失踪
布槌総合病院の4階階段踊り場に、一人の小柄な女性が佇んでいた。
定規で線を引いたかのように真っ直ぐ整えられた白髪。ぴたりと身体にフィットしたスリーピーススーツは皺一つ許さず、床に対して垂直に伸ばされた背筋は一切の揺らぎがない。人間というよりむしろ彫像的である印象を受ける女だ。
周囲には、『鑑識』の腕章をつけた人間が、大勢で現場検証を行っている。女性はその作業の邪魔にならない位置で、年配の鑑識官と時折会話を交えながら、タイプライターのような速度と正確さで、手に持った手帳に一言一句まったく同じ大きさの文字でメモを取っていた。
『布槌総合病院の人間が、全員失踪した』
その連絡を受けて、彼女が現場にやってきたのは早朝帯のことだ。現場は病院全体という膨大な捜索範囲での調査は、昼近い現在でもまだ終わる気配がない。その上、収穫も芳しくないらしく、みな苦り切った顔をしていた。
しかし、それは鑑識が無能であるというわけではない。彼らの優秀さを女はよく知っていたし、信用している。傍から見ていた彼女にも、鑑識の苦悩ともどかしさが手に取るようにわかった。なにせ、病院からは、文字通り塵一つ発見できないのだから。
病院内の人間全員が一晩で消えた。何らかの事件があったのは確実なのに、院内の隅々まで探しても何の痕跡も見出せない。鑑識の顔が曇るのも当然であろう。
その苦悶が理解できるからこそ、女性も鉄面皮を僅かに崩して眉を寄せる。まだ若いが、彼女を軽んじるような者がいないのは、会話をするまでもなく伝わってくる生真面目さが好印象を与えるのか、あるいは――
「やぁ、おはよう、ミス荒木!今日も一段と麗しいね!せっかく君からお誘いの電話をくれたのに、待たせてしまって申し訳ない。お詫びにモーニングコーヒーでも奢ろうかと思うのだが、下のカフェまで一緒にどうかね?」
あるいは、上司の不真面目さが、相対的に彼女への評価を底上げしているのかもしれない。
イタリア製の高級スーツを身に纏ったその男は、シャツの胸元を大きく開け、レッドカーペットの上でも歩くかのように優雅に歩を進める。鑑識が調べ回っているのも気にせず、ずかずかと足跡を残す男に対して、鑑識たちから現場を荒らされたことによる悲鳴が上がった。
ただ一人、眉一つ動かさずに視線を投げたのは荒木と呼ばれた白髪の女性だけだった。
「おはようございます、半津警部。しかし、最初の出動要請から5時間42分が経過し、現在時刻は11時15分。モーニングというには遅い時間だと判断できます」
「おっと、もうそんな時間だったのかい?早朝の9時に起きて、たったの2時間で身支度を整えて出てきたというのに、時の流れとは早いものだね。だが、移ろいゆく時の中でも変わらないものがある。それが何かわかるかね?」
「わかりません。なんでしょう」
「君への愛さ」
片手を銃の形にし、荒木の胸に向かって撃つ仕草をする。モデルもかくやという美形のウインクは、気障ったらしくてもときめいてしまう魅力があったが、荒木の表情筋はぴくりとも反応しなかった。
ぴしりと乾いて、ひび割れるような音がする。
「そうですか。雑談はこれくらいにして、ご報告してもよろしいでしょうか?」
「ふっ、ミス荒木も大胆だね」
長身の半津は髪をさっとかきあげて荒木に流し目を送る。辺り一帯に、男物の豊潤な香水の香りが漂った。
「大胆?」
「僕に告白するつもりなんだろう?こんな大勢の前で打ち明けるなんて、大胆だなと思ったのだよ。僕としても、女性に恥をかかせるわけにはいかない。返事はもちろんOKさ」
バキン。先ほどのひび割れるような音に続き、何かが折れるような音がする。見ると、荒木が手に持っていたボールペンが握りつぶされ、中ほどから砕かれていた。
なお、荒木の表情は型取りでもされているように、一切の表情がない。
「……すごい握力だね、ミス荒木?あと、なぜだろうか。表情は全く変わってないはずなのに、君を見つめていると背筋がぞくぞくしてくるんだが」
「ご報告してもよろしいでしょうか?」
「ん?なんだ、聞き逃していたのかな?まったく、ミス荒木はドジっ娘さんだね。でも、そういう君もかわいいと思うよ?もう一度言ってあげよう。僕の返事は――」
「ご報告してもよろしいでしょうか?」
「……あの、ミス荒木?」
「ご報告してもよろしいでしょうか?」
「あっはい。よろしくお願いします」
表情を1ミリも動かさないまま、壊れた録音機のように同じ言葉を繰り返す荒木にさすがに怖いものを感じたのか、半津は話を促す。彼女が右手に握っていたボールペンの残骸は、言葉が繰り返されるごとに更なる破壊の憂き目に遭い、もはや原形を留めていなかった。
返答に満足した荒木は、まったく変わらぬ表情のまま、手帳に目を移す。
「では、半津警部の脳にもわかるように噛み砕いて申し上げさせていただきます。約6時間に及ぶ科学的調査の結果、院内の何処からも、医者・看護師・患者その他すべての人間の姿かたちはおろか、血痕の一つも見つかっていません。指紋に至るまで、すべてです」
「ほほぉ。この病院の清掃係はずいぶん優れているようだね。ぜひともうちで雇いたいのだが、どんな人物かね?美しい女性なら文句なしだが」
「清掃係も失踪者の一人です」
真顔で尋ねる警部の言葉を冗談と捉えたのか、あるいは本気で聞いていると理解した上で諦めているのか不明だが、荒木はバカ真面目に返答する。
それは残念だと惜しむ半津を置いて、荒木は手帳のページをめくる。
「ベッドには寝ていた痕跡があり、執務室には書きかけの業務日誌がありました。その他、人がいた痕跡は見受けられるのですが、姿かたちの一切がなく……まるで突然人が消えてしまったかのような様相です」
「ほほう!それは面白い。まるで、メアリーセレスト号のようじゃあないか」
「メアリーセレスト号?」
「なんだ、知らないのかね? メアリーセレスト号というのは、1872年に発見された無人の漂流船のことだよ。この船が普通の漂流船と違うのは、船の状態が良好であったにもかかわらず、船員だけが忽然と消えてしまった点だ。現代の幽霊船のモデルは、ほとんどがこの船だと言っても過言ではない」
自慢げに語る半津に対し、はぁ、と気のない返事を返す荒木。事件解決に繋がらないような雑学には興味はないようだ。だが、珍しく知識で荒木に勝てている半津は得意げな顔になり、調子に乗ってさらに自分の考えを上乗せする。
「ふふふ、ミス荒木。私はこの事件の犯人がわかったよ」
「……誰ですか?」
「ずばり、幽霊さ!」
相変わらず表情は一切変わらないが、向けられている瞳には極寒の思いが込められていることに気付かず、半津の『名推理』は続く。
「さしものミス荒木も、私の推理に驚きを隠せないようだね?」
「はい、その通りです。では、警部は行方不明になった人たちがどこへ行ったとお考えで?」
「無論、幽霊に攫われて、神隠しにあったのだよ」
「……では、行方不明になった人々の痕跡がないのは?」
「ふっ、犯人が幽霊であるのなら、そのようなこと造作もないだろう」
「…………院内の機材の一部が破壊されているようですが、幽霊ならば触れられないのでは?」
「はっはっはっはっ、ポルターガイスト現象をご存じないのかね?勉強不足だよ、ミス荒木」
「…………」
荒木が黙り込んでしまったことに対して、半津は彼女が自分の推理に納得したと判断したようだ。半津は髪をかきあげ、満足そうな笑みを浮かべる。
「では、これにて事件解決だね。ミス荒木は報告書をまとめておいてくれ」
「本当によろしいのですか?」
「無論だとも!はっはっはっはっ、事件解決時の気分は爽快だね!」
自らの意見に一切の疑問を持っていない男に、さすがの荒木も反応に困って少し目が泳ぐ。そこでふとなにかに思いついた表情になった荒木が、爆弾を投じた。
「あぁ、そうだ。今回の事件の責任者は荒木くんということにしておこう」
「……はい?」
「私の推理で君の手柄を奪ってしまうのは忍びなくてね。君の担当事件ということにすれば、君の手柄になるだろう?部下思いの上司からの粋なプレゼントとでも考えてくれ。なに、お礼ならば、今度ディナーを一緒してくれるだけで構わないよ」
「あの……」
さすがの荒木も、これは止めておかなければまずいと反応せざるを得なかった。半津自身は欠片も悪気がないのが逆に性質が悪い。
「おっと、ランチの時間のようだ。では、私はこれで失礼するよ。ディナーの件、楽しみにしているよ、ミス荒木」
「いえ、あの……」
まるでそれが当然であるかのように、荒木の声を無視し、半津は嵐のように去っていく。彼の頭の中にはもう事件のことはなく、昼食のメニューを何にしようということだけだった。
荒木は、声をかける体勢で固まったまま、ぽつんと残された。
「……嬢ちゃん、報告書書くの手伝おうか?」
「いえ、それでは鑑識の方々にも責任が及びます。現在のところ、責任者を押し付けられたのは私だけなので、私だけで済ませてしまうのが一番でしょう」
気を使ったベテラン鑑識官の提案を辞退する荒木。このような性格ゆえに、この手の迷宮入り事件の責任を押し付けられやすく、有能でありながら無能扱いされ、まったく昇進できない苦労人として布鎚警察署内に名を轟かせる婦警であった。




