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布槌奇譚~蟲愛ずる姫君~  作者: くろまりも
壱ノ怪 玉虫と羽蟲
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玉虫と蟲

「まぁ、そんなことは今はどうでもいいでやがります。それより、急いで逃げるですよ」

「は?逃げるって……」

「……残念ながら、他の患者を守ってる余裕はございやがりません。むしろ、私たちが早くここから離れたほうが、他の人たちが生き残れる可能性が上がるはずです」

「何言って……」

「早く来るでやがります!」


 女性の割には強い力で、ベッドから無理やり引きずり立たせられる。ケースケは慌てて携帯と財布を手にとり、勢いのままに雨音に引きずられていった。

 二人とも、上履きは愚か、スリッパすら履いていなかったので、廊下の冷たさを足の裏に感じながら、ぺたぺたと進む。抵抗することもできたが、雨音のただならぬ様子に気圧され、ケースケはおとなしく随伴した。

 そこでふと、彼女が無手であることに気づく。


「……あれ?雨音、先刻刃物かなにか持ってなかったか?」

「しっ、静かに」


 そう言って、階段手前の廊下でぴたりと止まる雨音。壁に背をつけ、そっと覗きこむようにして階段をうかがう。


「ひぃ、ひいいいいい!!た、助けてくれええええええ!」


 雨音が顔を出すのと同時、階段から一人の男性患者が廊下に転がり込んできた。一瞬驚いて体を硬直させるが、すぐに気を取り直し、声をかけるために雨音が口を開く。

 だが、雨音の言葉が声になるより早く、男の身体に玉虫色の触手のようなものが絡みつく。


「うおおやぁだああああああ!!やめてえええええええええええええ!!」


 悲壮な声を出して抵抗するも空しく、男は階段の方へと引きずられていく。雨音が手を伸ばして男の腕を掴もうとしたが、指先が触れることもなく空を切った。


「あ……」


 暗闇の中でもそれとわかるほど、雨音の顔が青ざめる。おそらく、ケースケも同じような表情だったろう。顔から血が引く音というのを、初めて実感していた。


「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 男の悲鳴が、ケースケと雨音の耳にねっとりと絡みつく。救いがあるとすれば、その悲鳴はさほど長く続かなかったことだろう。

 廊下は、病院特有の薬臭い匂いを塗りつぶすほどの濃い血臭に満たされていた。先程から階下から聞こえてくる『テケリ・リ』という歌声は、もはや耳をそばだてる必要もないほど近くから聞こえてきている。そして、その唱和のリズムに合わせるように、肉と骨が咀嚼される音が鳴り響いていた。


「なん、だ、あれ……」


 静かにしろと言われたばかりなのに、つい声を出してしまったケースケを、雨音は咎めなかった。雨音自身も顔を青くさせ、吐き気を抑えるのに必死だったからだ。

 無理もない。目の前に本来あるはずの階段は消失し、代わりとでも言うように、玉虫色の肉の塊がその空間を埋め尽くしていたのだから。肉塊には無数の目と口がついており、その瞳がケースケと雨音を捉えると、一際大きな声で『テケリ・リ!』という唱和の声を強める。

 その玉虫色の肉壁の周囲には、ところどころ赤や肌色の物体がいくつも転がっていた。それは人間の皮膚や内臓、血であった。そのことを見てとったケースケは、それらが目の前の肉壁の『食べかす』であることを本能的に理解してしまった。


――あれはなんだ?生き物なのか?


 ケースケは、自分が今いる場所が、本当に病院なのかどうか――いや、そもそも現実なのかさえ定かではない感覚に陥る。しかし、そんな現実逃避の思考も虚しく、目の前の凄惨な光景を目の当たりにして、胃からこみ上げてくるものがあるのを感じる。


「うっ……」


 思わず、口元を抑えて、一歩後ろに下がる。その行為を逃走と判断したのか、玉虫色の肉塊から、いきなり数本の触手が飛び出してきた。

 アレに捕まったら、自分も目の前に転がっている『食べかす』と同じ末路を辿る。そのことを理解していながら、ケースケはその場を一歩も動くことができなかった。仮に動けたとしても、触手はことのほか素早く、それらに体が対応できなかったであろう。


「うわっ!?」


 それでも彼の生存本能が、両腕を顔の前で交差されて目をつぶらせた。そんなものは、人間の体をガムのように噛み潰してしまう触手の前では無意味なはずだったが、いつまで経っても想像していたような痛みはやって来なかった。

「?」


 恐る恐る開かれたケースケの瞳に、雨音の後ろ姿が映った。玉虫色の触手群は雨音の体に吸い込まれるように伸びて静止しており、だらんと力なく下がる雨音の腕からはポタポタと雫が断続的に落ちていた。


「あ、雨音!?」


 最悪の事態を予想してしまったケースケが声を上げると同時に、玉虫色の触手群がグズリと音を立てて崩れる。床に落ちたそれらは、強酸でもかけられたかのように溶けていった。

 驚くケースケをよそに、雨音は両手をゆっくり前に上げ、拳闘の構えを取る。その両腕には、左右一本ずつ巨大な刺が生えていた。いや、刺というより、蜂の針に近いかもしれない。針にこびりついていた玉虫色の液体を、雨音は軽く振り落とす。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


 それに応えるのは、玉虫色の肉塊。心なしか怒りを含むように甲高い鳴き声を上げると、先ほどよりも遥かに多くの触手が飛び出してくる。

 その数、十六。

 一本一本が必殺。人間であれば、例え一本であっても反応できずに命を奪われるであろうそれらを、雨音は目にも止まらぬ速さで捌いていく。捌かれると同時に針を突き立てられた触手は、形を崩し、床や壁に玉虫色の肉液として叩きつけられていく。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


 全ての触手を捌ききられ、溶かされた肉壁から、再び倍近い触手が生えてくる。と、同時に、肉壁が真一文字に避け、そこが何百もの牙が生えた口になる。

 そこで初めて、ケースケは目の前の肉壁が一匹の得体の知れない怪物の顔であると気づいた。階段を丸々埋めてしまうそれの全長を想像し、ぞっとなる。


「なんなんだよ……なんなんだよ、これ」

「説明は後にして、今は生き残ることだけに集中しやがれです。ここは私が足止めするです。ケースケくんは火災用の脱出器具を探して準備しやがってください」

「あ?だけどよ……」


 反論しかけて、ケースケはぐっとこらえる。聞きたいことはたくさんあるし、少女を置いて一人で逃げることは気が引けた。だが、雨音の言うことはもっともだし、自分が足でまといであることは明らかだ。彼女が何者であるかは気になるところだが、少なくとも敵ではなさそうだ。ならば、彼女の言うとおりに動くのが、自分にとっても雨音にとっても最善だ。


「なぁに、あんな雑魚、すぐにやっつけて追いつきますです。無事に帰って、二人でパインサラダでも食べながら、一杯やりましょう。私、未成年でやがりますが。……あいるびーばっく」

「盛大に死亡フラグ立てるのやめろ!縁起でもない!」


 冗談めかして親指を立てる雨音を残し、ケースケは走り出す。直後、背後から激しい闘争の音が響く。振り向きたい気持ちを一心に抑え、言われた通りのものを探す。

 来た道を戻ると、さすがに一般入院患者たちも騒ぎに気づいたのか、廊下に出てきていた。


「なんか騒がしいのぉ。看護師さんもおらんし、なんかあったんか?」

「ん?おぉ、兄ちゃん。なんか慌ててるみたいだけど、どうした?」

「あ?えと……」


 廊下に出ていた患者の何人かが、ケースケに声をかける。正直に言ったところで信じてもらえないのは明らかなので返事に困っていると、患者の一人が、雨音がいる階段とは別の階段から階下に降りようとしているのが目に止まった。


「待て!階段に近づくな!」


 しかし、その忠告は遅かった。

 階段から無数の触手が伸びてきたかと思うと、悲鳴を上げる患者を引きずり込み、豚を粉砕機に放り込んだような音が廊下中に響き渡る。

 呆気にとられる患者たちの前にころころとボールのようなものが転がってきた。――先ほど階段に向かった患者の頭部が、光のない目で見つめてきた。

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