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布槌奇譚~蟲愛ずる姫君~  作者: くろまりも
肆ノ怪 記憶の闇
26/42

真実

 都心から離れた、閑静な住宅街。住民たちはすでに帰宅し、人通りはとても少ない。家々の窓には明かりが灯り、一家団欒の声がかすかに聞こえてくる。街灯照らす夜道は人通りがなく、コツコツという二人分の乾いた靴音だけが寂しく響く。


「どこに向かってるんだ?」


 初めは何度かそのように尋ねたが、目的地に着くまで何も話す気はないようで、和葉は一言も言葉を返さなかった。時折、ついてきていることを確認するために振り返ったり、電柱に書かれた住所を確認するために何度か立ち止まる程度だ。

 仕方なく黙って後について行くことにしたケースケだが、想像以上に長時間歩かされることになり、徐々に焦れ始めていた。

 住宅街を抜け、学校の隣を歩き、商店街に差し掛かるがそれすらも通り過ぎ、倉庫の立ち並ぶ区画に足を踏み入れる。

 昼は従業員が出入りするのだろうが、今は静かなもので、時折野良犬を見かける程度だ。

 日頃博物館に引きこもっているにもかかわらず、和葉は意外に健脚だった。かなりの距離を歩いたにもかかわらず、息もペースも乱さず、歩みは速いが、精神的に余裕のないケースケにとっては、それでも苛立ちの種となった。


「和葉、まだなのか?」

「すぐそこよ。そこの、立ち入り禁止のテープが張ってある場所」


 海が近いのだろうか?潮の匂いが風に乗って漂いだした頃、和葉はようやく足を止めた。

 和葉が指さした建物は、警察などが使う立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。崩壊寸前な上に夜中とあっては、肝試しに忍び込もうという命知らずもいないのだろう。まさしく幽霊が出そうなと形容できそうなその建物には、猫の子一匹気配がなかった。


「ここは……」


 初め、その建物がなんなのか、まったくわからなかったが、少し観察して気付く。

 ケースケが雨音と出会った場所。大勢の死者を出した事故現場。残っている記憶の始まり。ケースケと雨音が倒れていた、立体駐車場だ。

 ここで目を覚ましたのは昨日の今日の出来事のはずだが、ケースケには遠い昔の出来事のように感じられた。それだけ、この2日間の出来事は色濃いものであり、あれからまだ1日しか経っていないということが信じられないほどだった。

 この建物が炎に包まれていたとき、ケースケは生き残ることに必死で、建物の周囲に目を向けている余裕はなかった。そのため、こうして現場に到着するまでこの場所に向かっていることに気付かなかった。


「ここに、なにかあるのか?」


 ケースケの質問に、和葉はまたも答えなかった。建物内の入り口に立ち、じっとケースケを見つめ返すだけだ。だが、そのことに対して特に苛立ちを覚えなかった。

 彼女の返答など必要なかった。あの時は気付かなかったが、今はこの場所に不思議な懐かしさを感じる。涼森の屋敷を訪れたときに感じたものと似た感覚だ。和葉に見守られる中、ケースケは誘蛾灯に導かれるように、ゆっくりと建物内に足を踏み入れる。


『てけり・り』


 屋内に入ってすぐ、何度も聞いた、ショゴスのおぞましい鳴き声が響く。だが、ケースケは、その声に恐怖や嫌悪ではなく、自分を優しく導いている温かみを感じた。

 それは幻聴だったのだろうか?そうでないのなら和葉にも聞こえたはずだが、彼女はケースケの少し後ろで見つめているだけで動揺する様子はない。やはり幻聴だったのだと思い、少年は立体駐車場の奥へと進んでいく。

 建物の中はひどい惨状だった。建物自身もそこにあった車も、原形を留めているものなど一つとしてなく、崩壊による瓦礫がそこかしこに散乱していた。元々綺麗な場所だったわけではなく、不良が描いたと思われる落書きや焼け跡で、荒廃の度合いをより強く感じられた。

 ケースケは上の階に上がろうとして、ふと気になって壁に描かれた落書きに目を向ける。スプレーで描かれたコミカルな竜やよくわからないエムブレムなどが煩雑に並んでいる。

 そのうちの一つ。幾何学的模様の中に手形と瞳というデザインの落書きを見つけ、ケースケは迷うことなくそこに手を重ねる。

 一瞬、幾何学的模様が緑色の光を放ったかと思うと、炭酸が抜けるような音がし、壁の一角がひとりでに開いた。隠し扉のその先には地下への階段があり、奈落の底に繋がっているような不気味な雰囲気を醸し出していた。


『てけり・り』


 先刻よりはっきりとした声が、地下からケースケを呼ぶ。

 少年の心は平静だった。ここに隠し扉があったことも、怪物の鳴き声が聞こえてくることも、すべてわかっていた。ただ記憶がないだけで、彼はこの場所のことを知っていたのだから。

 背後から和葉が懐中電灯を差し出してきたのでそれを受け取り、地下への階段を一歩ずつゆっくりと降りて行く。慎重に降りて行くというより、ゆっくりと目覚めて行く記憶を時間をかけて咀嚼するように、階段の一歩一歩をしっかり感じ取りながら進んでいく。

 たどり着いた部屋は、入口の狭さに比べれば、思いのほか広い。電灯の明かりをつけようとスイッチに触れるが、当然のように動かない。

 和葉から受け取った懐中電灯を室内に向けるが、明かりで照らされるまでもなく、そこに何があるのか、ケースケにはわかっていた。

 明かりに照らし出されるのは、無数の瓶だった。人一人入るほどの大きなものもあれば、手のひらサイズの小さなものもある。室内はかなり荒れていて、ほとんどの瓶が割れていたが、無事なものには赤い液体が満たされている。瓶の下には機械がついているが、電気が通っていないせいか今は沈黙している。その機械からは管が何本も伸びており、中を赤い液体が満たしていた。それらの管は床や天井に張り巡らされており、まるで体内を走る血管のようであった。


「…………」


 ケースケは、割れて飛び出た中身も含め、一つ一つ視線を投げていく。不快感こそあれ、驚きはない。瓶の一つ一つが、涼森螢助の犯した罪の産物だ。自らの罪を確認していくように、己が願望のために犠牲にしてきた者たちのなれの果てを見て行く。


 ――瓶の中にあったのは、あるいは、割れて床にぶちまけられているのは人間の身体だった。


 ある瓶には脳髄が。ある瓶には目玉が。ある瓶には手足が入っており、またある瓶には内臓が一つずつ保存されていた。全身を保存されている容器も存在し、中には全裸の人間や、見たこともない異形の怪物が眠るような穏やかな顔で収められている。

 老人も子どもも男も女も善人も悪人も病人も健康体も人間も怪物も、様々な生い立ちの様々な生物の肉体が、丁寧に分類分けされ、保存されている。

 あぁ、考えてみれば、当たり前のことだ。シャッガイなどというレアな生物をショゴス作成の材料に使うなら、他にもさまざまな生物を実験材料として使っていてもおかしくない。それなら個体数の少ないシャッガイを使うより、もっと手近に適した種族がいるじゃないか。

 日本国内だけでも、億単位で存在する種族――人間。

 法律や道徳を無視するならば、ラット並に実験に適した生物だ。

 騒ぎを起こさず、検体を集め、この場所に保存する。ホルマリン漬けではない。あれは死体を保存するための方法だ。和葉も言っていたが、検体は生きている方が望ましいし、汎用性も広い。だから、この場に存在するあらゆる部品は、どれも死んでいなかった。

 これこそが涼森の秘術。本来ならば死にゆくだけの部品を、部品ごとに生かし続ける。今は電気の供給が途絶えたためにすべて死に絶えてしまっているが、それ以前はどの部品も生きていた。心臓は以前と同じく脈打ち続けていたし、摘出後の脳も思考を続けていた。それらを生きていると表現すべきかどうかはわからないが、思考可能な状態を生きていると仮に表現するなら、この施設の稼働中、死人はこの場に一人もいなかった。


「ごめんな、さい」


 謝ってすまされる問題ではない。そもそも、謝罪を受け取れる者はいない。聴覚器が浮かぶ瓶は存在するが、それが脳に伝えられることなどなのだから。

 ここで生きていた脳たちは、何も見ることができず、何も聞くことができず、何も嗅ぐことができず、何も味わうことができず、何にも触れることができず、死ぬこともできない。ただ、終わりのない夢を見続けるだけの存在。魂というものが存在するのなら、まさにこういったもののことを言うのだろう。ここはまさに魂の牢獄であった。


『てけり・り』


 再び呼ばれた気がして、部屋の中央に明かりを向ける。

 大きな瓶だ。ここまで来ると、水槽と言ったほうがいいかもしれない。人間が丸々一人入れるほどの巨大な瓶は割れており、中身は入っていない。瓶から漏れ出た赤い液体だけが床を濡らしていた。

 それは空っぽだったが、それこそがケースケの探して求めていたものだった。同時に、見つけたくなかったものだった。その瓶こそがケースケの記憶の欠片であり、すべてだった。


「あぁ……」


 すべてを、思い出した。もっと劇的なものだと思っていたが、記憶というものは一度掘り返すと、すんなりとケースケの中に入っていき、自然と溶けていった。

 いっそのこと、記憶が戻ったことによるショックで狂ってしまえていれば、どんなに楽だったことだろう。――だが、それはできなかった。

 この場所に文字通り囚われている者たちの魂が、そんな楽に狂わせてたまるかと、ケースケの心を緊縛しているのかもしれない。


『てけり・り』


 これ以上、その声を聞きたくなかった。だから、ケースケは手で口を塞ぐ。

 反射的に行ってしまったその動作が悲しくて、ケースケは和葉の目の前であることも忘れ、ぼろぼろと泣き始めた。零れた雫が口を塞いだ手を伝い、温かく濡らす。

 その鳴き声は、幻聴ではない。だが、耳を塞いでも、その声は止まってくれない。自らの口から漏れ出ているのだから、塞ぐべきは耳ではなく、口であるとわかってしまった。理性は認めたくないと思っていても、心はすでに気付いてしまっているのだ。


 自分はショゴスだ、と。

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