だから殺した
「う……」
薄暗く、裸電球だけが灯る暗闇の中、雨音はうめき声とともにゆっくりと目を開いた。
雨音はあのとき、涼森の屋敷で死んだと思っていた。いくらシャッガイが頑丈であるとはいえ、全身を何か所も刺し貫かれればさすがに死ぬ。まさか再び光を見ることになるとは思ってもいなかったが、安堵の気持ちは欠片もなかった。
全身、ひどい有様だった。手足の腱が斬られ、ぴくりとも動かない。腹部を含む重傷部分は治療が施されているが、かなり乱暴なものだ。かろうじて生きているというだけの話で、いつぽっくり逝ってもおかしくない。
唯一動く首だけを巡らし、周囲を観察する。どこかの建物の中のようだが、雨音には見覚えがなかった。貸倉庫か廃工場か、とにかくそんな感じの人気のない場所だった。
「あら、目が覚めたの?ごきげんよう。気分はどう?」
暗がりから小さな少女が姿を現す。このような場所にはふさわしくないほどのあどけない笑顔で、優しく雨音に問いかける。
「……最悪でやがります。ひどい施術ですね。お兄さんの方が、何十倍もうまくできるんじゃないですか?これじゃ、治療というより素人のお裁縫でやがりますよ」
「クソ兄貴の話はするな!」
突如、般若のように顔を歪めた風香が、雨音の腹部を蹴り上げる。少女の力は大したものではなかったが、手足で庇うこともできない状態で傷口をえぐられ、雨音は声も出ないほどの激痛で体をくの字に折る。
「兄貴は私が殺した!不意打ちでも何でも、生き残ってる方が強くて偉いんだ!私の方が、兄貴なんかよりずっとずっとず~~っとすごいんだから!」
狂ったように叫びながら、風香は無抵抗の雨音を何度も蹴りあげた。あまりの激痛に何度も意識を飛ばしそうになるが、そのたびにさらなる激痛で無理やり現実に引き戻される。
一通り叫んだあと、風香ははたと気づいたように蹴るのを止める。
「あぁ、ごめんごめん。死なれたら、実験材料にできないもんね。ごめんね?大丈夫?まだ生きてられる?死んじゃったら、急いでショゴスの餌にしなきゃいけないから、言ってね?」
心底心配そうに聞く風香に、雨音は答えることができなかった。痛みで額に脂汗が浮かび、呼吸もままならない。陸に打ち上げられた魚のように、ぴくぴくと身体を痙攣させながら短く息を整える。
返事がないことを不満に感じた風香は、雨音の髪を鷲掴みにして顔を上げさせた。そこに優しさなど微塵もなく、物を扱うよりも乱暴な仕草だった。
「私が心配してあげてるんだから、ちゃんと返事しなさいよ!返事の一つもできないなんて、とんでもない間抜けね!所詮、虫女は虫女ってことね」
「……あぁ、すみません。聞く価値もない虫以下のバカのさえずりが退屈で、眠ってたみたいでやがります。で、なにか、おっしゃいました?」
この状況でなお不敵に笑ってみせる雨音を、風香は額に青筋を浮かべ、再び何度も蹴りあげる。口答えされたことで頭に血が上り、先ほどよりも苛烈にしつこく腹部を蹴り続ける。
理不尽な暴力は、風香が息切れを起こすまで続いた。傷口が開いて飛び散った血が周囲を濡らし、喉に絡みついた血反吐で雨音が何度も咳きこむ。
そんな雨音の哀れな姿を見て、風香は悦に入った顔になる。さながら、虫の足を一本一本引き抜いて、苦しむさまを見て楽しむ子どもだった。
「やっぱり、兄貴ってセンスないよねぇ。脳や内臓を別個に保管なんて、技術の無駄遣いしてさ。確かに便利ではあるんだけど、実験動物をいたぶる楽しみってのがないじゃない?あれ、脳は眠ってるような状態になって、全然苦しくないらしいし、本当につまらない。真の探究者たるもの、実験過程も楽しめるようでないとねぇ?」
さすがの雨音も、もう口応え出来るほどの元気は持ち合わせていなかった。血と汗で汚れた顔を上げ、胡乱な瞳で風香を見上げる。
「……一つ、不思議だったことを聞いてもいいでやがります?」
「あれ、まだ返事が出来るんだ。さすがは虫人間。ゴキブリ並みの生命力ね。で、なぁに?」
「なんで、実の兄をショゴスの材料にしたんでやがります?」
ケースケの前では、決して口に出すことのできなかった疑問を上げる。
実のところ、雨音も多くの情報を持っているわけではなかった。雨音は両親の敵討のために布槌にやってきて、和葉の援助により、涼森螢助という男が犯人であることを突き止めた。だが、いざ、その拠点の一つである立体駐車場に乗り込んで見つけたのは、当の本人である涼森螢助の死体とショゴスの入った巨大な水槽。そして、風香だった。
風香と雨音の間で激しい戦闘が繰り広げられ、その拍子に水槽が割れ、中のショゴスが這い出してきた。しかし、そのショゴスは雨音には目もくれず、目の前の涼森螢助の死体を貪り食った。ほんの数秒で食事を終えたそのショゴスは暴走し、風香と雨音を無差別に攻撃し始めたのだ。これには風香も驚いたようで、二人して地下の実験室から逃げ出し、勝負はうやむやのままに終わった。
地下の実験室から這い出してきたショゴスは暴れに暴れ、多くの人間を殺し、建物を破壊した。風香は逃げ、雨音は一人でも多くの人間を逃がそうと奮闘したが、瓦礫に巻き込まれ、気絶してしまった。
そこで一度、雨音は死を覚悟したが、目を覚ました時、目の前にいたのは自分を必死に助けようとするケースケの姿があった。
病院のとき、ケースケは記憶喪失で混乱していたが、雨音も同じくらい混乱していた。深夜、ケースケのベッドに忍び込んだ際、殺すべきかどうか本気で迷ったほどだ。
地下実験室で涼森螢助を見たとき、彼は確実に死んでいた。ならば、今生きているケースケはショゴスの変身能力によるものだと考えるのが自然だが、ケースケの挙動はあまりにも人間に近すぎた。ショゴスは、以下に優れた変身能力を持っていても、知能が極端に低いため、人間の所作を正確にまねることができない。人間と遜色のない行動をとっていたケースケは、実にショゴスらしくない存在なのだ。
結局、ケースケがショゴスであるという確信を雨音が持ったのは、ケースケが病院でショゴスによる攻撃を受けた後だった。ケースケは和葉による治療で傷が治ったのだと勘違いしたようだが、本当のところはただの自然治癒だ。液体生物であるショゴスに、物理攻撃は効かない。時間がたてば自然と塞がるのだ。
――以上が、雨音の知っていることのすべてだ。
状況から推測して、涼森螢助を殺したのは風香で間違いはないだろう。だが、どうして彼が殺されなければいけなかったのか。涼森螢助の死体を取りこんだショゴスがどういう性質を持っていて、今のケースケがどういう状態であるかなどは全く知らなかった。
そのあたりの裏事情を風香に聞いたのは、純粋に好奇心だった。風香は顎に人差し指を当て、可愛らしい動作で返答に悩む仕草をする。
「あいつ、うざかったんだよねぇ。ことあるごとに兄貴面して、私に指図してくるんだよねぇ。魔術も自分で独り占めして、全然教えてくれないし」
兄への正直な感想を述べた後、風香はにこりと天使のような笑顔を浮かべる。
「だから、殺しちゃった」




