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布槌奇譚~蟲愛ずる姫君~  作者: くろまりも
壱ノ怪 玉虫と羽蟲
3/42

目覚め

 ほのかに赤く薄暗い現像室のような部屋の中、一つの影が机の上に座り込んでいる。

 その部屋はまるで実験室。フラスコや試験管といった一般的な実験器具のほかに、何に使用するのかわからないような機材がいくつも立ち並んでいた。天井や壁、部屋中にチューブ状の管が走っており、中を赤い液体が流れている。その液体自体が発光しており、部屋の明かりの代わりとなっていた。

 機材の駆動音が小さく響き、電気が通っていることを示している。だが、人影は電灯のスイッチを入れるでもなく、薄暗い中、正面にある水槽をじっと見つめていた。

 大きな水槽だった。チューブを通っているものと同じ赤い液体で満たされており、水槽全体が仄かな光を発している。どうやら水槽は巨大な標本容器のようで、水槽の中央で標本がぷかりぷかりと浮いていた。

 その水槽をぼんやりと眺める人影の耳に、かたん、と金属がこすれる音が届く。人影がそちらのほうに首を傾けると、通気口の外枠が外れ、何かが這い出てくるのが見えた。


『……っ!……っ!』


 通気口から這い出た存在は人影の近くに寄ると、奇声のような声を発する。常人が聞けば鳥肌が立つような奇怪な声だったが、人影は動じず、ただ一つ小さくうなずく。


「……そう。病院に運ばれたの。まぁ、あの程度で死ぬわけがないとは思ってたけど。困ったわね。人目が多いと手が出せない。……あぁ、それを狙ってるのかな?」

『……っ!……っ!』

「近くにもう一人いた?どんなやつ?」


 人の声とは似ても似つかぬ発音だったが、人影はごく普通に会話しているように相槌を打つ。正確に意味を理解しているかはわからないが、奇声の持ち主からの返答に人影は口元を三日月の形に曲げて笑った。


「へえ?それは面白いわね。ちょうど退屈していたところだし、いい玩具になりそうね。やっぱり、反応がないのはつまらないわ。あなたもそう思うでしょう?」


 人影が手をついた水槽に、標本が浮き上がる。標本の頭部には黒い頭髪が躍り、眼は見開かれている。恐ろしいことに、水槽の中に保存されている標本は、人間だった。

 影が指を鳴らして合図を送ると、奇声の主は素早く動き、水槽を叩き割る。大きな音とともに赤い液体が流れ出し、『中身』が転がり出る。奇声の主がそれに覆いかぶさると、部屋に肉を咀嚼する音や骨が砕ける音が響いた。

 言うまでもなく、通気口から這い出てきた奇怪な生物が、水槽に保存されていた人間の遺体を貪る咀嚼音だ。与えられた『餌』がお気に召したのか、奇声の主は、歓喜を示すように一際大きな声で鳴く。


『テケリ・リ!テケリ・リ!』


     ◆◆◆◆◆◆◆


 まどろみの中から引きずり出された少年が、ゆっくりと目を開ける。

 狭い個室のベッドだ。ベッド脇には点滴を初めとしたいくつかの機材が並んでおり、大げさなくらいいくつものの管が少年の身体に繋がっていた。

 機材のモニターには少年の状態を示すいくつもの数字が並んでいたが、医学の知識のない少年には、それが何を示しているのか分からなかった。機材の前には看護師が一人、なにやらモニターの数値をチェックしていたので、少年は声をかけることにした。


「あー、ちょっと看護師さん?」

「え?……ええええええぇぇぇぇぇぇ!?」

「……えー」


 声を掛けただけでお化けを見たような反応をされ、軽くショックを受ける少年。

 看護師は少年の質問とリアクションを無視してナースコールに飛びつき、医者を呼ぶ。その後、医者が来るまでの間に体調を尋ねる質問をいくつか投げかけたが、むしろおまえの方が大丈夫かと問いかけたくなるほどの狼狽ぶりだった。


「おはよう、涼森螢助くん。具合の方はどうかしら?」


 やがてやってきた女医は、栗林聡美と名乗った。聡美は看護師からカルテを受け取り、それを確認しながら少年に話しかける。


「スズモリ、ケースケ?」

「あなたの名前だけど……思い出せない?」

「あー」


 言われ、自分の名前が思い出せないことに気付く。

 ケースケと呼ばれた少年の記憶にあるのは、立体駐車場で目を覚ましたこととその後の決死の脱出劇だけだった。あの時の傷は致命傷だと思ったのだが、人間案外頑丈らしい。身体中に包帯が巻きつけられ、色々な機材をつけられているが、あまり不具合はないように感じられる。


「……記憶に混濁あり、と。何か思い出せることはある?」

「あー、そういえば、俺と一緒に女の子がいなかったか?」


 記憶を漁って、一番に出てきたのは、自分が命がけで守ろうとした少女だ。今いる部屋は個室であり、他の患者の姿はない。彼女がどうなったのか、とても気になった。

 ケースケの質問にすぐに心当たりが浮かんだのか、聡美は微笑を浮かべてうなずく。


「あぁ、月海雨音さんのことね。彼女は別の部屋で治療を受けているけど、命に別状はないから安心して。……あの子、ケースケくんの彼女?」

「いんや、違う……と思う。思い出せねぇや」


 少女の安否を聞かされてホッとしつつも、ケースケは頭を押さえる。

 記憶が思い出せないというのは、殊のほか精神的負担になるものだった。自分が何者か分からないという事実は、言いようのない不安をかきたてる。


「あー、そうだ。俺の名前、どうしてわかったんだ?」

「あぁ、刑事さんが調べたのを教えてもらったのよ。それに、あなたの持ち物に財布と携帯があったから、名前の特定は簡単だったわ」

「……おー」


 財布と携帯の存在を知らされ、ケースケはその手があったかと手を打つ。むしろ、真っ先に思いついてしかるべき手段なのだが、ケースケはそれらの存在をすっかり忘れていた。


「ええっと、てことは、俺も事情聴取とかされんすかね?」

「安心して。さすがに今日怪我を負ったばかりの人間に尋問なんて、医者として断固として拒否するから。あなたは自分の怪我を治すことだけ考えていればいいわ」

「ういっす」


 今日怪我を負ったばかりと聞いて、まだ一日も経っていないということをケースケは知る。

 思ったよりも時間が経っていないことが意外だったが、そういうものなのだろうと一人納得する。窓の外は暗くなっており、一日も時間は経っていないとは言っても、それなりに時間は経っているのだと察した。

 その後、聡美はケースケにいくつか質問したが、記憶を失っているのだから、当然まともに答えられるようなことは一つもない。聡美もしつこく返答を迫るようなことはしなかった。

 そんなふうに聡美とケースケがしばらく話をしていると、先ほど出て行った看護師が戻ってきて、聡美に耳打ちをする。


「あの、栗林先生。風香ちゃん、どうします?」


 声を潜めて言ったつもりのようだったが、風の流れか、近くにいたケースケにも会話は届いた。風香という名前に憶えはなかったが、記憶の片隅に引っ掛かるものを感じ、首を傾げる。

 聡美はケースケを見、腕時計で時間を確認し、少し考えた後でケースケに声を掛けた。


「ケースケくん、ご家族がお見舞いにいらしてるんだけど会ってみる?」

「家族?」

「あなたの妹の涼森風香ちゃんよ。ご両親はお仕事でいらっしゃれないみたいなんだけど、妹さんだけいらしてるの。思ったより体調がよさそうだから、私は会わせてもいいと思ったんだけど……どうかな?会ってみない?」


 特に迷うことなく、ケースケは頷いた。大げさな処置が施されていたが、痛みやだるさなどは感じられない。それよりも、自分の記憶がないことの方が気になった。自分のことを知る人間に会えるのならば、それは願ってもないことだ。

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