そして、コインは地に落ちる
「あぁ?」
ケースケを探していた風香の眉がつり上がる。
眼前、探し人であるケースケがいた。
だが、それこそがおかしい。正面対決では、風香の方が圧倒的に分がある。距離はかなりあるし、なにか特別な用意をしている様子もない。上着を脱いで、全身包帯の身体を曝け出しているくらいだ。手には新しい鉄パイプを握ってはいるが、さして怖いものではない。ケースケに勝機があるとすれば不意打ちくらいなのに、あえて姿を晒すなどありえない。
「……てめぇ、頭イかれてんのか?」
風香がそう思うのも無理はないだろう。これでは先ほどの繰り返しだ。
もし、ケースケが、先刻の鉄パイプによる奇襲を考えているのだとすれば、それこそ馬鹿な話だ。風香が脳に損傷を受けているとしても、同じ手が通じるほど甘くはない。
奇策は必要ない。投擲に気をつけつつ、ショゴスをけしかければいいだけの話だ。
風香の号令一下、あらゆる角度からショゴスの攻撃がケースケに降り注ぐ。無数の小型ショゴスで動きを封じながら、大型ショゴスの触手でとどめを刺す。
が、ケースケはその多角的攻撃を、すべて紙一重の動きでかわしていく。避け、受け流し、時に攻撃に転じながら、少しずつ風香へと近づく。
驚いたのは風香だ。ケースケの反応速度は、先刻よりも明らかに速くなっている。今までは正面からの攻撃に対しては素早く反応できていたが、背後からの攻撃に対しては一拍遅れていた。いくら身体能力を向上させたからといって、ケースケは武術の達人というわけではないのだから、死角からの攻撃に反応が遅れるのは当たり前だ。だが、今はそれがない。
「てめえ!一体、何をしやがった!?」
こんな短時間で急激に強くなるなんてことはありえない。なにかからくりがあるはずだ。風香は脳が焼けつき、高熱を発するのにも構わず、ショゴスの攻撃をさらに加速させた。
どれだけ反応速度がよくなっても、限界はある。加速した攻撃についていけず、触手がケースケの顔や背中をかすめた。切断された包帯が、地にはらりと落ちる。
「な……」
包帯の下から現れた玉虫色の肌を見て、風香が顔を引きつらせる。肌に浮き上がった無数の目玉が、ぎょろりと風香を睨みつけていた。
『てけり・り!てけり・り!』
肌に浮かびあがったのは目玉だけではない。目玉と同じようにして浮き上がっていた無数の口が、呪いの唱和を開始する。
そこに立つ存在は、もはや人間と呼ぶのは憚られた。人間の名残はその形状と頭髪ぐらいなもの。全身に目と口を生やし、玉虫色に輝く肌を持つその姿は、正真正銘の化け物だった。
『……おまえに勝つには、こうするしかなかった』
全身の口が一斉に開き、輪唱するように同じ言葉を紡ぐ。その声は涼森螢助のものではない。老人のようであり、若者のようであり、男のようであり、女のようであり、そのすべてであるような声が、全身の口からまったく違う声音で話す。
若輩とはいえ、風香もショゴス使い。ケースケの状態を正確に把握し、目を見開く。
「う、嘘だ。ショゴス・ロードの姿は、脳の記憶に引っ張られるはずだ!そこまで化け物じみた姿になれるはずがない!自分が怪物だと受け入れればなれるかもしれないけど……それこそありえない!そんなおぞましい姿、受け入れられる人間がいるはずがない!」
相手を倒すために、より戦闘に適した身体に変化させる。その理屈はわかる。人間だって多くの者が強さというものに憧れる。だが、強くなることと怪物になることは別物だ。
人間の求める強さというのは、神のごとき強さのことだ。圧倒的力で相手をねじ伏せながらも、周囲の人々から尊敬と羨望を集める。大勢の人間の憧れである英雄や、一部の人間の理解を得ることができる反英雄こそがその理想形だ。
だが、怪物になるということはまったくの別物だ。それはダークヒーローとも違う。映画で言えば、ゾンビやジョーズのような存在だ。それで力を得ることができたとしても、人間は本能的に忌避する。醜く、人々から嫌われるだけの存在など、無価値だからだ。
しかし、ケースケはそれを受け入れている。そうでなければ、このような姿にはなれない。心から受け入れているのでなければ、ここまで非人間的な姿にはなれないはずなのだ。
『受け入れてくれた奴がいるんだ』
ケースケは、見るもおぞましい異物に変じた自らの右手を見下ろす。
かつての自分なら、こんな化け物じみた姿を不気味に感じただろう。だが、そんな自分に、生まれてきてくれてありがとうと言ってくれた人がいた。ほんの少し前まで、自分の出生を呪っていたというのに、たったその一言だけで自分のことを好きになることができた。
『俺は涼森螢助じゃないって。涼森螢助としての俺じゃなく、ショゴスとしての俺を受け入れてくれた。だから、俺も自分が人間じゃないことを受け入れられる』
「そんなものは理屈だ!いいか!?どれだけ強大な存在になったとしても、本質は人間でなければいけないんだ!恐れられるだけの怪物になることに何の価値がある!」
類似した存在でありながら、風香にはケースケと同じことができない。ケースケの価値観を理解することができない。風香は人間であることに拘っているから。どれだけ悪行を重ねようとも、彼女は最後まで人間であることを捨てることができない。
『あぁ、なんだ』
それが、自分と風香の最大の違いなのだと、ケースケは思った。たった二日間の出会いが、二人の死生観を決定的に別ってしまった。
『おまえ、俺が怖いのか』
ぞくりと風香の背中に鳥肌が立つ。その姿のあまりのおぞましさ。得体の知れなさ。彼女は生まれて初めて、未知なるものと対峙する恐怖を感じた。
目の前にいる生き物は兄ではない。文献で読んだどのショゴスにも該当しない。自分には理解できない価値観。どのような機能を持つのかわからない外見。
風香は思う。自分が対峙している生物は一体何なのだ?
「わ、私は人間だ!魔術師であり、超人であり、誰よりも強いんだ!」
『俺はショゴスだ。使い魔であり、怪物であり、誰よりも恐ろしい』
自分を奮い立たせるように叫ぶ。そうありたいという思いを言葉に乗せて。
「私は涼森風香!涼森家の秘術を受け継いだ、正統後継者だ!」
『俺はケースケ。過去はなく、誰でもない化け物だ』
相手に言い聞かせるように吠える。そうであるという想いを胸に縫い付けて。
「お兄ちゃん、私は――」
『姉さん、俺は――』
最後の言葉は確認ですらない。ケースケと風香の間には、それ以外の道は残されていないのだから。
そう、これは一つの儀式。向かい合うガンマンが、上空に向かってコインを投げるようなもの。兄妹であり、姉弟である二人の最後を告げる鐘。
「『――おまえを殺す』」




