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布槌奇譚~蟲愛ずる姫君~  作者: くろまりも
壱ノ怪 玉虫と羽蟲
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狂乱

「お疲れ様。ねぇ、栗林先生もう帰っちゃった?」

「お疲れ様。先刻、当直の先生に引き継ぎを終えて帰ったところよ。今日は事故のせいで大変だったからね。何か用事でもあったの?」

「うぅん。急ぎじゃないからいいの。また明日……って、もう今日か。出勤されてからお話しすることにするわ」


 草木も眠る深夜帯。院内の見回りを終えた当直の看護師たちが、ナースステーションで雑談の花を咲かせる。昼間は多くの患者が来訪したこの場所も、夜中は閑散としたものだった。急患の知らせもなく、看護師たちの間にも穏やかな空気があった。

 こういったとき、話題になりやすいのは患者に関することだが、大事件があった直後である現在は、必然的に立体駐車場での事件の話になる。

 布槌市最大の病院である布槌総合病院は、大事故が起きた際の患者の第一の受け入れ先だ。決して他人事ではなく、実際、今日は一日、医者も看護師も忙殺されることとなった。

 立体駐車場での事件は、テレビでも報道されていた通り、看護師たちもガス漏れによる爆発事故と認識していた。生き残ったのはケースケと彼が救った少女のみで、事故に直接関連のある患者は彼らのみなのだが、その直後のガソリン引火による爆発でガラスや小さな瓦礫を被った野次馬が大勢いた。

 不幸中の幸いで、野次馬の中から死人は出なかったし、大怪我をした者もいなかったが、治療を求める患者たちが大挙として病院に押し寄せた。ようやく一心地つけたのは、診療受付時間が終わってしばらくしてのことだった。


「そういえば、事故で助かった子って、記憶喪失なんだって?」

「えぇ、そうらしいわね。女の子の方も、まだ意識を取り戻してないし……まぁ、あれだけの事故にあったんだから、五体満足で生きていることを喜ばなくちゃね」

「ふふ、それもそうね。……あら?」


 ふと、雑談を交わしていた看護師の一人が会話を止める。

 彼女たちがいるのは一階受付に当たるナースステーションだった。そこからは待合室と病院玄関のガラスドアが一望できる。救急車を駐車できるように広く取られた玄関が、街灯の光を受けて、白くぼんやりとした色に染まっている。

 看護師がそちらに注目したのは、そこに人影があったからだ。全身を覆うロングコートに幅広帽。素顔をさらさないその出で立ちに、看護師はやや不信感を抱きつつも、看護師は己の職務を全うするために応対に出る。


「あの、今日はもう診察時間を過ぎているんですが、急患ですか?」

「…………」


 人影は、問いかけに答えず、扉を引き開け、院内へと足を踏み入れる。何事かと近寄る看護師は、その人影がひどく不気味な鳴き声のようなものを発していることに気づいた。


「テケリ・リ……テケリ・リ……」

「どうしました?どこか具合でも――」


 気遣う看護師の言葉は、最後まで続かなかった。

 来訪者は近づいてきた看護師に対し、自然な動作で片腕を上げる。握手でも求めるように突き出されたその腕は、看護師の腹へと吸い込まれていった。


「あ……え?」


 何が起こったのか理解できない看護師は、自分の腹部を不思議そうに見下ろす。その部分の白衣が赤く染まっていた。脳が現実を拒否した看護師は『あぁ、洗濯しなくちゃ』と場違いな考えを頭に抱いた。その口から、つぅ、と一筋の血が流れる。


「ひっ、きゃああああああああああああああああ!!」


 その様子をナースステーションから一部始終見ていた同僚が、甲高い悲鳴を上げる。不幸なことにその悲鳴で正気に戻ってしまった看護師は、来訪者の腕が自分の胴体を貫通して突き刺さっていることを理解してしまう。


「あ、ああああああああ」

 すでに力が失われつつある両腕で、自分の体を貫いている腕を引き抜こうともがく。だが、その腕はびくともせず、傷口からグチュグチュと何か蠢く音が伝わってくるだけだった。

 その音には聞き覚えがあるが、一体なんだったか――そうだ、肉を噛み締めている時の咀嚼音に似ている。これは自分を殺そうとしているのではない。ただ、食べようとしているのだと看護師は理解する。


「や、やめて。食べないで。私のおなか、おなかかかかかかかかか」


 嘆きの声はもはや言葉にならず、看護師の目がぐるりと反転して絶命する。来訪者は『食事』を続けながら、看護師の死体を引きずり、ナースステーションへと近づく。


「ひっ!?だ、誰か!!」


 身の危険を感じ取ったもう一人の看護師は、ナースステーションから転がり出て、病院の奥へと駆け出す。警察を呼ぶ余裕も理性もなかった。動揺から周囲の物を散らかしながら、ただ、人がいる方向へと急ぐ。

 幸い、来訪者は急いで彼女を追いかける様子はないようだ。その動作はゆっくりで、看護師が逃げ切れるのは明白だった。だが、狂乱していた看護師にそんな冷静な分析ができるはずもなく、何度も振り返りながら、そこかしこに体をぶつけながらも必死の形相で走る。

 看護師は廊下を走り、非常階段へと続く扉まで辿り着く。大した距離ではないはずなのに、それはひどく遠いもののように感じた。だが、いざ到達すると、彼女にとってそれは救いの門に感じられ、その扉に安堵と希望を抱く。

 だが、ドアノブに手をかけ、この地獄のような場所から逃げようとした時、看護師は胸にふと軽い衝撃を感じる。何事かと見下ろすと、そこからは玉虫色の何かが生えてきていた。

 自分を追っていた来訪者は、まだ十メートルは後ろのはずだ。では、これはなんだ? 

 振り返ってみれば、自分の予測通り、十メートルほど後ろに、あの忌むべき来訪者の姿があった。捕食されていた看護師の遺体はすでにない。その代わりとでも言うように、来訪者の身体が一回り大きくなっている。そして、その腕が蛇のように伸び、逃げようとした看護師の背中から胸部までを刺し貫いていた。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


 死の間際、逃げようとしていた看護師の耳に、聞いたことのない鳴き声が聞こえる。それは彼女のすぐそば――彼女の胸を貫いている腕から聞こえてきていた。


「あ……」


 見下ろすと、『目』が合った。

 看護師を貫いた腕には『目』があった。『口』があった。肌は人間や動物とはまったく違ったもので、玉虫色に蠢いていた。その腕に浮かぶ口々は、まるで唱和するが如く、『テケリ・リ!テケリ・リ!』という鳴き声を繰り返している。

 その腕を見て、看護師はまた悲鳴を上げそうになるが、肺を貫かれた状態では、口から血液があふれるだけだった。傷口からは肉を咀嚼する音が響き、彼女もまた先ほどの同僚と同じ運命を辿った。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


 来訪者は食事を楽しむように、一際大きな鳴き声を上げる。取り込んだ分だけ身体が大きくなった来訪者のロングコートは裂け、人間ではありえない玉虫色の肌が下から覗く。


「おい、さっきの悲鳴はなんだ!?何かあったのか!?」


 看護師の悲鳴を聞きつけたのか、守衛を含め、何名かの人間がその場へと向かってくる気配がする。だが、来訪者には慌てた様子はなく、次の『獲物』の気配がする方へと自ら近づいていく。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


 慌ただしい一日は終わった。だが、長い夜はまだ始まったばかりだ。

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