イカサマ野郎
隣からぐずっと聞こえた微かな音に、俺はますます気まずくなった。
次いで聞こえた「うう……」という小さな声は、言わずもがな舞の声。
氷室に写真撮影を拒絶されてからと言うもの、ずっと泣きべそをかいている舞を連れて、俺はようやく帰宅の途に就いていた。舞は氷室からきつく拒まれたことがよほどショックだったようで、学校を出た今もぐずぐずと鼻を啜っている。
「うっ、うっ……どうしよぉ、あれ、絶対先生に嫌われたよぉ……明日からもう口利いてもらえないかも……そんなんなったら、あたしもぉ学校行けない……」
「だ、大丈夫だよ、舞。そんなに心配しなくても、さっきのは単に先生の虫の居所が悪かったとか、たぶんそんなだって。もしくはあの先生、写真に写るのが極端に嫌いなんじゃない? 写真部の活動にも正直興味なさそうだったし」
「うう……そうかなぁ……」
赤くなってしまった目を何度も拭いながら、それでも舞は未だ落ち込んだ様子でうつむいていた。これまで泣いている女子を慰めた経験などない俺は、そんな舞に対してどんな態度を取れば良いのか分からず、散々悩んだ末に今朝の舞を真似てよしよしと頭を撫でてやる。
無論女子の体に触るというのには抵抗があったし勇気も要ったが、その行動は思った以上に効果を発揮したようだった。
隣にいる俺を気心の知れた親友だと思い込んでいる舞はそれでようやく涙を収め、ごめんね、と小さく謝ってくる。
そんな舞の横顔に、
(う……く、くそ、可愛いじゃねえか……)
と不謹慎な感想を抱く一方、俺の胸には一種の罪悪感も芽生え始めていた。
舞が今謝ったのは、俺に対してではなく親友の〝さやか〟に対してだ。それだけ舞はさやかに心を許し、たった今自分の隣にいるのもそのさやかだと信じて疑っていないのに、実はそれはさやかではなくて、さやかの皮を被ったただのイカサマ野郎である。
先刻はその事実を知られてはまずいと慌てたものの、改めて自分のしていることを考えると、俺は不覚にも心が揺らいだ。
俺が今していることは、舞や依理子のさやかに対する友情を弄び、二人を馬鹿にしているようなもんなんじゃないのか。
こんなことをこれから先も続けていかなきゃならないのかと思うと、早くも意志が挫けそうになる。
「でも、さやかの言うとおりかも」
「え?」
「氷室先生、もしかしたら写真に写るのが嫌いなのかも。そう言えば前に先輩が、学校行事の写真で氷室先生が写ってるのを探してるのに全然見つかんないってぼやいてたような気がする。修学旅行とかでも、一緒に写真撮ろうとすると避けられるって……」
「何だ。じゃあ、やっぱり写真が嫌いなだけなんじゃん」
と、あっさり納得したところで、俺の中にはとある新たな疑問が生まれた。おかげで舞が立ち直れたっぽいのはいいのだが、そもそもそこまで徹底的に写真を嫌うような人間が、何故写真部の顧問になったのか。
氷室自身はたまたま体が空いていたのが自分だけだったからと言っていたものの、それなら他の部活の顧問や副顧問と写真部の顧問を交換してもらい、自分は別の部に移ってしまえば良かったのではないかと思えた。
一応教師も仕事なので、そんな我が儘が簡単に通るわけがないと言われてしまえばそれまでだが、あの露骨な拒絶ぶりから考えるに、学校側にも多少は情状酌量してもらえるくらいの理由があるのではないかと思う。
「んー、氷室先生が何で写真嫌いなのかは知らないけど、たぶん交換をお願いしても、受け入れてくれる部がどこにもなかったんだと思うよ。先生が一人だけフリーだったのも、例のバスケ部事件があったせいだろうし」
「バスケ部事件?」
「あれ、前に話さなかったっけ? うちらが入学する少し前に、氷室先生のせいでバスケ部が派手に内輪揉めして、最後は怪我人まで出たって話」
「え、何それ」
「氷室先生って、自分も学生時代はバスケ部だったらしくて、二年くらい前にバスケ部の副顧問になったんだよ。そしたら今の写真部みたいに先生目当ての女子が殺到しちゃって、もうバスケ部も練習とか試合どころじゃなくなっちゃってさ。それで真面目に部活やりたいって人たちが抗議して、やる気がない連中はさっさと追い出して下さいって顧問に訴えたらしいんだよね。でもいくら先生でも、何か問題起こしたわけじゃない生徒を無理矢理追い出すわけにいかないじゃん」
「うん」
「だから何とかできないかって話になって、だったらやる気のない生徒も真面目に部活するように仕向ければいいんじゃないかってことになったんだって。で、夏の大会前に、レギュラーになったメンバーには大会のあと氷室先生が焼き肉奢ってくれるらしいよって噂を流したら、それがもうすごい反響で。それまでバスケなんてやったことない人たちも、絶対先生と焼き肉行きたい! っていきなりレギュラー狙い始めて、想像を絶する争いになったんだって。ちょっと話聞いただけでも、もうまさしく血みどろの戦いって感じ」
「うわ……それじゃもしかして、最終的に怪我人が出たのって……」
「うん。どうしてもレギュラーになりたかった過激派の生徒が、既にレギュラー入りが決まってた当時の部長を袋叩きにして、試合に出れないように足折ったんだって。他にもリンチされた生徒が何人もいて、もうとにかくすごい騒ぎだったって言ってた。だから氷室先生も副顧問を外されて、それ以来どの部活も担当してなかったらしいよ。悪いのは暴走した生徒の方なのにね」
気の毒そうにそう言って、舞はまるで自分のことのように肩を落とした。だが目下、その話を聞いた俺の感想は一つしかない。――女って怖えええ……!
ふ、普通いくらお気に入りの教師とお近づきになりたいからって、他人の足折ったりするか? っていうか他人に危害を加えた時点で学校にいられなくなるのはちょっと考えれば分かることだし、下手したら自分の人生を棒に振ることにもなるわけだろ?
そんな判断もできないほどに暴走するって、いくら何でも病的すぎやしないか。すべての女子がそうじゃないとは分かっていても、俺は恐ろしさのあまり体から血の気が引いていく。
それともあの氷室とかいう男に、女子をそこまで暴走させる何かがあるということなのか。あの仏頂面からはとてもそんなオーラは感じられないが、ともあれ写真嫌いの氷室が何の因果か写真部顧問になってしまった経緯には納得がいった。
確かにそんな経歴を持つ教師なら、自分の担当する部活には入れたくないと考えるのが普通の教師の反応だろう。だから氷室は他の部の担当になることができなかったというわけか。
「ま、とは言え今の写真部にいるのは先生のファンだけじゃないんだけどね。中には流れに便乗して氷室ファンのふりしながら転部してきた木更津先輩のファンもいるみたいだし」
「え? 木更津先輩? って、あの先輩もそんなにファンがいるの?」
「そりゃ、木更津先輩って言ったら高校陸上期待の星って言われてた陸上部の元エースだもん。あれで中学のとき世界大会に出場したこともあるすごい人なんだよ」
「せ、世界大会!? マジで!?」
予想もしていなかった単語が飛び出してきたこともあり、俺は思わず全力で聞き返してしまった。
だけどそう言や、木更津先輩もさっき相澤先輩のことを〝自分のファンだ〟と言ってたっけ。ってことは相澤先輩は、木更津先輩を追いかけて他より早く写真部に入ったファンの一人ってことなんだろうか。
「おまけに先輩ってあの性格でしょ? 見た目も中身も男みたいでカッコイイって、実は結構な数のファンを抱えてるんだよ。ひそかにファンクラブとかもあるらしいし」
「ふ、ファンクラブって……でも、それじゃあ何でそんな人が陸上辞めて写真部に?」
「うーん、噂によれば二年のときの大会で、先輩、足に大怪我しちゃったらしいんだよね。それでもう前みたいに走れなくなって、陸上選手になる夢を諦めたんだって聞いた」
二年のときの大会、ってことは去年の話か。だとすれば木更津先輩は元から写真部にいたわけではなくて、その大会のあとに転部してきたということになる。
どうりで文化部に似合わない体育会系キャラだったわけだ、と思いながら、俺はふと心が翳るのを感じた。
女子に女子のファンがつくってのは意外ではあったけれども、実際に先輩の人となりに触れた俺も、ファンになる人の気持ちが分からなくはなかったりする。
木更津先輩は見た感じ裏表もなさそうだし、性格は〝闊達〟という言葉を絵に描いたようで、話していて気持ちのいい人だった。
おまけに面倒見も良くリーダーシップもある。あれで男だったなら、氷室なんか目じゃないくらいモテたはずだ。
けれども先輩は、悔しくはなかったのだろうか。俺みたいな何の取り柄もない人間とは違って、先輩には夢があったのに。
その夢のために人一倍努力して、才能だってあったのに諦めなくちゃならなくなって。
それでも今、あんな風に笑っていられるのは何でなんだろう。
「もったいないよね。先輩、今はもう陸上の話なんてほとんどしないみたいだけど、もうちょっと上まで行ってたら、自分で走るのは無理でもコーチとかやれたかもしんないのにさ。あたしなんて何にも才能ないから、先輩みたいな人にすごい憧れるのになぁ」
「……」
「――って、さやか! ちょっと、どこ行くの!?」
「え?」
「まさか帰り道まで忘れたなんて言わないよね? 駅はこっちでしょ!」
「駅?」
一体何のことを言っているのかと思い、俺は立ち止まって首を傾げた。
舞が指差しているのはたった今俺が素通りした曲がり角で、その先にはなるほど確かに駅がある。
やや寂れた商店街の外れにある、古く小さな駅だった。とは言え俺はその駅になど用はない。絢子さんの店兼家は聖女から歩いて二十分くらいのところにあり、わざわざ駅に行って電車に乗る必要などありはしないのだ。
「私、駅に行く用事なんて特にないけど……」
「は!? 何言ってんの!? まさかここから青女町まで歩いて帰る気!? あんた、朝どうやって学校まで来たの!?」
「青女町?」
青女町というのはここ、天岡市の南にある隣町で、電車に揺られて行けば三十分ほどで行ける小さな町だった。
が、その青女町がどうかしたのか、と俺が尋ねれば舞は盛大なため息をつき、まるで頭痛がするとでも言いたげに額を押さえて首を振る。
「ああ、ダメだ、ダメだわこの子。本当にまだ本調子じゃないみたい。ていうか自分の家の場所も忘れてるって重症でしょ」
「え……わ、私の家ならこっちだけど……?」
「どこの家のこと言ってんの! あんたの家は青女北駅から歩いて十分の蓮村家でしょ!」
蓮村家。その単語を聞いて、俺はようやく理解した。会話が噛み合わなかった原因を。
そう言われてみれば俺は絢子さんの家に帰るのを当たり前のように思っていたが、俺は今蓮村さやかであり、さやかの家は別にあるのだ。それなら俺は当然そちらの家に帰るのが筋であるし、友人の舞もそう信じて疑っていない。
が、肝心なことに俺はさやかの実家の場所や家族について、一切の情報を持ち合わせていなかった。
ただ何となく自分はこれから絢子さんの家で暮らせばいいのだと思っていたし、絢子さんもさやかの家のことには何一つ触れていなかったのだ。
「はあ、まったくおばさんったら、こんな状態の娘を一人で学校に行かせるなんて何考えてるんだろ……これじゃ危なっかしくて外出させられないじゃない。しょうがないから、今日はあたしが家まで送ったげる。分かったら行くよ。ほら、こっち!」
「えっ、ちょ、ちょっと待っ……!」
俺の混乱が収束するのを待たず、ときに舞が俺の左腕を引っ張ってぐいぐいと駅の方へ連行し始めた。俺はとっさにそれを拒もうとしたのだが、舞に掴まれた左腕は既にしっかりと抱き込まれてしまっている。
ああ、頼むから待ってくれ。今の俺がさやかの家に帰ったところで、俺はさやかの家族のことなど何も知らないし、そもそもさやかのことが家族にどう伝わっているのかも分からないんだ。
そう訴えたいのにできないのは、人には話せない複雑に絡み合った事情が原因で――はない。その前に俺の左腕に押しつけられた、やわらかな感触の方が原因だ。
舞が抱えるようにして掴んだ俺の腕は、何と舞の豊満な胸の谷間にジャストフィットしていた。そのまま舞が力任せに俺を引っ張っていこうとするので、谷間に食い込んだ俺の腕にはその感触がダイレクトに伝わってくる。
この状況で物事を冷静に考えろ、と言う方が無理な相談だった。俺の思考は左腕を包み込んでくる未知の感触に支配され、とても他のことなど考えられそうになかった。
脳みそが沸騰して爆発しそうだ。舞は女同士だからと気にせずやっているのだろうが、実は男である俺はみるみる顔が真っ赤になっていくのを感じる。




