業火
「…………」
返事はなかった。和葉の表情が、驚いたようなものに変わっただけだ。だが、それこそが自分の考えが正しいことであるという証明でもあった。
「雨音は、代償として、自分の羽を切り落としたんだな?シャッガイの説明をするとき、あんたはそれを俺に見せた。あの時、雨音がうつ伏せで寝てたのは羽を斬り落としたときの傷があったから。疲れてた理由も同じ。今日、ショゴスに襲われたとき、空を飛んで逃げられなかったのは、飛ぶための羽がなかったからだ」
「正解よ。正直、驚いたわ。気付くとは思ってなかった」
気づけばケースケは和葉の胸倉を掴み、壁に叩きつけていた。みしりと音がして和葉が苦しそうな声をあげたが、頭に血が上った少年は、手を緩めようという気にならなかった。
「てめえって奴は!!」
「……誤解しないでもらいたのだけれど、提案をしたのは私ではなく、雨音ちゃんよ。あの子、意外と強かだったわ。私が返事をする前に、自分で羽をもぎ取って、渡してくるんですもの。あそこまでされたら、断るに断れないわ」
「っ……」
なにか罵声を浴びせてやろうとして、できなかった。
雨音のことに関して、自分が何か文句を言えるような立場ではない。なにより、和葉はなにか悪いことをしているわけではないのだ。雨音と和葉の間での契約に、ケースケが文句をつける筋合いはない。むしろ、雨音がいなくなった今でも契約を遂行しようとしている和葉は、極めて誠実な対応を行っている。
結局、ケースケは何も言えず、和葉から手を離し、項垂れるしかなかった。解放された和葉が苦しそうに何度も咳きこんだ。
なぜ、雨音は自らの羽を斬り落してまでして、このようなことをしたのか、ケースケの疑問に答えられる人間はここにはいなかった。
「なんでだよ。……なんで、俺なんだ!俺は、雨音が身体を切り売りしてまでして救う価値のある男じゃない!なのに、なんで雨音はそんなことまでして俺を!?」
答えられる者などいないと分かっていても、ケースケは問わずにはいられなかった。
「……あなた自身に、選んでほしかったんじゃないかしら」
壁に叩きつけられたことを怒るでもなく、和葉は静かに言う。それはきっと、和葉の想像でしかなかっただろう。だが、すっとケースケの胸に入ってきた。
「選ぶ……」
――ケースケくん、あなたがすべてを思い出した時、あなたは選択をしなきゃならない
その言葉は、雨音が最後にケースケに告げた言葉。
自分は本当に馬鹿だ、とケースケは思う。雨音が自分を恨んでいるなどと勘違いしてしまった。雨音は、自らが死の淵に立ちながらも、最後まで彼のことを心配していたのだ。あんな言葉を恨んでいる人間に言えるわけがない。
だが、それでもケースケには、雨音の思いが理解できなかった。自分は雨音の憎悪の対象となってもおかしくないというのに、何故彼女は負の感情を抱かずにいれたのか。
「……ただ一言で、よかったんだ」
ケースケは顔に手を当て、深く溜息を吐く。
「『命がけで助けろ』とか『苦しんで死ね』とか。その一言がどんなことであっても、俺は雨音の望みのためなら、なんでもやった。なのに、どうしてあいつはこんな選択肢を俺に残したんだ?なぁ、和葉。頭の悪い俺に教えてくれよ。あいつは、俺に何をしてほしいんだ?」
「その質問の答えも含めて、あなたに選んでほしかったんじゃないかしら?」
雨音や風香のことを忘れ、新しい人生を歩むか、報われないと知りながらも、雨音を救うために勝ち目のない勝負を風香に挑むか。
それを、選べと言うのか。
――後悔だけはしないようにしてください
「……ったく、無茶言いやがるぜ」
まったくもって酷な選択としか言いようがない。極めてアンフェアだ。片方は確実に命を拾い、片方は確実に命を落とす選択肢なのだから。
「……和葉から見て、俺が風香に挑んで勝てる確率はどれくらいだと思う?」
「ゼロね。あらゆる点で、あなたに勝ち目はない。せっかく雨音ちゃんが身体の一部を犠牲にしてまで用意した戸籍も無駄になって、犬死にね」
「和葉が助力してくれることを前提に考えた場合は?」
この質問に対しては、和葉は片眉を吊り上げて少し怒ったような口調になる。
「多少は可能性が出るでしょうけど、私は力を貸す気はないわ。あなたが私を雇えるくらいの報酬を支払うなら話は別だけど、あなた、一文無しでしょう?」
「だな」
必要な時に必要なカードを持っていることは稀だ。人は今ある手札だけで、結果を出さなくてはならない。
やはり、自分と涼森螢助は同一人物なんだな、とケースケは思う。薄い可能性に賭け、何も得ることのできない結果を求めようとしている。
「……それでも、行くのね?」
「あぁ」
床に落ちていたマッチを拾い、火をつけて投げる。淡い炎はガソリンに燃え移り、瞬く間に火の海へと変わった。
煙に捲かれる前に、二人は地下室を後にする。いつの間にか、和葉が資料の一部を抱えていたが、ケースケは特に気にしなかった。所有権を主張する気はない。持っていきたいのなら持っていけばいい。ここにあるものは、涼森螢助にとっても、ケースケにとっても無価値なものだ。自分で活用するなり、売り捌くなり、好きにすればいい。
最後に一度、ケースケは実験室を振り返った。
かつて、一人の少年魔術師が追い求めた夢の跡。才能に溢れながらも、魔術師としては三流に過ぎなかったために起きた悲劇。結局、誰一人救うことができず、ただただ不幸な人間を作るだけに終わってしまった結末。
罪の意識に耐えられず、せめて苦しまずに逝かせてやろうという意志が見える処置の数々。だが、死者からすればそんなものが慰めになるはずもなく、彼の罪は彼の分身であるケースケの双肩にずしりと重みを与える。
死者の怨念が実体化したかのように燃える劫火を瞳に映し、ケースケはポツリとつぶやく。
「……あぁ、俺なんて、生まれて来なければよかったのに」




