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布槌奇譚~蟲愛ずる姫君~  作者: くろまりも
序ノ怪 開演
2/42

序ノ二 記憶喪失

「うっ……」


 胃から咽喉に一気に駆け上がる酸っぱい液と入れ替わりに、鼻腔から容赦なく侵入した刺激臭が、少年の意識を覚醒させる。

 朦朧とした頭をゆっくり振ってコンクリートのベッドから起き上がると、少年の体に乗っていた小さな瓦礫がパラパラと軽快な音を鳴らす。

 壁という壁にエメンタルチーズのごとく穴があき、重機に破壊されたかのようにめちゃくちゃな状態の車が何台も転がっている。破壊された車から燃料が漏れたのか、方々から火の手が上がり、充満していた煙を吸ってしまった少年は噎せて何度も咳をする。

 誰が知ろう。この錚々たる惨状の建物が、ほんの一時間前まで、ごく普通の立体駐車場として機能していたということを。


「なんだよ、これ……」


 誰もが思うであろう疑問を、目を覚ましたばかりの少年も当然のように抱く。

 しかし、それは奇妙なことだ。彼はこの場にいた人間であり、ここで何があったかは、記憶を辿ればすぐに行き着くはずの答え。その矛盾に気づき、さらに困惑することになる。


――――思い出せない。


 自分が何者であり、どうしてこんなところにいて、なぜこのような状況に陥っているのか。まるで思い出せなかった。

 そのことに気づくと、化物の腹の中に一人取り残されたかのような悲痛と焦燥が、少年の胸を蝕んだ。その不安から逃れるように、少年は声を上げながら、廃墟の中を歩き始めた。


「おい、誰か、いないのか!?」


 声に応える者はいない。だが、火が爆ぜる音にまぎれ、外からの喧騒が聞こえてくることに少年は気づいた。野次馬のものらしき雑多なざわめきに、消防隊員たちの呼びかけ。赤いテールランプの光が屋内まで届き、消防車や救急車のサイレンが、少年の声に応えるようにその数を増やしていた。

 救助が来るという事実に安堵し、少年はその場に膝をつく。なぜか、泥の中にいるように身体が重く、気だるかった。地面に着いた手が、ぴちゃりと音を立てる。


「……あー?」


 間の抜けた声を上げながら、濡れた手を見つめる。――――その水は、赤かった。

 錆びた鉄の匂いがするそれを見て、水ではないとようやく気づく。


「これ、血か?」


 ふと見渡してみれば、積み重なる瓦礫の隙間から、赤黒い液体がにじみ出ている場所がいくつも存在した。

 少年の意識を覚醒させた刺激臭のせいで気づかなかったが、血液特有の鉄臭い匂いもそこら中から漂っていた。

 考えてみれば当たり前のことだ。

 立体駐車場というのは車と人が行きかう場所だ。ここは結構広そうだから自分がそうであったように、巻き込まれた人間が他にいて当然ではないか。


「うぐっ……」

 誰のものともわからぬ腕が転がっているのを見て、口元を抑える。

「……くそが。おい、誰か……誰でもいい!誰かいないのか!?」


 誰かを助けるためのその叫びは、まるで自分自身が助けを求めているかのような必死さが込められていた。これ以上煙を吸い込まないようにシャツの裾で口を押さえ、壊れた機械のように覚束無い足取りで進む。少年の声に、答える者はいなかった。

 生き残った者はいない。

 その事実は、少年に深い喪失感を与え、再び膝を付きそうになる。しかし、ぐずぐずはしていられない。火の手はますます強くなっており、目もまともに開けていられないほどだ。このままのんびり救助を待ってもいられない。すぐにでも脱出しなければ。


 だが、そう決断した直後、少年の背後から、からん、と微かな音が響いた。何かが崩れたのだろうかと思って振り返った少年の瞳に、壁に寄りかかるようにして倒れている少女が映る。

 少女はかすかに身じろぎして、呼吸をしているように見えた。

 少年は火や瓦礫を避けながらも急いで駆け寄り、全身の様子を見る。頭から一筋の血が流れしてぐったりしているのは心配だが、四肢はきちんと繋がっているし、ところどころ破けている服の隙間からは、大きな怪我も見当たらない。

 少女の手を取り、脈を取る。

 とくん、とくん、と小さく響く生命の脈動。それを感じ取った少年は、深い安堵の息を吐いた。手にとった手を、自分の額に持って行き、祈るように目をつむった。


「よかった。……生きてた」

 その声を聞きとったのか否か、少女がうっすらと目を開けた。


 美しい少女だった。瓦礫と埃で全身が汚れていたが、そんなもので少女の美しさがいささかも損なわれることはなかった。

 シルクように流麗な黒髪は、片目を隠すように伸ばされ、長い部分は腰辺りまであり、思わず触りたくなるような色艶があった。色白できめ細かな肌は、茶色よりも赤に近い瞳を際立たせており、儚げな中にも燃える意志を持つことを印象付けた。


 しばし少女に見とれていた少年だったが、危急の事態に気付く。少女の片足が瓦礫に挟まっていたのだ。骨折や脱臼の様子はないが、何かに引っ掛かっているのか簡単には抜けそうにない。救助を待とうにも、火の手はそこまで迫ってきていた。


「逃げ、て」


 空をさまよっていた深紅の瞳が、少女の手を握っていた少年をとらえると、その口から鈴が鳴るような音を響かせる。頭を打っているせいか、その声音ははっきりしない。ぼんやりとした瞳で、現状を把握できているかどうかも怪しい。


「……できるわけねえだろ、馬鹿」


 少女の手を離し、瓦礫に手をかける。どうにかして動かそうと力を込めてみるが、ぴくりとも動かない。素手では持ち上げられそうになさそうだった。

 何か道具はないかと周囲を見回そうとした時、天井がピキリと不吉な音を立てる。

 嫌な予感がして上を見上げると、案の定、天井が崩れかけており、火の粉と瓦礫がぱらぱらと落ちてきていた。まずいと思って焦る少年を急き立てるように、一際大きな音とともに天井の亀裂が広がる。

 深く考える時間もなく、体はとっさに動いていた。少女を庇うように覆いかぶさった直後、天井が崩れて炎を纏った瓦礫が落ちてくる。


「ああああああああああああああああああああああ!!」


 背中と顔の左半面から熱を感じる。不幸中の幸いで瓦礫自体は小さいものだったが、ガソリンがついていたのか、少年に燃え移った火はなかなか消えてくれなかった。

 少年は背中と顔に火をつけたまま、少女の足を挟んでいる瓦礫にもう一度手をかける。天井が崩れたことで支えがとれたのか、瓦礫が少しだけ持ち上がり、少女の足が解放された。


「あちいいいいいいいいいいいい!!っつぅか、いてぇええええええええええ!!」


 少女の解放に成功すると、少年は床に転がって痛みに悶える。意識した行動ではなかったが、床を転がることで火は消え、それ以上の火傷は防ぐことができた。だが、少年の顔と背中には無残な火傷が残ってしまった。


「あああぁぁぁ、くっそいてぇな、おい!つばつけりゃ治るか!?知るか!」


 誰に対して訪ねて、誰に対して答えているかわからない文句を言いながら、意外と元気そうな少年は痛みを紛らわすように地団太を踏む。

 そんな少年の耳に、かすれるような声が届いた。


「なん、で?」

「ん?……あ?」


 うわ言のように尋ねる少女の疑問に、少年はどう答えたものかと首をひねる。

 なんでこんな状況になっているのか、なんでそこまでして自分を助けたのか。どちらの意味ともとれる問いだ。どちらにせよ、自分の名前すら思い出せないのに、少女の質問にまともに答えることなどできるはずもない。


「……あー、もう大丈夫だ。いろいろやばい状況だが、もうすぐ助けが来る。助けが来そうになくても、俺が担いで行ってやるから安心しろ」


 結局、返せたのは、そんな曖昧な返答だった。

 少女は、そんな少年のごまかしを見抜くようにじっと見つめていたが、ふと視線を少年の背後へと移すと、目を鋭くさせる。何かを報せるように少年の手を弱々しく握り返し、擦り減った体力を奮い立たせて掠れた声を上げる。


「火が……」

「あ?」


 少女の視線をたどって振り返ると、炎が先刻よりも明らかに広がっていた。もはや足の踏み場もないほどに地面を炎が舐め、少なくない時間でこの場も炎に包まれることは明白だった。


「……まじかよ」


 少年は、少女を抱き上げると、急いで出口を求めて走る。

 線が細く、まだ少女であるとはいえ、人間一人を抱え上げて走るのは重労働だ。少年は火事場の馬鹿力でなんとかやり遂げたが、下階に繋がる階段は瓦礫で塞がっていた。


 ふと、少年の脳裏に、少女を見捨てて逃げれば、助かるかもしれないという思いが芽生える。


 少女を置き去りにして瓦礫の隙間を探し出し、そこから這い出すことができれば、安全圏内に出ることができるかもしれない。生き残るためならば、それは恥ではないだろうし、あとで迎えに来るつもりだったと言い訳することもできる。

 少年は、ぼんやりとした瞳で見つめてくる少女に目を移し、ほんの数瞬思考してから、大きく息を吸い込んで覚悟を決める。


 そして、少女を抱えたまま、外の見える窓へと全力で走った。


「っ!!」

 少年の行動を察したのか、腕の中で少女の身体が堅くなる。

 ここが何階なのかは確認しなかった。その時間が惜しかったし、なにより、知ってしまったら迷いが生まれてしまいそうだから。

 瓦礫を踏み台にして、青空へと飛び出す。眼下には、こちらを見上げる大勢の野次馬に、赤いテールランプの車両が3・4台確認できた。誰もが崩壊寸前の立体駐車場を、不安一割・好奇心九割で見上げる中、少年が窓から飛び出した瞬間を目撃した者も大勢いた。

 叫び声を上げる者、携帯を向けて撮影する者、何が起こったかわからずにぽかんとする者たちが見守る中、少年は浮遊感に顔を青くさせた。


 ……ちなみに、正解は4階。真下はコンクリート。どう足掻こうとも結果が見えているし、そもそも空中では足掻くことすらできない。


「くっそ、ふっざけんなああああああああああああ!!??」


 人は死ぬ時に走馬灯が頭によぎるというが、記憶喪失の少年の頭に浮かぶものはなく、真っ白に塗り固められた思考だけがあった。風が頬を切る冷たさと抱きしめた少女の温もりだけが、妙にはっきり感じられた。

 腕の中に生きている少女がいるという思いが少年を奮い立たせ、自分の身体が下に来るように、空中でとっさに位置を入れ替えた。


 明確な意志を持ってとった行動ではない。落下の時間など数秒にも満たないので、考えている時間など全くなかったのだから。ならば、それは少年が元から持つ気質であろう。少女が僅かに身じろぎしたのを包み込むようにし、これから起こる凄惨な結末を予想し、目を閉じる。


 だが、運命は少年が予想したのと違う結末を用意した。……飛び降りた直後、立体駐車場が爆発したのだ。

 空中で衝撃波を受けた少年と少女は、爆風に軽く10mは吹き飛ばされた。

面白半分で見ていた野次馬たちは瓦礫の雨の洗礼を受け、あたりは突如、阿鼻叫喚の様子へと変わる。野次馬たちに下がるように言う消防隊員たちの言葉が、パニックを起こした群衆に届くのは当分先のことになるだろう。


 一方、吹き飛ばされた少年と少女は、その先にあった街路樹に身体を叩きつけられる。葉や枝が緩衝材の役割を果たしたが、それで衝撃が全て防げるわけもなく、少年は背中を強打してしまった。背中から伝わる運動エネルギーが内臓をシェイクし、ぐちゃぐちゃになってあふれ出した体液が口から零れ出る。

 少年の苦難はそれでは終わらず、街路樹の頂点から地面へと自由落下する。まだ意識があったことは幸か不幸か、背中から落下することが――少女を抱きしめたまま、自分自身をクッションとすることができた。


 地面から見上げた空は、赤く染め上げられていた。

 それが夕日のせいだったのか、自らの血で眼球が赤く染まっていたからなのかはわからない。少年の肉体はもはやぴくりとも動かず、痛みすらも感じず、ただ眼球から送られてくる映像を脳が機械的に受け取っているだけだった。


「どうして……」


 少年の視界に、少女らしい影が写りこむ。眠りに落ちるように視界が歪み始め、それが自分の助けた少女なのかどうかを、ただ予想することしかできなかったが、少年の脳はその影が彼女だと確信する。

 ただ一言。最後に一言くらい、少女に残そうと唇を動かす。


「……うるせぇ、知るか」


 きちんと言葉にできたかはわからない。舌と唇がうまく動いてくれなかったから。だが、最後の力でそれだけ口にし、少年の意識は闇に落ちて行く。


「……っ!?……っ!?」


 誰かが叫んでいる気がしたが、少年の耳にはもう届いていなかった。眠りに落ちるように、少年の身体から徐々に力が抜けていく。

 だがしかし、そんな中――


「……リ!……リ・リ!」


 ただ一つ、奇妙な嘲るような鳴き声が、岩の隙間から流れ込む水のように少年の聴覚に沁みこんできた。 何故かとても懐かしいその不思議な声に誘われ、失われた記憶の扉が開ききる前に少年の思考は灰色の靄に沈んだ――。

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