながら、サリーは公園の東にある灌木の中へと飛び込んだ。この公園は北と西の二辺こそ道に面しているが、南と東には柵の代わりに民家の塀が続いている。
その民家の塀に寄り添うように、一本のクヌギの木が立っているのが見えた。サリーは灌木の中からその木の位置を確かめ、あの幹を駆け上って枝を渡り、飛び移ってそのまま塀の向こうへ逃げる自分の姿をイメージした。
作戦はそれで決まりだ。あとはここで可能な限り時間を稼ぐ。
すさまじい霊気の塊が、いきなりサリーを目がけて飛んできた。霊覚を限界まで開き、その接近を感知したサリーはすんでのところで直撃を回避する。
茂みを貫き、葉を散らしながら壮絶な勢いで飛んでいったのは、圧縮された霊気の塊だった。
高濃度に圧縮された霊気は光を放ち、霊覚を持つ者ならばそれを視認することができる。この男はそれだけの霊力を内に秘めているということだ。
チリン、と、灌木の中を逃げるサリーの居場所を鈴が知らせた。まずは作戦を覚られないためにクヌギの木とは逆方向に逃げる。
男はそれを目で追いながらも、灌木の前に立ったまま動かなかった。かと言って追跡を諦めたわけではなく、そこから正確にサリーの位置を割り出し、砲台さながらに霊気の弾丸を放ってくる。
ときに身を伏せ、ときに跳び上がり、サリーは辛くもその弾丸を躱し続けた。そこから更に北へ逃げようとしたところへ、今度は頭上から雷のように霊気の槍が降ってくる。
鼻先を掠め、目の前の地面に突き立ったそれを躱し、サリーはここぞとばかりに反転した。進路を変え、今度はあのクヌギの木がある方向へと逃げ始める。絢子が到着する気配はまだないが、そろそろ潮時だった。
これ以上曲芸のように逃げ回っていては、体力が持たない。まだ体が思いどおりに動くうちに自身の安全を確保するべきだ。
持ち前の瞬発力を生かし、サリーはクヌギの木へ向けて一直線に駆け出した。
そのサリーを追うように頭上から霊気の槍が次々と襲いかかってくる。あんなものに貫かれてはひとたまりもない、とサリーは思った。
高濃度に圧縮された霊気は物質のような硬度を持つ。つまりあれは本物の槍とほとんど変わらないということだ。
ここで死ぬわけにはいかない。サリーの中で焦りがようやく頭をもたげた。
死ぬことを恐れてはいないが、死ねば魂は男に喰われる。世に呪術師と呼ばれる者たちは高い霊力を秘めた魂を喰らうことで己が力を高め、より強力な霊術を使うのだ。
だが絢子が来る前に、そんな力をあの男に与えてやる義理はない。そう思った。
瞬間、サリーの目の前を霊気の弾丸が飛び抜けていった。
進路を塞ぐような一撃。それを躱せたことで、サリーは束の間安堵した。その安堵が生んだ隙を、衝かれた。
茂みを突き抜けていったはずの霊弾が消滅せずに向きを変え、いきなりサリーに襲いかかった。先程までの霊弾は命中しなければその場で消えていたのに、それはまるで意思を持ったようにサリーへと迫ってくる。
てっきりその霊弾もまた消えるのだろうと思い込んでいたサリーには、それを躱す術がなかった。
小さな体が宙に跳ね上がり、そのまま力なく地面に落ちる。腹を下から抉るようにして直撃した霊弾は、サリーの体を男の足元まで弾き飛ばした。
車に轢かれたような衝撃と、雷に撃たれたような痺れ。その二つに同時に襲われたサリーは、もはや立ち上がることもできなかった。
薄れていく意識の中で、遠くバイクの音を聞く。しかしその音さえも掻き消すように、砂を躙る男の足音がすぐ傍で聞こえる。
「恐ろしいか?」
薄く開かれたサリーの目を、男が覗き込んできた。その口元にはやはり狂気じみた笑みがある。
「案ずるな。お前も一度魂を抜かれたことがあるなら分かっていよう。痛みはない。――すぐに終わる」
男の手が、気づけば紫色の光に包まれていた。その禍々しい力の正体をサリーは知っている。
――抜魂術。
生きている肉体から魂だけを無理矢理引き抜く術だ。
ここまでか。覚悟と言うより諦めに似た感情を胸に抱き、サリーは静かに目を閉じた。先程聞いたバイクの音が、徐々にこちらへ近づいている。
それはなおも近づいてくる。
更に近づいてくる。
まだ近づいて――
「――ちっ!」
鼓膜を震わす爆音と共に、男の舌打ちが聞こえた。
公園の入り口から突如飛び込んできた黒のネイキッドバイクが、盛大なドリフト音を響かせながら男へと突っ込んでくる。
その闘牛さながらのバイクに撥ねられる寸前で男は飛び退き、何とか事なきを得た。
サリーを守る盾のように停まったバイクの上には、革のジャケットを羽織ったフルヘルムの男ともう一人、黒衣の女が乗っている。
「探したわよ、神羅」
女の方がそう言ってバイクを下り、悠然とヘルメットを外した。
途端に豊かな黒髪が零れ、不敵に笑った女――絢子の顔が露わになる。
「貴様は、あのときの……」
「あら、覚えててくれた?」
「忘れるわけがない。私の前から器を奪い去った女狐め。ここへ現れたということは、その牝猫は囮だったか」
「牝猫とはずいぶんな言い草ね。彼女は囮なんかじゃない、あなたを討つために協力してくれた私の古い友人よ。さやかちゃんに喜与次さん、おまけに常民の翔にまで手を上げておいて、今度はその友人まで狙うだなんて、本当に節操のない男。だから呪術師は嫌いよ。――瞬、サリーをお願い」
「ああ、分かった」
瞬、と呼ばれたフルヘルムの男は頷き、すぐにバイクを下りて倒れていたサリーを抱き上げた。
しかし、もう一方の男――神羅はそちらにちらと一瞥をくれただけで、既にサリーへの関心は失ったらしい。
「女。名は」
「呪術師に自分の名を教える馬鹿がいると思う? ま、どうしても必要なら、とりあえず絢子とでも呼んでちょうだい」
「絢子か。この時代の者にしては、ずいぶんと高い霊力を持っているようだな」
「恩師に恵まれてね。同じ霊能師ならあなたにも恩師がいるはずだけど、一体どんな師についたらこんな痴愚蒙昧の弟子が生まれるのか、ぜひ教えを乞いたいものだわ」
「ふ……見え透いた挑発だな。自分の力が私には到底及ばぬことを知っての虚勢か?」
「あなたこそ、そうやって上から目線で物を言えば、それだけで自分が優勢に立てるとでも思ってるのかしら?」
「口の減らぬ童だ」
「それはどうも、ご老耄」
神羅の威圧にも怯むことなく、絢子は昂然と答えた。
とは言え神羅もその程度のことでは顔色を変えず、むしろ能面のような面持ちで絢子をじっと見据えてくる。
「まあいい。かく言う私も貴様を探していたのだ。答えろ。あの器をどこへやった?」
「荼毘に付したわ」
「嘘をつくな。私はあの器をお前に奪われる寸前、呪印を封じた。その呪印が消えていないということは、あの器がまだ生きているということだ。私の目は誤魔化せん」
言いながら神羅が掲げた右手の甲には、赤黒く光る不可思議な文字――〝呪紋〟と呼ばれるものだ――が浮かび上がっていた。
それは神羅が施した呪印の証であり、その施術者と呪印を刻まれた対象を繋ぐ働きを持っている。
「だがその呪印も半分死んでいる。おかげであの器の場所が分からない。さては貴様が小細工をして、我が印を狂わかしているのだろう。大人しく器の在り処を言えば、後ろの二人共々命だけは助けてやる」
「残念だけど、その必要はなさそうよ。だってあなたは今日ここで、私に討たれて滅ぶんだから」
超然と絢子が答えた刹那、神羅の額に初めて青筋が走った。
しかし直後には、その口元に酷薄な笑みが浮かぶ。神羅は空を切るように右手を薙ぐと、そこに濃厚な霊気――濁った黄色の光を作り出す。
「良かろう。そこまで言うのなら、貴様の力、試してやる。天慶の時代より霊術を極め続けてきた私の力、思い知るが良い。――死ねぇっ!!」
風を巻き上げ、神羅の放った大出力の霊術が容赦なく絢子に襲いかかった。
瞬間、絢子もまた右手を掲げ、青色の光を帯びた自らの霊力を放出する。
二色の光が獣のように牙を剥き、正面からぶつかり合った。
人気のない夜の公園を、爆風が吹き抜けていった。




