帰宅
そこは都会でありながら寂れた空気のある、閑静な住宅街だった。古臭い和風建築が並んでおり、店はコンビニをたまに見かける程度だった。ここまで来るとハロウィンの喧騒も薄れ、祭りから家に帰ってきた人々だけが余韻として残る程度だ。
狭い道には遊びまわる子供たちと井戸端会議をする奥様方の声。周囲の住宅からはテレビの音が聞こえてくる。古風な風情であったが、実にのどかだった。
風香とその友人と見られる一団は見失ってしまったが、行き先は見当がついていた。携帯の地図アプリを起動させて探ってみると、案の定、ケースケの家の近くを指していた。
「……家の近くまで行くだけだ。風香がちゃんと家に帰れたことを確認したら、それ以上はなにもしない」
自分自身に言い訳するようにつぶやき、歩を進める。
曲がり角を曲がると、小さな公園に差し掛かった。砂場に滑り台、そしてブランコがあるだけの簡素なものだ。大人から見れば侘しくも見えるそれらも、遊びの天才である子どもたちからすれば宝物なのだろう。数少ない遊具を、飽きもせずに何度も堪能していた。
ふと、その様子に既視感を覚える。遠い昔、ここで遊んだことがあるような気がするのだ。
「…………」
もしかしたら、もっと思い出せるかもしれないと立ち止まる。しかし、記憶のフラッシュバックは先ほどの一瞬だけ。記憶を取り戻す一助にはならなかった。
諦めて再び歩き始める。アプリが指し示す住所はもう目と鼻の先だった。
そこは、二階建ての屋敷だった。一般家屋よりは大きく、裕福であることがうかがえるが、古臭く、庭の草木は荒れており、幽霊屋敷といった様相だった。人など住んでいないと言われれば納得してしまいそうな侘しさだったが、屋敷に燈る明かりがそれを否定する。
それを見たケースケは、声を失うほどのショックを受けていた。
――――帰ってきた。
記憶はまだ戻らない。ケースケにとって、『初めて見る』建物だった。
だが、それでも、ケースケは一目で確信できた。こここそが我が家であり、自分が生まれ育った場所であると。
雨音の警告は、頭から消え失せていた。いや、その時の彼は考えられなかったというのが正しい。誘蛾灯に引き寄せられるように、ケースケはふらふらと屋敷の敷地内へと足を踏み入れる。門を通り抜け、玄関口の前に立つ。
屋敷は静かだったが、明かりは灯っていた。我が家に帰ってきただけなのに、ひどく緊張して喉が渇く。呼び鈴を押す指は、緊張で少し震えていた。
ピンポンという、場違いなほど軽い音が鳴り響く。
屋敷の中で人が動く気配がし、扉が開くまでの時間が、ケースケにはとても長く感じられた。
「は~い、どちらさ……って」
明かりとともに顔を出したのは、自分より小さな少女。風香だ。少女はドングリのような眼をいっぱいに開き、兄の姿を見上げた。
「お兄……ちゃん?」
その声からは、信じられないものを見た驚愕がにじみ出ていた。
言葉に詰まる。連絡を怠ったことを謝るべきか、事情を説明するべきか。いや、それ以前に胸の中に到来した激情から胸が詰まり、声を出すのにも苦労させられた。
「……ただいま、風香」
迷った末、結局、ケースケの口から出たのはそんな言葉だった。
ケースケは気恥ずかしげに頭をかく。
「お兄ちゃん……」
その言葉を受け、風香は眼尻に涙を浮かべ、思い切り叫んだ。
「お兄ちゃんがお姉ちゃんになっちゃったああああああああああああ!!」
「……あー」
そういえば、女装したままだった。
◆◆◆◆◆◆◆
小さなシャンデリアを模した電灯には薄く温かい明かりが灯っていた。光としては弱々しく、外から差し込む夕陽の方が強く感じられるほどだったが、それでも広い室内を見渡すには十分すぎるほどだった。奥は観音開きのガラス戸となっており、扉の向こうは中庭に繋がっている。部屋の中央には長大な長テーブルといくつもの椅子。上座には今時珍しい本物の暖炉があり、その上には肖像画といくつもの家族写真が写真立ての中に飾られていた。
肖像画に描かれているのは、ケースケや風香にどことなく似通った顔立ちの男性だ。きちりと整えられた黒髪と着物、くすりとも笑わぬ厳格な顔立ちをケースケは見つめる。
「今時、肖像画かよ……」
「お父様は考え方が古いからね。大してお金持ちでもないのに名家ぶってって、お兄ちゃんもよく愚痴ってたよ。……覚えてる?」
振り返ると、ティーカップを乗せたお盆を持った少女が立っていた。
幼いながらも強い意志を持った瞳。彼女がこの肖像画の主の娘であるのも頷ける。ケースケは自身が記憶喪失であることを話したが、風香はそれを受け入れ、何でもないことのように兄を迎えてくれた。厳しい父にしつけられたしっかり者の妹であることが伺える。
「いいや。……父さんと母さんは?」
「今はお仕事中だよ。大人は大変だよね。家族が行方不明なときくらい、休めばいいのに……。まぁ、お父様らしいといえばらしいけど」
寂しげに笑う風香の顔が、少年の胸に刺さった。病院で起きた出来事の凶報に、行方不明の兄、彼女がどんな思いで時間を過ごしたかは想像に難くない。そして、彼女を苦しませてしまった原因は、早く家に帰らなかった自分自身にもある。
「あー、悪い、知らせるのが遅くなって。本当はもっと早くに帰るつもりだったんだけどな。いろいろ事情があって、帰るのが遅くなっちまった」
「ううん。いいの。何があったのかよくわかんないけど、大変だったんだよね?心配だったから連絡がなかったのは辛かったけど、お兄ちゃんが帰ってきてくれただけで、私は十分嬉しいよ。……それより、はいこれ。早く着替えちゃってよ」
風香は苦笑しながら衣服を差し出す。男物の上下で、恐らくケースケのものだろう。どうやら、お茶を入れるついでに部屋まで行って一式持ってきたようだ。
「……えー」
「なんで微妙に残念そうなの!?実は割と気に入ってたの!?帰ってきた兄が女装癖に目覚めてたなんて、行方不明とは別の意味でショックなんだけど!?」
「あー、なんというか……着替えんの、めんどい」
あまりに不精すぎる理由に、少女は兄をギロリと迫力ある瞳で睨む。
「お兄ちゃん?事故のせいで、ただでさえ噂になってる上に、火傷で顔面包帯なんだよ?その上で女装趣味の兄がいるなんて噂されたら、私、もう表歩けないよ?」
「えー、でも、めんどくs――」
「き が え な さ い」
「……はい」
鬼のような形相を浮かべる妹の気迫に押され、ケースケは大人しく衣服を受け取る。
だが、確かに、配慮が足りなかったのは確かかもしれないとケースケは思う。和葉や雨音からは、目立ってはいけないと十分に注意されていたはずだ。だというのに、自分は正面玄関から堂々と呼び鈴まで鳴らしてから入ってしまった。不用心にもほどがある。遅まきではあるが、もっと警戒する必要があるだろう。
「なぁ、風香。悪いんだけど、俺が家に戻ってきたこと、親父やお袋、他の知り合いにも内緒にしていてもらえないか?」
「えっ、なんで?」
「あー、ちょっと説明しづらいというか……」
怪物の話をしたところで、信じてもらえるとは思えない。記憶喪失や女装の件もあることだし、脳に障害でもあるのかと思われるのがオチだろう。かといって、適度に誤魔化しつつ、物事をうまく説明できるほど口達者ではなかった。