自疑
手を血に濡らし、ケースケは呆然と自身の両手を見る。幻覚であってくれと願うも、手にこびりついた赤く、鉄くさい液体は、まぎれもなく現実のものであった。
腹部を貫かれた雨音は、傷口を抑えて膝をつく。ナイフによる怪我は内臓も深く傷つけたのか、口の端からも血が滴っていた。
「あ、雨音、俺……」
言い訳を口に仕掛けて、閉ざす。
なんと言えばいい?自分が雨音を傷つけたというのは事実だと言うのに。体が勝手に動いたなどとでも言うのか?
雨音が、ぎろりとケースケの方を睨みつける。今までケースケに向けられていた、親しさのこもった瞳ではない。怪物たちに向けられたのと同じ、本物の殺意だ。
その一睨みだけで動けなくなる。道端でばったりクマに出会ったような気分だ。
今まで、雨音が自分に対して、一度も本気の殺意を向けたことがないということを、ケースケは思い知らされる。生物本能が、彼女が危険生物であるということをビンビンに告げてくる。彼女に殺意を向けられただけで足が竦み、この場から走って逃げたい気持ちになる。
雨音はナイフの刺さった腹部を手で押さえたまま、足元に散らばっていたガラス片の中から大きめのものを一つ掴む。そして、それを振りかぶり、投擲の体勢をとった。
「ちょっ!?ま、待ってくれ、雨音!違うんだ!今のは――」
違うんだも何もない。自分でも理解できないが、刺してしまったことは事実だ。さすがに生命の危機を感じ取り、慌てて弁解しようとするが、自分でもわからないことに対して適切な弁解などできるはずもない。
当然、雨音の動作がその言葉で鈍るはずもなく、ガラス片が投擲される。昆虫人間の膂力で放たれたそれは、投げナイフというより銃弾のごとく速度を持ち、ケースケに回避の反応すらさせる余裕を与えなかった。
反射的に腕で顔を覆い、目を瞑る。
だが、自分が想像した痛みはいつまで経ってもやってこず、代わりに背後で、ズガシャン!という派手な破壊音が聞こえた。
狙いを外したのか?いくら膂力があろうと、身体能力と投擲技術は別物だ。ガラス片なんていう投げにくそうなものなら、狙いがそれてしまってもおかしくはない
だが、雨音の瞳には相変わらず殺気が込められており、それが自身ではなく、自分の背後に対して向けられていることに、ケースケはようやく気付く。
振り返ると、クローゼットに拳大の穴が開いていた。雨音が投げたガラス片によってできたものだろう。
「あ~あ、やっぱり気付かれちゃったか。手加減させたとはいえ、あれで無力化できると思ったんだけどなぁ。生け捕りって難しいわ」
聞いたことのある声が、クローゼットの中から答える。
ケースケの内心の驚きをよそに、クローゼットの引き戸が内側から弾き飛ばされる。中から現れるのは玉虫色に蠢く肉の塊。無数の目と口を有する無形の悪魔。
そして、それに守られるようにして包まれている、一人の少女。
「風香?」
風香の眼前、玉虫色の触手がガラス片を受け止めていた。風香が軽く腕を振るうと、触手はそれに合わせたようにガラス片を放り捨てた。
それはまるで、指揮者に合わせて演奏する演者のよう。
指揮者の指先には、指揮棒の代わりに玉虫色の肉塊が蠢いている。それらが振るわれるごとにショゴスは踊るように変形し、攻撃態勢を整える。
『ショゴス使いって言ってね。ショゴスの使役を専門とする魔術師がいるの。指先にショゴスの一部を取り付け、そこに魔力を流し込むことでショゴスを操るの』
博物館の主に聞いた、病院を襲った魔術師の特徴。それを眼前に見せつけられてなお、ケースケは現状が受け入れられないでいた。
「……おまえが、やったのか?」
「うん?」
「病院には、大勢の人間がいたんだぞ。それを、みんな殺したのは、おまえなのか?」
「うん、そうだけど?」
だからどうしたのだ、とでも言うように、風香は至極不思議そうに首を傾げる。まるで、人が死ぬことをなんとも思っていないように……いや、実際、なんとも思っていないということがその声音からはっきりと感じることができた。
声も姿もごく普通の少女。数分前に会話を交わした妹の姿だ。不気味な声をあげるわけでも、ショゴスや雨音のように人外の姿を取っているわけでもない。だが、ケースケは、ショゴスのようなわかりやすい怪物とは違う不気味さを、目の前の少女から感じ取った。
「おまえ、風香じゃないのか!?俺の妹をどこにやった!?」
「ん?病院で会った風香がどこに行ったかっていう話なら、私がそうだよ?お兄ちゃんとお話ししてたのも私だし、病院をショゴスに襲わせたり、お兄ちゃんを餌にして虫女を誘き寄せ、逃げられないようにショゴスたちで包囲網を作ったのも私。あぁ、あと、手駒を増やすために、『友だち』をショゴスに変えたのも私だよ」
子どもショゴスの残骸を、ゴミでも踏むように踏みつけながら答える風香。
子どもショゴスが元人間であったこと、妹に餌扱いにされたこと、理解できない――理解したくないことが多すぎて混乱するケースケを、風香は小馬鹿にしたように笑う。
「でも、それじゃあ、おまえが俺の妹だっていう話は……」
「お兄ちゃん、それは半分本当だよ。私は正真正銘、あなたの妹よ?でも、妹じゃないって言うのでも正解なの」
「半分?どういう意味だ!?曖昧な言い方して、煙に巻くんじゃねえよ!おまえは俺の何なんだ!?どうして俺や雨音を狙うんだ!?いや、違う。それよりも――」
今まで自分の中で積み上げてきたことが崩れていく。それもそのはずだ。自分が積み上げてきたものなど、結局は周囲の人間からの伝聞でしかない。自分自身が何者であるかが思い出せないケースケは、記憶の土台と言えるものが存在しない。その上にいくら伝え聞いた過去を重ねて行っても、土台が存在しなければいずれは崩れる。
風香の嘘だけが原因ではない。崩れることは遅いか早いか程度の差でしかなく、それが今この瞬間であったと言うだけに過ぎなかった。
そして、崩れ去った後に残る疑問は、いつも一つだった。
「俺は、誰なんだ?」




