死亡宣告
「――あなた、三日後に死ぬわね」
それはあまりにも唐突な宣告で、俺はぽかんと間抜け面を晒すしかなかった。
目の前にいるのは、全身黒ずくめの見知らぬ女。その手にはニンジン。
まったく奇妙な絵面かもしれないが、実を言うとそうでもない。
何故ならここはスーパーの野菜売り場。それを思えば、ニンジンの存在は別段不自然ではないだろう。
かく言う俺の手にもまた、五本のニンジンが入った袋が握られている。
一袋一九八円。安いのか高いのかはよく分からない。というか問題はそこではない。
今ここで特筆すべきなのは、この俺が何故突然、見ず知らずの女から不躾な死の宣告をされなければならないのか、ということだ。
事の発端は、そう、今からおよそ十分前に遡る――。
*
送信者:母さん
件名 :タケルへ
本文 :
おつかれ。
今日の夜ごはん、カレーなんだけど、ニンジン買うの忘れました。
お金はあとで渡すから、帰りに買ってきて下さい。よろしく~。
鳴り響く放課後のチャイムを聞きながら、俺はげんなりと顔を歪めた。
帰りのホームルーム中、鞄の中でスマホが震えたときから嫌な予感はしていたが、やっぱりコレだ。
俺は盛大なため息をつき、斜めがけの鞄の中へ再びスマホを押し込んだ。そんな俺の憂鬱に気が付いたのだろう、先に靴を履いて外に出ていた智樹がこちらを向き、にやりとからかい混じりの笑みを刻む。
「どうした、タケル。また〝指令〟か?」
「ご名答。今日はニンジン買ってこいとさ」
「ハハハ、やっぱりか。夏休み終わって早々来たな」
「ったくよー、何でうちの親はこう忘れっぽいんだか……毎度毎度パシられるこっちの身にもなれっての」
もはや決まり文句となってしまった愚痴を零しながら、俺は赤いスニーカーの爪先でとんとんと軽く地面を叩く。履いたばかりの靴が足に馴染んだ。昇降口を出ると、強烈な夏の日射しと共にどこからか蝉の声が降り注いでくる。
八月某日。天岡市西部にある市立天岡高等学校に通う俺は、つい昨日、あっという間に過ぎ去った夏休みを偲びながら、一年後期の始業式を迎えたばかりだった。
長い休みを終え、これからまた宿題やらテストやらに追われる日々が帰ってくるのかと落ち込んでいた矢先に、母親からのこのメールだ。
中学時代からの親友、那地智樹が〝指令〟と呼ぶそれは、忌々しいながらも俺の中ではもはや日常茶飯事と化してしまっていた。
うちの母親は、とにかく物忘れがひどい。買い物に行って必要なものを一つ二つ買い忘れてくるなんて当たり前だ。
そして俺はその度に、体のいい使いっぱしりとして出動を命じられていた。一人っ子の俺にはその役を譲れる相手もなく、ほとほと困り果てているというのが現状だ。
「おばさん、ほんと忘れっぽいよなー。メモ作戦も結局失敗したんだろ?」
「うん。せっかく買うものメモしても、そのメモ忘れて買い物行ったり、そもそもメモすることすら忘れたりで、もうどうしようもねーわ」
「そっかぁ。ま、元気出せよ。土曜はKODで好きなだけ勝たせてやるからさ」
「いらねーし。手加減されて勝っても嬉しくねっつの」
「けどお前、まだおれに勝てたことねーじゃん?」
「うるせ! お前みたいな廃人に勝てるわけねーだろ、俺はライトプレイヤーなんだよ!」
校門を出ながら俺が声を荒らげると、智樹は声を上げて笑った。
『KOD』というのは『ナイツ・オブ・ドラゴンズ』の略で、最近巷で大流行のテレビゲームだ。土曜は智樹の家にお邪魔して、一緒にKODをプレイする約束になっている。
「あ、そういや土曜ってさ、夏苗ちゃんも家に居んの?」
「さあ。なんも聞いてねーけど、たぶん居んじゃね? あいつ部活引退したし」
「あれ、引退したの? バド部ってもう大会ないんだっけ?」
「うん。あいつ県大会で負けたから」
「マジで? 落ち込んでた?」
「ちょっとね。これで受験勉強に集中できるって親は喜んでたけど」
「かわいそうだな」
と、俺が思わず呟いたのは、何も智樹の親の言いざまに憤慨したからではなかった。
智樹の妹である夏苗ちゃんは熱心なバドミントン部の部員で、一度でいいから全国大会に行ってみたいと中一の頃から練習に励んでいたのだ。
そんな夏苗ちゃんが中学最後の大会で敗退し落ち込んでいたと聞くや、俺まで気分が鬱いでしまった。
夏苗ちゃん、あんなに頑張ってたのにな。そう思わずにはいられない。
……え? もしかして夏苗ちゃんのことが好きなのかって?
ええ、好きですよ。同じ中学に通ってた頃から。
だってちっちゃくて可愛いんだもん。智樹には言ったことねーけど。
「けど、それじゃ夏苗ちゃん、進路決まったの?」
「うん。あいつも天高受けるって」
「マジ? でも、親は聖女に行けって言ってたんじゃないっけ」
「一応聖女も滑り止めで受けるらしいけど、あいつじゃ無理だろ。聖女レベルたけーもん」
「お前が勉強教えてやれば?」
「冗談じゃねー。そんな暇あったらゲームやるわ」
「うわ、サイテー」
と智樹をからかいながら、しかし俺の心は弾んでいた。
そうか、夏苗ちゃんも天高に来るのか。そしたらまた学校で会えるじゃん。やべーな、想像したらにやけそうだ。
とは言え不用意ににやついて智樹に怪しまれるわけにもいかず、俺は適当に話題を変えた。智樹とは途中まで帰る方向が同じなので、よく一緒にくだらない話をしながら帰る。
部活も二人揃って帰宅部同然の文化部に入り、締まりのない学校生活を送っていた。
ま、それはそれで楽しいからいいんだけど。
来年からはそこに夏苗ちゃんも加わるのだと思うと、やはり俺の心は期待に弾む。
「じゃ、俺、ここ寄ってくから」
と、その俺が声を上げたのは、一軒のスーパーの前だった。
俺たちの通学路の途中にある小さなスーパーで、このあたりの団地に暮らす主婦御用達の店。その主婦らに混じって、いまや俺も常連となりつつあるのが物悲しい。
そんな哀愁を覚えつつ智樹と別れた俺は、遠い蝉の声を聞きながらスーパーに入った。
途端にふわっと体を包み込んでくる冷気に、ついついほっと息をつく。
(えーと、ニンジンニンジンっと)
自動ドアの前でささやかな幸せを噛み締めたあと、俺は早速任務遂行のため動き始めた。
と言っても大抵のスーパーマーケットがそうであるように、野菜売り場は入り口の目の前だ。ニンジンの見世棚は真ん中で二つに割られ、右が五本で一つの袋売り、左がバラ売りとなっている。
俺はその二つを見比べ、数瞬悩んだ末に右の袋入りを選択した。バラ売りが一本五八円なら、五本で一九八円の方が断然安いだろう。
(ま、その分見栄えは悪いけど、五本もあれば足りるだろ)
そう思いながら、俺は左の棚のニンジンへ手を伸ばした。
そのとき、そんな俺とほぼ同時にニンジンを掴んだ腕がある。
はっとして目をやると、いつの間にか俺の右隣に一人の女が佇んでいた。その出で立ちがあまりに珍妙で、俺は思わず目を見張る。
一言で言い表すならば、某人気探偵漫画の悪役よろしく〝黒ずくめ〟。
女は両手に肘まで届く黒いレース生地の手袋を嵌め、服は黒のワンピース、その丈は黒いハイヒールを履いた両足の踝まで届いていた。
おまけに涼やかな黒髪は腰まで真っ直ぐに伸び、その上に極めつけの黒い帽子が乗っている。つばが異様に広く、顔を鼻のあたりまで覆うベールが垂れ下がっている帽子だ。
葬式か何かの帰りだろうか。しかし喪服にしてはいささか優雅すぎるような気がするし、親類縁者、または友人知人を亡くしたあとの悲愴のようなものも感じなかった。
涼しげな表情をしてニンジンを手に取ったその横顔は、二十代半ばから三十手前くらいに見える。黒い服の下に覗く肌は際立って白い。おまけに顔立ちもどこか日本人離れしていて――陳腐な言い回しかもしれないが――まるで西洋人形のようだ。
こんな女初めて見た。薄いベールの下に見えるあまりに端正な顔立ちと相手がまとうミステリアスな気配に、俺は目が離せなかった。
棚の上のニンジンを掴んだまま手が止まる。そのとき、手にしたニンジンを軽く眺めていた女が目を上げる。
ばっちり視線がかち合った。驚きのあまり、俺は仰け反りそうになった。
まるで黒い宝石のように無感情な目が、じっと俺を見つめてくる。
あまりにもまじまじと見すぎただろうか。失礼なガキだと思われたのなら謝らなければならない。
「あ、あの……」
「――あなた、三日後に死ぬわね」
「は?」
――そう、こうして話は冒頭へ至る。ここまでの一連の流れからはまったく予想できない展開だろう。
というか支離滅裂だ。何でごく平凡な男子高生である俺が学校帰りにたまたま寄ったスーパーで、初対面の相手にいきなり死を宣告されなければならないのか。しかも三日後って、いくら何でも唐突すぎるだろ。
俺が胸中でそんなツッコミを入れ、しかしそれを口に出してもいいものかどうかと困惑していると、女は更にこちらへ顔を近づけてきた。――ちょ、ち、近い近い近い!
何なんだこの人。もしや触ってはいけない人に触ってしまったのでは、と俺があとずさったのも束の間、相手はそんな俺の心境などまるでお構いなしに言う。
「死んだら私のところへいらっしゃい。相談くらいなら乗ってあげるわ」
いや、だからなんで俺が死ぬこと前提なんだよ。
涼やかな声色で淡々と告げられた世迷言に、俺はまたしても胸中でつっこんだ。
が、当の女は一方的に言いたいことを言ってニンジンを買い物かごに入れると、あとは何事もなかったかのように去っていく。その浮き世離れした後ろ姿を、俺はただただ見送るしかない。
かくして、三日後。
俺は死んだ。