代償
忘れたままなら幸せだった。狂ってしまえば気付かずにいられた。
深淵を覗くとき、自分もまた深淵に見つめ返されると言ったのは誰だったか。まさにそのとおり、失った自分を取り戻したとき、自分自身の罪が見つめ返してきた。
忘れていたのは記憶だけじゃないらしい。俺はとても簡単なことを忘れていたようだ。
自分にとっての最悪の敵は、いつだって自分自身だってことを。
そんな世界の常識を、俺は忘れていたんだ。
◆◆◆◆◆◆◆
「改めて聞こうかしら。ケースケくん、あなたどうするつもり?」
崩れかけの立体駐車場の地下。博物館の魔女は、自身が生まれた水槽を見つめ続ける少年に声をかける。ケースケは緩慢な動作で振り返り、暗い瞳を向ける。
さほど長い時間立ちすくんでいたわけではない。しばらく放っておいてほしいという願望はあったが、それが許されるほど現実は甘くなかった。
「どうもこうもしねえよ。やることは変わらねえ。俺は雨音に会いに行く」
ケースケは『記憶』を頼りに、部屋の片隅を漁る。涼森螢助としての記憶は完全に蘇っていた。一度蘇った記憶はすんなりと脳に溶け込み、この二日間の記憶喪失による人格形成がなければ、自分が涼森螢助本人であるということに疑問を抱かなかったであろう。
「ショゴスであるあなたじゃ、風香ちゃんには絶対に勝てない。それはあなたが一番分かっているでしょう?」
ひどい言葉ではあったが、和葉の言葉は正しかった。
ショゴスは魔術に弱い。それはつまり、ショゴスを操る魔術を知る者が相手の場合、ショゴスには勝ち目がないということだ。風香の魔術師としての腕は三流だが、それでもショゴスを操る術だけに限ればそれなりの腕だ。事実、ケースケは、涼森屋敷にて、風香の命令に逆らえず、雨音を刺してしまった。
くつくつとこみあげた笑いが洩れる。
「あぁ、わりぃ。あんた物知りだからな。全部わかってるものだと勘違いしてたぜ。……あぁ、あんたの言う通りだ。涼森螢助じゃあ、風香には絶対に勝てない」
「なら、どうして?」
「この際、勝ち負けは別だ。俺には、行かなきゃいけない理由が多すぎる。行かない理由もなさすぎる。なら、勝ち目がなくても行かなきゃならんだろ。……あぁ、バカだって言いたいんだろ?わかってるよ。言われ慣れてるからな」
「……バカ」
だから、わかってるってと言いながら、ケースケは探していたものを引っ張り出す。これがここにあることはわかっていた。壊れずに残っていたの奇跡だ。
ケースケがそのポリタンクを開けると、ガソリン特有の鼻を刺す臭いが漂う。自家発電機用のガソリンだ。中身が十分入っていることを確認してから、室内にそれを振りまいて回った。
「……ねぇ、なんでそうまでして、雨音ちゃんを助けたいの?」
その様子をしばらく黙っていた和葉だったが、ぽつりとつぶやくように尋ねた。
「だって、あの子を助ける価値なんてないじゃない」
ぴたりと作業を止め、ケースケは怒気のこもった瞳で和葉を睨みつける。だが、女魔術師はさして気圧される様子もなく、落ち着いた声で話を続ける。
「気を悪くさせたのなら、ごめんなさい。でも、記憶を取り戻したのならわかるでしょう?雨音ちゃんは、あなたの起源である涼森螢助を心の底から憎んでいた。記憶を取り戻す前ならともかく、記憶を取り戻した後のあなたにいい感情を抱くとは思えないわ。仮におとぎ話の王子様よろしく雨音ちゃんを救えたとして、彼女があなたに感謝すると思う?」
「それは……」
無理だろうと、ケースケは思う。
涼森螢助と同じ姿と記憶を持つ自分は、彼女の隣に立つのにふさわしい存在ではない。雨音の救出に成功しようが失敗しようが、雨音に憎まれることは間違いない。
なるほど、雨音に対して下心を持っているのだとしたら、彼女の救出は、確かに無意味で無価値だ。どんな結末にせよ、二人が結ばれてハッピーエンドなんてありえない。
「こんなことを言うとひどいと思われるかもしれないけど、すべてを忘れて、新しい人生を歩むという手もあるわ。むしろ、あなたにとっては、それが一番幸せな選択じゃないかしら?」
「……そりゃ、さすがに無理だろ。馬鹿の俺でもわかる」
ちらとも頭をよぎらなかったわけではない。それが可能であれば、ケースケだってさすがに少しは迷う。だが、現実問題として、それは選べない道だ。
「今回の件で、涼森家は終わりだ。世間じゃ原因不明の事件でも、魔術師関係から見れば、ショゴスが関係してることは一目瞭然だからな。魔術師狩りが動き出せば、『涼森螢助』の戸籍を持つ人間もショゴスも皆殺しだ。……つまり、俺が死ぬことは確定してるわけだ」
和葉が少し驚いた顔をする。知的なことを話していることが意外だったのだろう。
実際、ケースケの発言は考えた末のものではなく、『涼森螢助』の知識によるところが大きい。年若くして天才と呼ばれる才児だったのだ。知識の量も少なくない。頭の回転が鈍くても、取り戻した記憶だけでも十分に立てられる推測だ。
つまるところ、ショゴスであるケースケに未来はないという事実は、魔術師であるならば子どもにだってわかる決定事項だということだ。
「なら、あとは命の使い方だ。どこの誰とも知れない奴に殺されるくらいなら俺は――」
雨音のために死にたいと言いかけ、自らの心の汚さに気付き、言葉が詰まる。
自分は雨音を救いたいのではない。雨音を救うことで罪を償ったつもりになり、その上で死にたいのだということに気付いてしまったのだ。自らの死に場所を求めるために、雨音をだしに使っていたことに自己嫌悪を覚える。
和葉は、そんなケースケの心の闇を見抜いているのだろうか?ケースケは自分が恥ずかしくて、和葉と目を合わせることができなかった。
「現状把握はきちんとできているようでなにより。でも、自暴自棄になるのは間違いよ。せっかく存在する選択肢を無視されたら、それこそ雨音ちゃんも浮かばれないわ」
「……選択肢?」
和葉はカバンの中からカードや書類の束を取り出すと、ケースケに差し出し、読んでみろと顎で指す。ケースケは訝しみながらも、それらに目を通す。
書類は戸籍台帳だった。書いてあるのは知らない名前。住所や血縁関係にもまったく心当たりがなかった。カードの方が学生証と健康保険証で、こちらも見覚えのない名前が書いてあったが、学生証の写真だけは涼森螢助のものと同一だった。
「これは?」
「あなたの新しい戸籍よ。雨音ちゃんに頼まれたの。住所や学校への編入、一人でも生活できるように、職の斡旋先も用意しておいたわ。好きなのを選びなさい」
「……は?」
言われた意味が分からず、間抜けな顔をしてしまう。いや、意味はわかるのだが、こんなものが事前に用意されていたことが、そして、それを用意したのが雨音であるという言葉が何よりも信じられなかった。
「それが私の得意分野でね。偽造書類作成の依頼をよく受けるの。魔術師としては三流だけど、そういう小技ができるから、訳ありから依頼されることが多いのよ」
「いや、すまん。事情が理解できないんだが……」
「それが、雨音ちゃんからの依頼よ。自分に何かあったとき、あなたに真実のすべてを教え、新しい戸籍を与えてやってくれってね。あなたの選択肢を増やすために」
「な……」
ある意味、記憶を思い出した以上の衝撃だった。
雨音からすれば、ケースケは両親を殺した男の生まれ変わりのようなものだ。憎みこそすれ、助けることに意義はない。雨音にとって、自分は風香を誘き寄せるための餌にすぎないというのが、ケースケの認識だった。
だが、雨音がケースケに対して施したものは、明らかに憎しみに類するものではない。ゆえに、ケースケには雨音の行動の意味がわからなかった。
「言っておくけど、どうして雨音ちゃんがそんな依頼をしたかなんて、私に聞いても無駄よ。私は、報酬をもらい、それに応じた仕事をしただけ。依頼主がどういう考えでそんな依頼をしたかなんてこと、本人に聞かなきゃわからないわ」
「いや、報酬っつっても、相場は知らんが安くはないだろ?両親を失って、身一つでこの街に来た雨音は、メシ代だってケチるような身分だったんだぜ?どうして――」
言いかけて、とてつもなく嫌な予感が思い浮かんだ。
思えば、違和感はいくつもあった。一つ一つは小さなもので無視できたし、ましてそれらを結びつけるなどということは考えつきもしなかった。
だが、一度思いついてしまったその考えを覆すことなど、できそうもなかった。あまりにも辻褄が合いすぎる。ケースケは一つ息を飲むと、外れていてくれという願いを胸に、思いついたことを口にする。
「羽、か?」




