深夜の来訪者
「ん……」
ふと、夜中に目が覚める。カーテンが薄く開き、雲間から漏れる月光がわずかに照らす室内で、ケースケは自身にのしかかる息苦しさから意識を戻した。
薄く開いた目に、黒い影が映り込む。身体は重く、何かがのしかかっているかのように動けない。あぁ、これが金縛りってやつかなと寝ぼけた頭でぼんやりと考えていたが、徐々に覚醒していくうちに、それが実際に自分の上に誰かが乗っているのだと気づく。
影はケースケの上にまたがった状態で、右手をケースケの喉に近づける。ケースケは、自分の喉元が固く鋭いものによって圧迫されているのを感じ、ナイフのようなものを喉に当てられているのだと察する。
「誰、だ?」
明らかに友好的ではない相手に対し、ケースケは冷や汗を流しながら問いかける。ちょうどその時、月を覆っていた雲が引き、明るい月明かりが室内を白く染めた。
「あ……」
ケースケはその光景を目にした瞬間、息を呑む。先程までの恐怖は一瞬にして消え失せた。今はただ、目の前のことで頭がいっぱいだった。
それは、あまりにも……あまりにも幻想的すぎたから。
月光を受けて流れ煌く黒髪。夕日のように紅く燃えるような右目と月のように黄色く静かに輝く左目は、まだ成熟していない少女にミステリアスな妖艶さを演出している。
それは一つの芸術の到達点とも言えた。ケースケは、喉元に突きつけられた刃物に生命の危機を抱きながらも、いや、抱いていたからこそ、こう思った。
今、こんなに美しいものを見ながら死ねるなら、死んでも構わない、と。
「どうして……」
崩壊する立体駐車場の中で聞いた、あの涼やかな声がケースケの耳を打つ。そこでようやく、目の前の人物が、立体駐車場で自分が助けた雨音という少女であるということに気付いた。
雨音はケースケと同じように身体の各所に包帯が巻かれ、病院着を纏っている。ケースケと違うのは顔には包帯が巻かれていないこと。そのことに、ケースケは内心ホッとする。
立体駐車場で会った時とは違って薄汚れた感じはなく、なによりあの時は髪に隠れて見えていなかった左目が露になっていたので、印象がまったく違っていた。
だが、どうして彼女がここにいるのかケースケにはわからなかった。しかも、自分に対して明らかな敵意を向けている。わけがわからず、ケースケは少女の言葉に傾聴する。
「どうして、私を助けやがりましたか?」
「…………えー」
沈黙が流れた。さっきとは別の意味で、対応に困る感じの空気で。
少女は至って真剣に問い、少年は今の口調はひょっとしてギャグのつもりで言っているのだろうかと真剣に悩む。
ケースケはない頭をフル回転させて熟考する。ギャグのつもりで言っているのなら、ツッコミなりなんなり返してやるべきだが、そうではなく、ただの言い間違いなら何も聞かなかったことにしてスルーするべきだ。まさか、この口調が素ということはないだろう。もしそうだったら、幻想ぶち壊しである。いやいや、そんなまさか、こんな美少女がそんな痛いキャラなわけがない。うん、俺の勘違いだ。
自分が抱いていた理想が、ジェンガを鉄球で叩き壊すがごとく破壊されつつあるケースケは、そんな感じで自己保全を測る。しかし、そんなナイーブな思春期少年の思惑が相手に理解できるはずもなく、雨音はイライラとして怒鳴りつける。
「さっさと答えやがれでやがります!でないと、おまえのた○きん突き刺して、明日から女として生きるように去勢するですよ!?」
現実は非情である。ケースケは頭を抱えたくなった。こいつ、たま○んとか言いやがった。女子が人前で言っちゃいけない言葉ベスト3に入るような言葉を大声で言い切りやがったよ。
半ば現実逃避気味な思考をしつつ、ケースケは顔を引きつらせる。口調はともかく、彼女の目は真剣だった。返答を誤れば、本気で男を奪われかねない。
「……あー、どうして助けたとか言われてもなぁ」
そういえば、立体駐車場でも同じようなことを聞いてこなかったか?あの時は意識が朦朧としていて、なんと答えたのかケースケはいまいち思い出せなかった。
正直な気持ちでいえば、ノリと勢いで助けたというのが一番しっくりくる答えだが、そんな答えを返したらひどい目にあうのは、頭の回転の悪いケースケでもわかった。さりとて、気の利いた答えを返せるほど語彙に長けているわけでもない。
「なに黙りこんでやがります!本当に去勢されたいんでやがりますか!?」
頭から煙を噴き出しそうになりながら解答を模索するケースケに、少女は苛立ちの混じった声を上げる。だが、それは逆効果で、ケースケはむっとした顔になり、脅されていることも忘れて反抗的な瞳を雨音へと向ける。
「うっせえよ!んなこと知るか、バーカ!俺は頭悪いんだよ!そんな細かいこと考えて行動するか!可愛かったから、つい助けちゃったんだよ!バーカ!えっと、あと……バーカ!」
あまりに少ない語彙で正直な気持ちを並べるケースケは、癇癪を起こした幼稚園児のようであった。ケースケは雨音を腹の上に乗せたまま、腹筋のみで体を起こしてがなりたてる。その反応は雨音にとっても予想外だったのか、驚いた顔で少し体をのけぞらせる。
突然の豹変ぶりに戸惑わされた雨音だったが、一拍置いてケースケの言葉を理解すると、暗闇でもそれとわかるほどにみるみる顔を紅潮させた。
「え?いや、いきなり可愛いなんて言われても……。お互い、名前も知らない仲だし……」
幼稚園児レベルの暴言は全力スルーしつつ、両手を頬に当て、身悶えし出す少女。
雨音にとってケースケの返答は予想外だったが、ケースケにとっても雨音の反応は予想外だった。お互いに、この状況どうしようという空気が流れる。
「……あー、俺の名前は涼森螢助って言う……らしい。いいかげん、どいてくれね?月海雨音……さん、でいいんだよな?」
「……どこで私の名前を?それに、自分の名前に自信がなさそうでやがりますが」
「あんたの名前は栗林っていう女医さんから。自分の名前は……事故のショックで記憶喪失になっちまってな。同じく栗林センセに教えてもらったんだよ」
「記憶喪失?」
雨音は言葉の真偽を計るように、朱と金の瞳でケースケの目を覗きこむ。
口は悪いし、状況も最悪だが、その整った顔を真正面から見つめることになって、自然と胸が跳ねあがるのを感じる。しかし、それを顔に出すのは雨音に負けることのような気がしたので、ケースケは努めて平静な顔で黙って首を縦に振る。
「……覚えてねえでやがりますか?あそこで起こったことを」
「あー、覚えてないなぁ。まぁ、事故のことなんて大して思い出したくもねえけど――って、そっか。あんたもあの場にいたんだから、なにがあったのか知ってるのか」
「それは――」
少女が何か口にしかけたところで、ずしん、と軽い揺れが起こる。バランスを崩した雨音は、ケースケの胸に飛び込む形になった。
柔らかいものが体に押し当てられ、ふわりと甘い香りがケースケの鼻孔をくすぐった。不意打ち気味の状況に、これ以上早く動いたら壊れますという勢いで心臓を高鳴らせてしまう。
「じ、地震か?」
「違ぇます。地震だったら、もっと揺れが続くはずでやがります。地震というより、何かが病院全体を揺らしたような……しっ、静かに。聞こえますです?」
一瞬、自分の心臓の早鐘を悟られたかと思ったが、雨音の表情は厳しいと言えるほどに真剣味を帯びていた。
言われて意識を向けてみれば、確かに階下が少し騒がしい気がする。もう十二時を回っているというのに、歌うような声がかすかに聞こえる。かすかな唱和の声であるが、時間帯と場所を考えると、不気味に感じられた。
「あー、なんか歌声みたいのが聞こえるな。て、て、てけりり?外国語か?意味はわかんねえけど、そんな感じの声がする」
「っ!?さ、最悪でやがります。こんなに人の多い場所で――って、そんなにはっきり聞こえたんでやがりますか!?」
なぜか驚愕する雨音に対し、不思議そうに首を傾けるケースケ。彼女が何をそんなに驚いているのか理解できていなかった。
「……ここは4階でやがります」
「ん?おー、そうなんだ。知らなかった。それで?」
「音の出処は1階か2階ってところでやがります。徐々に上がってきていやがりますが、普通、そんなに距離が離れた場所の音なんて、そんなにはっきり聞き取れるわけねぇです」
「いや、雨音……さんにも聞こえてんじゃん。まぁ、俺の耳がいいってことはわかったけど、それがどうしたんだよ」
「無理して、さんづけしなくてもいいでやがりますよ。というか、私の話を聞いて、他に感想はないんでやがりますか?」
「あ?んー、感想って言われてもなぁ。……強いて言うなら、腹減ったなぁってことぐらいかな?雨音、なんか食い物持ってねぇ?」
「……あぁ、うん。よくわかりやがりました。バカなんでやがりますね」
頭痛を抑えるように、こめかみに手を当ててため息をつく雨音。本人を目の前にしてずいぶんな言いざまだったが、ケースケ自身も薄々気づいていたことなので、あまり怒る気にはならなかった。




