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親孝行

 無惨に崩れた塀の前に、花束が添えられていた。

 その塀の向こうに見える家の壁には、応急処置と言うにはあまりにおざなりなブルーシートが張られている。

 二日前、真っ昼間にトラックが突っ込んでできたあの大穴だ。


 武海いさみ


 行書体ではっきりと書かれたその表札を見やりながら、俺は門前に立ち尽くしていた。

 てっきり家の前には提灯やら忌中札やらが出ているのではと思って来てみたのだが、そういった類の物は影も形も見当たらない。家がこの有り様だから、通夜や葬式は斎場で行ったのだろうか。それとも事故死だったから、警察の捜査が入ったりして葬式が遅れているのだろうか。


 自分の葬式のことなのに俺には知る術がない。いや、そもそも俺は生きてるのに、自分の葬式のことを気にしているというのがどうにもおかしな構図なのだが。

 けれどもやはり世間では武海タケルという人間は既に死んだことになっていて、俺がそれを知ったのは昨日の朝刊でのことだった。

 地元紙の一面に載ったその記事はまさしく俺の死を告げるもので、紙面に自分の名が犠牲者名として踊っているのを見たときは何とも形容し難い気分になったものだ。


 これで俺は本当に〝武海タケル〟として生きることはできなくなったんだな。そう思うと体から力が抜けて、魂まで抜け出ていってしまいそうな気がした。

 しかし俺がいつまでもそんな感傷に浸っていられなかったのは、これから〝蓮村はすむらさやか〟として生きるための猛特訓を絢子さんに強いられたからだ。

 おかげで俺はこれからのことを真剣に考える余裕もなく、新しいクラスメイトの顔や名前、学校までの通学路、さやかの基本的なプロフィールを覚える作業に忙殺された。


 そして今、思い立ったように本当の我が家へ帰ってきたのは、何とか一日を乗りきって、ようやく父さんと母さんのことを心配する余裕ができたからだ。

 新しい体に入って二日と半、これまで父母のことが気にかからなかったのかと叱られれば反論のしようもないが、それでも敢えて言い訳するならば、俺もいっぱいいっぱいだった。

 突然の死に見舞われてからこの方、あまりにも色々なことがありすぎて、頭の整理も気持ちの整理もつかなかったのだ。

 かく言う今も頭の中はとっちらかったままだけれども、その真ん中に両親のことを据えられるくらいのスペースはできた。


(とは言え、問題はここからだよな……)


 と思いながら、俺は不審者扱いされない程度に門の中を覗く。一階正面の壁半分をブルーシートに覆われた家は静かで、中に人のいる気配は感じられなかった。

 だが俺がふと目をやった家の車庫には、父さんの愛車であるシルバーのセルシオが停まったままだ。両親が外出するときはいつもこの車を出していたから、車があるということは中に二人がいることを意味する。


 だとしてもこの静けさはどうしたことだろう。確かめるための方法は一つ、玄関まで行って家のチャイムを鳴らすことだ。

 しかし俺は今〝さやか〟の身。突然見ず知らずの女子高生が訪ねてきたとなれば、それだけで両親に不審がられてしまうのではなかろうか。


(いや、だけどここまで来たからには、せめて二人の顔くらい見ていきたいよな……とは言え俺も面識のなかったさやかのことを二人に何て説明するか……いっそピンポンダッシュでもするか? いやいやでもそれはさすがに――)

「――あら……?」


 進むべきか退くべきか。その答えを求めて門前をうろうろとしていた俺の耳に、俄然聞き慣れた女の声が届いた。

 それに気づいた俺ははたと立ち止まり、それから一拍遅れの驚愕に衝き動かされて声のした方角を振り返る。


 ――母さん。


 隣には父さんの姿もあった。

 二人とも喪服に身を包んでいる。その二人のすぐ傍から黄色い塗装のタクシーがゆっくりと発進していくのが見えた。

 何てこった。二人ともタクシーで出かけてただなんて、そんなの反則だ。


「どちら様かしら?」


 母さん、と思わず呼びかけそうになった声を飲み込んで、俺は茫然と立ち尽くした。そんな俺を不思議そうに見つめ、首を傾げた母さんの顔は憔悴している。

 隣にいる父さんも、黒縁眼鏡をかけた目がすっかり窪んでしまっていた。顔色も良くないし、まるでこの三日で十歳は老け込んだみたいだ。

 ……何だよ、その顔。ちゃんと寝てんのかよ。

 俺が夜遅くまで部屋でスマホをいじってると、いつも「早く寝ろ」って口うるさく叱ってきたくせに。


「うちに、何かご用?」

「あ……あの……」


 とにかく何か言わなきゃ。そう思うのに頭の中は真っ白で、言葉らしい言葉は何一つ浮かばなかった。

 それでなくともこの三日あまりに酷使したせいで、俺の思考回路はいよいよストライキを起こしたようだ。くそ、脳内そこはフランスじゃないっての。


「もしかして、タケルのお友達?」


 そのとき、更に首を傾げて尋ねてきた母さんの言葉が、俺に一筋の光明をもたらした。

 とりあえず今はそういうことにしてしまえ、と夢中になって頷けば、二人は少しばかり驚いた様子で顔を見合わせる。


「その制服、聖繍せいしゅう高校のよね。あの子に女子校生の友達がいたなんて、初耳だわ」

「あ、え、えっと……タケル君、きっと話してなかったんですね。私たち、少し前にタケル君の中学時代の友達を通じて知り合ったんです」

「そう、そうだったの。ここへはニュースを聞いて?」


 他に適当な答えが見つからず、俺はただ頷いた。それが何だか後ろめたくて、思わず顔を伏せたのを、母さんは友人を失った心痛ゆえと取ったらしい。


「あなた、お名前は?」

「……蓮村……蓮村さやか、です」

「さやかちゃんね。学校が終わったあとに、わざわざあの子に会いに来てくれたのね。暑いのに、どうもありがとう」

「いえ……あの、お葬式は」

「葬儀は今日、近場の斎場で済ませてきたの。火葬もさっき、無事に済んでね……警察に行く前に、還骨法要も済ませちゃって」

「警察?」

「ちょっとした事情聴取と、事故の捜査の経過を聞きにね。良かったら上がっていかない? タケルもきっと喜ぶわ」


 そう言って俺の肩を抱き、励ますように笑った母さんの笑顔が痛々しかった。

 明らかに無理をして笑ってるのは俺にも分かる。余計な気を遣わせてしまった。かと言って今更引き返すわけにもいかず、俺は二日前まで自分の家だった場所に通される。


 たった二日離れていただけなのに、嗅ぎ慣れた我が家の匂いが妙に懐かしかった。父さんと母さんは俺を連れて、二階にある俺の部屋へと向かう。

 部屋には白い祭壇が用意され、その上に俺の遺骨、位牌、遺影などが飾られていた。

 ああ、よりにもよって遺影にはこの写真を使ったのかよ。写りが最悪だと嘆いていた中学の卒業写真だ。それを見て俺は苦笑を零しそうになり、同時に何か熱いものが喉まで迫り上がってくるのを感じる。


 そいつを何とか飲み下し、俺は母さんに勧められて自分の霊前に線香を上げた。

 自分で自分の遺影に手を合わせるなんて、こんな奇妙な体験をしたのは世界広しと言えどきっと俺だけだろう。一応黙祷も捧げたが、生きているはずの自分に〝どうか安らかに〟と祈るのは何か違うような気がして、結局形だけになってしまった。

 何とも複雑な気分だ。遺影の中の俺は中学の卒業アルバムに載る顔だというのに、仏頂面でこちらを睨みつけている。


「――そうだったんですか。居眠り運転が原因で……」

「ええ。何でもその運転手、途中で仮眠も取らずに四十時間以上走ってきたそうよ。私たちが本人から直接聞いた話じゃないから、それ以上の詳しい状況は分からないけど……それでどうして、突っ込んだ先がよりにもよってうちだったのかしらね」


 それから一階に場所を移し、左手にブルーシートが見える奥のダイニングで、俺は二人から詳しい事故の経緯を聞いていた。

 自分が死ぬことになった理由はやっぱり知っておきたかったし、何より二人がお茶でも飲んでいかないかと声をかけてくれたのだ。単なる社交辞令かもしれないと思いながらも、俺はその甘い誘惑を断ることができなかった。


 父さんと母さんは俺に冷たい麦茶や菓子を勧めながら、生前のむすこのことをあれこれと語る。話していると気が紛れるのか、時折笑顔を見せる様子にほっとしたが、すべてが過去形で語られるのが何だかやけに悲しかった。

 あんたたちが今、遠い昔の人みたいに話してる息子はここにいるよ。

 そう一言言えたなら、どんなに気持ちが楽になったろう。


「だけどあのタケルに、まさか女の子の友達がいたなんてねぇ。あの子、家では男友達の話しかしなかったから、女の子とも仲良くしてるなんて知らなかったわ」

「そ、そうなんですか……もしかしたら、ご両親には話しにくかったのかもしれませんね」

「まあ、あの子の性格じゃ、確かに恥ずかしがって言わなかったかもしれないわねぇ。だけど家の外でのあの子って、どんな感じの子だったのかしら。中学のときの三者面談では、真面目で友達想いのいい生徒です、なんて先生に言われてたけど、家にいるときはいくら勉強しなさいって言ってもまるで聞かなかったのよ」


 それのどこが一体真面目なのかしら、と言いたげに母さんはため息をつく。自分のことは自分が一番良く知っているだけに、何とも反応に困った。

 だけど今なら、言えるかもしれない。

 俺が女になってまで生き返ろうとした理由が、果たせるかもしれない。


「タケル君は……確かにちょっと面倒臭がりでことなかれ主義なところがありましたけど、でも、優しいところもあっていい人でしたよ」

「あら、そう。それじゃあ、あれで友達には好かれてたのかしら」

「クラスの中心になるようなタイプではなかったですけど、仲のいい友達には好かれてた……と、思います。わ、私も、いい人だなって思ってましたし」

「まあ。それじゃ、さやかちゃんってもしかして……」

「い、いえ、別にそういうんじゃないんですけど……タケル君、前に言ってました。父さんと母さんには本当に感謝してるって。自分みたいなバカ息子を見捨てないでくれて、いつも心配してくれて……愛してくれて、本当にありがとうって」


 ああ、駄目だ。

 泣くなよ、バカ。

 そう自分に言い聞かせ、何とか声が震えないように、視界が涙で霞まないように、俺は必死で平静を装おうとする。


「だから、私……それをお父さんとお母さんに伝えなきゃと思って……二人に何も恩返しできなかったこと、タケル君は悔やんでるんじゃないかと思います。だけど、それでも、せめて感謝の気持ちだけでも伝えられたら、って――」

「――さやかちゃん」


 そのとき、テーブルに上げていた俺の手に、突然触れた温もりがあった。

 はっとして目をやれば、俺の手を母さんが包み込んでいる。そこから更に視線を上げた途端、俺の視界はみるみる温度を上げていく。


 母さん。

 泣いていた。

 俺も見たことがないくらい顔をくしゃくしゃにして、それを拭いもせずに俺の手を握っていた。


 ああ、母さん、そんな顔しないでくれよ。

 俺はもう二人の息子として生きられないのに。

 そんな顔されたら、心配で置いていけねーじゃねーか。


「わざわざ、それを伝えに来てくれたのね。ありがとう。本当にありがとう……」


 今はその言葉を聞けただけで十分よ。そう言って泣く母さんの姿を見ていたら、俺も涙が止まらなかった。

 もっと気の利いた言葉の一つでも言えればいいのに、やはり俺の思考回路はストライキを継続中で。

 それでも、俺の想いは二人に伝わっただろうか。

 俺はたとえわずかでも、二人に恩返しできただろうか。


 母さんと一緒にひとしきり泣いて、それがようやく落ち着いた頃、俺は二人にいとまを告げた。本当はもっと一緒にいたかったけど、今の俺にはもう、それを望むことは許されない。

 近いうち、また遊びに来てちょうだい。真っ赤に泣き腫らした目で笑った母さんにそう言われ、俺はただ頷いた。

 父さんが母さんの肩を抱き、玄関まで見送ってくれる。俺はそんな二人に深々と礼をして、かつて自分の家だった場所をあとにする。


「ご両親に挨拶できた?」


 門を出たところで、不意に声をかけられた。

 半ば門にもたれかかるような形で開いた黒い日傘。

 その下に、こちらを見つめて微笑んだ絢子あやこさんの姿がある。


「ええ。この三日、ずっと伝えたかったことをやっと伝えられましたよ。自分の遺影に手を合わせる羽目になったのは予想外だったけど」

「そう。貴重な体験ができて良かったわね」

「そうですね。そう思っておくことにします」

「それじゃ、帰りましょうか」


 あっさりとそう言って、日傘をさした絢子さんは踵を返した。

 俺もそれ以上は何も言わず、歩き出した絢子さんの後ろについていく。

 夏の日が、ようやく暮れ始めていた。西から射す夕光が、世界を橙色に染め上げている。

 帰路に就いた俺と絢子さんの間に、交わされる言葉は何もなかった。

 その沈黙が何だか妙に優しくて、俺はまた泣きそうだった。

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