Sophia
「ちょ、ま、舞、待った! ごめん! 言い忘れてたけど今日は違うの! 私、これからちょっと親戚の家に寄らなきゃいけなくて!」
「え? 親戚って、もしかしておじいちゃんのところ?」
舞の言う〝おじいちゃん〟と言うのが誰のことかはさっぱりだったが、ともかくも俺はこくこくと頷いた。
今はまず、舞が胸に仕込んだ二つの爆弾から逃れることが先決だ。でないと先に俺の頭が爆発する。
「でもさやか、おじいちゃんのところには行くなっておばさんに止められてるんでしょ? またこっそり会いに行ったなんてバレたら怒られるよ?」
「え? えーと……よく分かんないけど、たぶん大丈夫だと思うよ?」
「大丈夫じゃないって。入院する前にもおばさんとの約束破ったのがバレて、せっかくの連休だったのに外出禁止になったとか言ってたじゃん。しかも次にバレたらもう聖女に通わせてもらえなくなるかもとか言ってたでしょ? あたしやだよ、さやかと同じ学校に通えなくなるなんて!」
だから今日のところは大人しく帰りなさい、と言って、舞はやはり強引に俺を連れていこうとした。
一体その〝おじいちゃん〟というのが何者で、何故会うことを禁じられているのか激しく気になったが、やはり今はそれどころではない。そんな厳しい母親のもとに、蓮村家の事情も分からないまま連れていかれたらきっと大変なことになる。
何かもっと上手い言い訳を。ようやく俺が必死になって思考を巡らせ始めたそのとき、不意に視界に飛び込んできた看板があった。
『Sophia』。
筆記体に近い字体でそう記された折り畳み式の小さな看板は、道行く人の目に留まるようにか、駐車場のような空間からやや道路側に突き出した形で置かれている。
黒板のような素材で作られたその緑色の看板には、〝本日のメニュー〟と題してパスタやベーグルサンド、ケーキといったお品書きがずらりと手書きされていた。
ふと目を上げればそこにはゆったりとした佇まいのカフェがあり、看板と同じ緑色のタープが軒代わりに張られている。
道路側に面した壁はすべてガラス張りで、店内の様子が外からでも窺えた。しかしそこでまた、俺はあるものに目を奪われる。窓際の席に腰かけた、一際黒々とした人影。
絢子さんだった。紛うことなき絢子さんだった。
俺がその姿を見つけて固まったときには、向こうも俺の存在に気づいて胡散臭く微笑んでいる。
そうしてひらひらと手を振る絢子さんの姿を見た途端、俺の全身からどっと汗が噴き出してきた。
まずい。あの人は、あの人の存在だけは舞たちに知られたくない。というかあんないかがわしさ全開の人間と知り合いだと思われたくない。
そんなことになれば事は俺の信用問題に関わる。ああ、だからその手を振るのをやめろって!
「ん? どうかした?」
「わーーーっ!!」
ときに、目の前のカフェを凝視したまま固まった俺の異変に気がついたのか、足を止めた舞が俺の視線を辿ろうとした。
それを察知した俺は慌てて舞の前に飛び出し、何とかその視界を遮ることに成功する。
「ごっ、ごめん舞、私、学校に忘れ物したっぽい! 急いで取ってくるから先行ってて!」
「忘れ物? しょーがないなぁ、じゃああたしも一緒に……」
「いや、大丈夫だから! ほんとにすぐ行って取ってくるから! 追いつけたら追いつくし! でももし間に合わなかったら先に電車乗っちゃっていいからね! じゃ!」
敬礼よろしくスチャッと手を挙げ別れを告げると、俺は一目散に元来た道を駆け戻った。
そうしてついさっき曲がった角を曲がり直し、舞の視界から外れたところで物陰に身を潜める。
どうか舞がこのまま帰ってくれますように。俺は心の中でそう繰り返しながら、未だかつてないほど真剣に神に祈った。
その状態で五分ほど過ごし、やがてチラッと物陰から顔を出して窺えば、幸い舞の姿は消えている。今日のところは素直に帰ってくれたようだ。
それを確かめた俺はほっと胸を撫で下ろし、ようやく物陰を出て問題の『Sophia』へと向かった。
そこにはやはり絢子さんの姿があり、ガラス越しに頬杖をついてにやにやと俺を見つめている。
俺はそんな絢子さんの様子に腹立ちを覚えながらも、ひとまず店内へ入ってみることにした。木枠にガラスが嵌められたドアを開くと、頭上でカランカランと乾いた音がする。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、カウンターにいる三十歳くらいの男の人だった。清潔感のある白のワイシャツに緑の腰巻きエプロンという姿は、いかにもカフェの従業員といった感じだ。
けれどもざっと店内を見渡した感じ、他に従業員っぽい人がいないところを見ると、もしかしたらこの人がこの店の店主なのかもしれなかった。
時間帯のせいか客足もまばらで、今は絢子さん以外の客の姿は見当たらない。
「こっちよ、さやかちゃん」
初めて入る店の入り口で思わずきょろきょろしていた俺を、相変わらず頬杖をついたままの絢子さんが手招きして呼んだ。
さやか、という名前をわざとらしく強調されただけでも引っ掛かるのに、あの楽しそうににんまりとした顔が余計に腹立つ。
かと言っていつまでもそこに突っ立っているわけにもいかなかったので、俺はひとまず絢子さんのいる席まで移動した。
席は二人がけの小さなものだが、上品なデザインの椅子はクラシカルな雰囲気の店内にぴったりだ。控えめに流れるムーディな音楽と、ほどよく効いた冷房もいくらか俺の気を鎮めてくれた。
そこで俺は一つ息をつき、肩にかけていた学生鞄を先に椅子へ置きながら言う。
「絢子さん、何でここにいるんですか?」
「まあ、〝何で〟とはご挨拶ね。あなたが初めての女子校に無事潜入できたかどうか、心配して迎えに来てあげたんじゃない」
「潜入って……」
「で、どうだった? 本日の成果は」
「成果も何も、今日は朝から気ィ張りっぱなしでもうくたくたですよ。他人になりきるってだけでも大変なのに、いきなり女子校なんかにぶち込まれて……」
「でもいいことだってあったでしょ?」
「は? 何ですか、〝いいこと〟って?」
「ラッキースケベよ」
笑顔での即答に、俺は迷わず額をテーブルへと打ちつけた。
それはさも楽しげにふざけたことを抜かす絢子さんへの全力の抗議だったのだが、やはり今回も当人には伝わらなかったようだ。
「さっきそこで一緒にいた子、確か舞ちゃんだったわよねぇ? いい子そうだったじゃない。おっぱいも大きくて」
「どこ見てんスかあんたは! 発言がまんま中年のエロ親父だよ!」
「あら、それを谷間に腕を挟まれて真っ赤になってたあなたが言うの?」
「……! な、何故それを……!」
「だって全部見てたもの」
「見てたんなら助けて下さいよ!」
「やーよ。今時の女子高生に翻弄されてあたふたするあなたを観察するのが楽しいのに、助けたらつまらないじゃない」
「鬼ですかあんたは!」
「そこは悪魔と言ってちょうだい」
「まあまあ、絢子さん。タケル君をいじめるのもそのくらいにしてあげたらどうですか。未来ある若者をあまり困らせるものじゃありませんよ」
そのとき、怒りと絶望に打ち震えていた俺の真横から宥めるような声が聞こえた。それに気づいた俺が我に返ったところへ、水の入ったグラスが差し出される。
驚いて目をやると、そこにいたのは先程カウンターで迎えてくれたあの店主っぽい人だった。間近で見る顔はとても優しそうで、やわらかい色の髪が更にその印象を強くしている。
だけどこの人、今、俺のことを〝タケル〟って呼ばなかったか――?
その事実に俺が混乱し固まっていると、ときに向かいの席の絢子さんが、退屈そうに手元のカップを持ち上げながら言う。
「嫌ね、真人さんったらまだ若いのにそんなことばっかり言って。そんなだからお客さんに〝歳の割りに年寄り臭い〟とか言われるのよ」
「ははは……それはもう諦めましたよ。高校時代の学友にも、一人だけ浮いてると未だにからかわれますし」
「だけど女子校って言ったら男子の憧れでしょ? セーラー服はロマンでしょ?」
「それは人それぞれだと思いますけど……」
「あ、あの……」
二人の会話に口を挟んでいいものかとためらいながらも俺は遠慮がちに声を上げ、絢子さんに目で問うた。
すると絢子さんも今度ばかりは俺の心中を汲んでくれたようで、口をつけたコーヒーカップを皿に戻しながら言う。
「タケル、この人は和泉真人さん。この店のオーナーで私の古い友人よ」
「和泉、さん……?」
「真人でいいよ、タケル君。君のことは、さっき絢子さんから聞かせてもらった。色々と大変だったみたいだね。その上今はさやかちゃんの代わりに聖女に通っているだなんて、まったく絢子さんは無茶ばかり言うんだから」
「あら、私はそんなに無茶なお願いをした覚えなんてないけど?」
「それはつまり、新作のケーキは国外でしか入手できないサワーチェリーを使ったものがいいとか、見たことも聞いたこともない海外の料理を名前からイメージして作れとか、ああいったお願いは、絢子さんの中では〝無茶〟の範疇には入らないと?」
「それはそれ、これはこれよ」
ああ、俺は今、やっと真の意味での理解者に出会えたような気がする。
真人さん……彼もきっと、今日までこの破天荒な魔女に振り回されてきた哀れな被害者であるに違いない。
「って言うと、絢子さんはこの店の常連だったりするんですか?」
「まあ、そうね。私はこの店が開店した当時から通ってるから。とは言え真人さんとは、それよりもっと古い付き合いだけど」
「そうなんですか?」
「ええ。私は昔、彼のお祖母様にとってもお世話になったのよ。真人さんとはそのお祖母様を通じて知り合ったの。ま、俗に言う腐れ縁ってやつね」
「腐れ縁はひどいなぁ。せめて幼馴染みと言って下さいよ」
「絢子さんに子供時代なんてあるのか……?」
「タケル、何か言った?」
「いえ、何でもないです」
如才なく首を振りながら、しかし俺は内心、学校の傍に事情を知っている人がいるという事実に大きな安堵を覚えていた。
真人さんは絢子さんと違っていい人そうだし、常識もありそうだし、何より俺の正体を知っても動じていないところを見ると、絢子さんの〝副業〟にも理解のある人物のようだ。
普通ならそんな話信じられるわけがないと笑い飛ばすか突っぱねるかのどちらかだろうが、真人さんはそんな素振りもなく、親身になって俺をいたわってくれた。
その優しさに俺はほろりと涙が零れそうになる。何てできた人なんだ。どっかの魔女も少しは見習え。
「まあ、昔の話や込み入った話は別の機会にするとして、タケル君も今日は疲れただろう。幸い今は他にお客さんもいないし、何か飲み物でもご馳走するよ」
「えっ。そ、そんな、悪いですよ。俺はそのお気持ちだけで充分――」
「――それじゃあ私はいつものお願い」
「あんたも少しは遠慮したらどうなんですか!」
奢ると言われ迷わず挙手した絢子さんに、俺は口角泡を飛ばして訴えた。
が、やはりと言うか何と言うか絢子さんに反省した様子は微塵もなく、逆に口を尖らせて抗議してくる。
「何よ、せっかく奢ってくれるって言ってるんだから、こういうときは素直に甘えるべきでしょ。相手のご好意を無下にするだなんて、そんなのかえって失礼よ」
「そうは言っても、世の中には時と場合ってものがありましてね……」
「いや、今回は絢子さんの言うとおり、遠慮することはないよ、タケル君。私も絢子さんには色々とお世話になっているし、一杯くらいなら大した損益にもならないからさ」
「そ、そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えて……」
たとえ飲み物一杯とは言え、初対面の人に奢ってもらうのは気が引けるのだけども、真人さんは嫌な顔一つせずに頷いてくれた。
本当にできた人だな……こんな人が絢子さんの古い知り合いだなんて驚きだ。指輪はしてないみたいだけど、結婚してないのかな?
物腰もやわらかで紳士的だし、氷室ほどじゃないにしろモテそうなのに、何だかそれが意外だった。
まあ、何にせよ、こんな人が学校の傍にいてくれるんだと思うと心強いな。いざってときは絢子さんなんかよりずっと頼りになりそうだ。
「はい、お待たせ。今朝仕入れたばかりのマンゴーから作ったマンゴージュースだよ」
やがて一度カウンターに戻った真人さんが持ってきてくれたのは、縦長のグラスに注がれた山吹色のジュースだった。
グラスの縁にはカットされたマンゴーの実が刺さっていて、更に南国を思わせる赤いストローと大きな氷がかえって涼しげに見える。
「うわ、うまそう! いただきます!」
「どうぞ、召し上がれ。はい、こっちは絢子さんの分」
「わーい、ありがとー!」
自分の分の飲み物も受け取ってご機嫌の絢子さんは、語尾にハートでもつきそうな猫撫で声で言った。
真人さんが絢子さんの前に差し出したのは紅茶のような色の飲み物で、グラスの大きさは俺のそれの半分くらいしかない。
「絢子さん、それ何ですか?」
「杏酒」
「え?」
「読んで字のごとく杏のお酒よ。ここ、夜はバーになるからお酒も置いてるの。私、これ大好きなのよねー」
「ってこんな時間から酒飲むのかよ!」
時刻は未だ四時を回ったばかり。今の時期はこの時間でも外は真昼のように明るく、そんな中堂々と酒を掻っ食らう絢子さんが俺にはますます駄目人間に見えた。
だいたい今、こんな時間にここにいるのも本業の占い屋をサボってのことだし、ほんと世の中ナメてんのかこの人は……!
こればっかりは真人さんも既に諦めているのか、苦笑しながら律儀に乾き物まで用意してくれている。
「で、今日は何か変わったことはあった? 学校周辺で神羅らしき人物に接触した、とか」
……あ、そうか。そう言や俺、その神羅とかいうやつを誘き出すためにさやかの体に入ったんだっけ、ということを、俺はここに来てようやく思い出した。
だけど名前以外顔も年齢も分からないような男を特定しろだなんて、土台無理な話じゃないだろうか。それどころか〝神羅〟という名前さえ本当の名前ではないと言うのだから、そんな人間を探し出して見極めるなんてのはほとんど雲を掴むような話だ。
とりあえず聖女での一日を振り返ってみて、唯一引っ掛かるものと言えば氷室の件くらいだが、あれは絢子さんに報告するほどのことじゃないだろうと思えた。
さっきの舞の話では、あいつが極度の写真嫌いってのはほぼ確定だろうし、だとしたらあれも極端に不審な行動とは言えないだろう。
「いや、特にそれらしい人物は……今日のところは、別段変わったこともなかったですよ」
「そう……なら、いいのだけれど」
「まあ、俺がさやかになってまだ三日目ですから、相手もそんなに早く食いついてはこないんじゃないですか。っていうか、できればもっと穏便な方法で見つかってほしいんですけどね、その神羅ってやつ」
「そうね。こちらも努力はしましょう」
言って、絢子さんは窓の外に視線をやりながら、杏露酒なる酒を口に運んだ。その横顔が柄にもなく深刻で、俺は何となく声をかけづらくなってしまう。
それから俺たちは、互いのグラスを綺麗に空けると真人さんにお礼を言って、二人で『Sophia』をあとにした。
日はまだ高く夕方の気配は遠い。だから、というわけでもなく、俺は帰ろうと促してきた絢子さんに首を振る。
「俺、ちょっと寄っていきたい場所があるんです」
そう言うと、絢子さんは特に行き先も訊かず、「そう」とすんなり許可をくれた。
「帰り道は大丈夫?」
「ええ。昨日あれだけみっちり仕込まれたんだから、一人でも帰れますよ。あんまり遅くはならないつもりです」
「分かったわ。気をつけて」
詮索する気配もなく、絢子さんはそう言ってくるりと俺に背を向けた。そうしてひらひらと手を振りながら、これから俺の通学路になる方角へと歩き去っていく。
その背が見えなくなるまで見送って、俺は一つ息をついた。
仰ぎ見た空は青い。
夏はまだまだ去ってはくれないようだ。




