月海雨音
月海雨音は、ごく普通の少女だった。
中流家庭の生まれで、兄弟はなく、両親と三人で暮らしていた。両親の仲は良く、多少の夫婦喧嘩程度はあれど、大きな問題と言えるものはなく、雨音も両親から愛された。
生まれつき身体が弱く、運動は苦手。代わりに勉強は好きで、特に文系科目が得意で、将来は弁護士を目指そうかなと薄ぼんやりと将来設計を立てていた。
社交性があり、友人も少なくない。異性と付き合ったことはないが、いつか素敵な彼氏を作って、ゆくゆくはお嫁さんにしてもらおうなんて乙女チックな妄想にふけることはあった。雨音自身は気づいていなかったが、彼女は男子生徒から密かな人気があったので、その構想が遠からず実現していてもおかしくなかった。
言ってしまえば、どこにでもいるごく普通の中学生。水準よりは多少恵まれているかもしれないが、突出しているわけでもない、そんな人生。
それが変わったきっかけとなったのは、雨音のクラスメートがいじめに遭っている現場に居合わせたことだった。
いじめに遭っていたのは、少々太めでいかにもオタクといった感じの少年。クラスメートとして顔と名前は知っていたが、話したこともない人物だった。いじめている側は複数人の男性グループ。全員野球部に所属しているスポーツマンで、オタクを見下している連中だった。
大した知り合いでもないし、見て見ぬふりもできたが、元来正義感の強かった雨音は、それを見過ごすことができなかった。さすがに強気に出られるほどの勇気はなかったが、おっかなびっくりといった感じで、いじめを止めるように声をかけた。
その瞬間、いじめの対象は雨音へと移った。
いじめグループは、雨音を人気のないところに連れ込み、服に手を掛けた。当然、雨音は抵抗したが、スポーツマン男子複数名に、文学少女一人がかなうはずもない。
雨音はいじめられていた少年に助けを求めて目を向けたが、少年は顔をうつむかせるだけで助けを呼びに行くようなことはしなかった。それどころか、服を脱がされていく雨音をちらちら覗き見て、薄ら笑いを浮かべて顔を赤らめる始末だ。
それを認識した瞬間、雨音の中でなにかが弾けた。
溢れ出るは強大な殺意。それはもはや、感情と呼べるような代物ではなく、本能に近かった。呼吸を止めてしまえば死んでしまうのと同様に、人間への殺意を押さえればこちらが殺されると脳が訴えた。
そこからの変化は急激だった。
腕が肥大化し、昆虫のようなキチン質の甲殻が全身を覆う。肩付近が盛り上がり、4枚の透明な羽が剣のように形成される。澄んだ赤茶色をしていた瞳は黄色く染まり、周囲の生物を捕食対象としてねめつける。
いじめグループの男たちが、宙を舞う。ほんの少し体を鍛えた程度の人間など、シャッガイとして変態を遂げた雨音には物の数ではなかった。男たちは逃げる間もなく、殴られ、吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
雨音が意識を取り戻した時、周囲には、いじめグループの男たちがボロ雑巾のように打ち捨てられていた。関節があらぬ方向に曲がってしまっているもの、折れた骨が皮膚から飛び出しているもの。どれとしてまともではないが、生きていた。
「ば、ばけもの」
唯一、五体満足だったのは、離れた場所でうつむいていたいじめられっこ。彼は雨音をおびえた目で見つめながら、隅の方で縮こまっていた。
雨音は、その視線に耐えきれず、衣服を拾って逃げた。
そのまま家に帰り、涙ながらに両親に事の次第を話すと、両親から真実を知らされた。
自分も両親も人間ではなく、シャッガイという昆虫人間であること。
シャッガイは、幼少期は人間と変わらず、成人とともに昆虫人間へと変態すること。
擬態能力を持ち、覚醒後も人間と変わらない生活を送っているということ。
雨音のように、中学生で覚醒することは極めて珍しく、本当は雨音がもっと大きくなったら真実を告げるつもりであったと、両親は詫びた。
雨音とその両親は、必要最低限のものだけ携えて、その日のうちに町を去った。死人こそ出なかったものの、大事になりすぎた。事が公になる前に、一刻も早く身を隠す必要があった。
そうして、夜逃げしようとした矢先、その少年は現れた。
夜闇に乗じて逃げる月海一家を、どうやってか先回りし、罠を張っていた。少年の操るショゴスは風香が操っていたものより遙かに機敏で、統制がとれていた。
月海一家は為すすべもなく、ショゴスに囚われてしまった。
雨音もその時一度捕まったのだが、意外なことに彼女だけはあっさり解放された。雨音の両親が、雨音の命だけでもと助命を請い、少年がそれを受け入れたのだ。
ただ一人解放された雨音は、途方に暮れた。
家族を失い、友人を失い、人間としての生を失った。両親を助けなければという思いはあったが、その時は少年が何者であるかもわからず、当然のことながら警察に頼るわけにもいかなかった。
己の境遇にしばし呆然自失していた雨音だったが、その後、数少ない所持金を頼りに、八城博物館へと向かった。なにかあった時はそこに向かうように両親に指示されていたからだ。
八城和葉はぶっきらぼうではあるが、親切な人物だった。
両親が事前に話を通しておいてくれたのであろう。雨音の新しい戸籍や学校の転入先など、新しい生活に必要なさまざまなものを用意してくれた。両親のことさえ忘れてしまえば、以前と変わらない生活が送れるほどに。
だが、雨音はそれをよしとせず、両親を攫った少年のことを和葉に言及した。はじめ、和葉はそのことを話すのを渋っていたが、やがて根負けして教えてくれた。
少年の名は、涼森螢助というらしい。
先祖代々、魔術師の家系で、魔法生物の飼育と調教を生業としている。雨音と同年代の少年で極めて若いが頭が良く、有名進学校である私立城戸中学校でトップの成績。魔術師としても将来を有望視されており、特にショゴスという液状生物の扱いに関しては、現段階ですでにその道の第一人者といってもいいレベルの術者だという話だ。
雨音はその情報を元に聞きこみを行い、涼森螢助の拠点の一つである立体駐車場の場所を突き止めた。和葉は何度も制止したが、雨音の耳には届かなかった。
立体駐車場のことを知った時点で、両親が攫われてからほぼ一ヶ月が経過していた。和葉は両親のことはもう諦めろといい、雨音も内心では二人とももう生きていないだろうと思った。だが、それならそれで涼森螢助に復讐してやるという気持ちで胸がいっぱいだった。
自暴自棄になっていると言われれば、否定できなかった。すべてを失って空っぽになった少女は、目の前に差し出された新しい人生を素直に受け取る気になれなかった。根が真面目で正義感が強いことも災いしたのだろう。両親が生きているかもしれないという僅かな可能性を捨て、明確な【悪】である涼森螢助を放っておくなど、彼女には土台無理な話だった。
それが、彼女の選択。
両親のことを忘れて安全な未来を手にする道と両親の救出を口実に死地へと赴く道。両親を救いたいという気持ちに嘘はなかっただろうが、その道を選んだ要因として、自身の人生への絶望が影響していないと言うと嘘になるだろう。
月海雨音は、死に場所を求めていた。




