第九十六話 すり抜ける少女
「お帰りなさい、お姉様」
夕方になって十七番が神院に帰ってくると、読書をしていたレナに迎えいれられた。彼女は本当に、部屋にずっとこもっていたらしい。
十七番がぎこちなく「ただいまです」と返事をすると、レナはそれに満足して再び本に目を落とし……何かに気づいたように目をパチパチとさせ、十七番を二度見した。
懐にバーグラに渡された地図が入っている十七番は、レナの行動にドキリとさせられる。
「お姉様、それは?」
……が、彼女が気になったのは地図ではなく、十七番が手に持っていた紙袋の方だった。
「えっと、これは街で買った洋服です」
「へぇ、よかったら見せてくださいませんか?」
見せることはかまわないのだが、十七番は何となく恥ずかしくなって、取り出さずに紙袋ごとレナに渡す。
レナは中の洋服を取り出して「いい服ですね」と褒めた後……急に真顔になって服を見つめ、触って生地を確かめ始める。
「……お姉様、これ、お姉様がお金出して買ったんですか?」
「う……」
「もしかして、バンケツにでも買ってもらいましたか?」
「そ、そうです……」
そこからいきなり飛んできた鋭い指摘に、十七番は思わずうめいた。
十七番が言い訳のように「トイレを貸してもらうのに買ったそうで……」という話をするも、レナには「そんなわけないでしょう」と一蹴される。
そう、そんなわけがない。それくらいは十七番にだってわかる。
十七番はすっと目をそらし「ちょっとお手洗いに行ってきます」と言って、逃げるように部屋を出た。
十七番だって、洋服の意味がわからないわけではないのだが……今まで兄以外にこんな風に好意を向けられたことがないので、どうしたらいいのかわからないというのが正直な感想である。
(全く、こんな事に動揺している場合ではないのですが)
十七番は大きく深呼吸をして――懐の地図を確認したあと――トイレへに向かい歩きだす。
今はこんなことで動揺している場合ではない。まずはバーグラに渡された地図の確認をしなければ。
どうせ、さっさと諦めて戻ってこいという内容の手紙だろうが、読まずに棄ててしまうわけにはいかない。
十七番はトイレの個室に入ると、地図を取り出して魔力を通す。
案の定、それはたんなる地図ではなかった。特殊インクで書かれた彼からの指令が浮かび上がる。
その文章に、いやいやながらも目を通し――
「なんなの、これは……」
――その奇妙な内容に、思わず声に出して呻いた。
『十七番、よく見つけた。
これより我々は『賢者』の拉致を最優先目標として動く。
詳しい作戦は口頭で伝えるので、機を見て地図に示した場所に来い。急ぐ必要はない、怪しまれないことを優先しろ。
――くれぐれも『賢者』は殺さぬように。いずれお前の気持ちは汲んでやる』
徹頭徹尾、十七番には意味がわからない文章である。
勝手に抜け出した十七番が何故褒められているのか?
いったい何を見つけたというのか?
『賢者』とはいったい何の暗号か?
殺すなという念押しも、気持ちは汲んでやるというなだめるような言葉の理由もわからない。
指令書を難解にしたのは他人に渡った時のための対策だろうけれど、受け取り手の十七番が理解できないのでは意味がないと思うのだが。
(……まあ、どんなに考えたって、わからないことはわからないままですね)
それよりも、今はっきりとわかった重要なことが一つある。
(やはりできるだけ早く……いえ、今日中にレモナに会いに行ったほうが良いでしょうね)
一度はバーグラとの決別も覚悟していた十七番だが、祖国に戻れるのであれば戻りたい。
この先、チームで『賢者』とやらの確保に動くのであれば、レモナという個人的な目標は今のうちに片付けておくべきなのだろう。
十七番は地図を覚えたあと、それをトイレの備え付けランプで火をつけて燃やし、灰を便器の中へと投げ入れた。
トイレを出るとその足で、レナの待つ部屋ではなく、迎賓館へと歩き始める。
今度は周囲に自分をいぶかしむ人間がいないかも確認しながら、順調に迎賓館へと近づいていく。
そのまま誰かに声をかけられることもなく、迎賓館に到着した。物陰から様子をうかがうと、迎賓館の入り口には、今も見張りが立っている。
(さて……覚悟を決めるとしましょうか)
少しのあいだ瞑想して気持ちを落ち着けた十七番は、おもむろに衣服を脱ぎはじめる。
そして着ていた服をすべて茂みの陰に隠すと、一糸まとわぬままで護衛へとゆっくりと近づいていき――
――そのまま護衛達の横をすり抜けて、迎賓館の中へと入っていった。
* * * * *
十七番は、間者や暗殺者にはむいた性格ではない。
それは兄の敵討ちに走っていることからも明らかだ。本人もそれを自覚しているし、バーグラやグックスも、知っている上でチームを組んでいるので諦めている節もある。
では、そんな十七番がどうしてキイエロ王国の潜入チームにいるのかというと……世界で彼女だけが使える特別な魔法があるからに他ならない。
彼女の祖国――テルカース帝国の特殊部隊には、ある絶版魔導書が保管されていた。
その魔導書の魔法は『透明化』という。その名の通り、透明になれる魔法である。
透明になれることが如何に強力か、わざわざ語る必要もあるまい。特に忍びこむことの多い暗殺者やスパイにはうってつけの魔法だろう。
……が、実際の透明化の魔法には、いくつもの制約が存在していた。
まず、透明化の難易度が非常に高いことが挙げられる。
透明化の魔法の難易度は、あの毒魔法をも上回るうえに、保管されていた絶版魔導書はお世辞にも高品質とは言えなかった。
魔法適性の凄く高い人間が、子供のころから何年もかけて練習して、ようやく使えるかどうかだったのだ。
その上消費魔力も途轍もなく、普通の魔力量の魔法使いでは、ほんの数十秒発動させるのがやっとだと推測されていた。
また、透明化の魔法はあくまでも、透明になることしかできない。
極端な話をすれば、何日も風呂に入っていない人間が魔法で透明になったところで、臭いで察知されてしまう。ぶくぶく太った人間が透明になっても、歩く時に床がきしんでバレるだろう。
そういった厳しい制約から、透明化の魔導書は塩漬けになっていたのだが……戦争を始めたテルカース帝国は、どうにか透明化の魔導書を活用したいと考えて、国中の子供の中から使い手を探すことにした。
その選考基準は多岐にわたる。
魔法適性が高く、魔力量が多く、若く、健康で、体重が軽く、体臭が少なく、目が良く、足音を殺す歩き方が習得できて、関節が柔らかく、肺活量があり……等々、選考はかなり厳しいものになり。
そんな数々の選考基準を通過して選ばれたのが、ほかでもない十七番だった。
かくして十七番は孤児院から引き取られると、すぐに透明化の魔導書を読まされて、そこからひたすら訓練に励むことになる。
彼女の魔法の才能は本物で、豊富な魔力で透明化状態を五分以上持続させることができ、追加で氷魔法も多少扱えるようになった。
もしも十七番が透明化の魔法を覚えずに、他の色んな魔法に手を出していたならば……彼女は数多の魔法を自在に操る至高の魔法使いとして有名になっていただろう。
一方で計算外だったのが、成長期に思ったよりも身長が伸びてしまったことだ。一時期は体重が増えすぎないように、かなりきつい食事制限をさせられた。
十七番はあれさえなければ、身長はスミルスくらい高くなって、胸もレナくらいあったのではないかと思っている。
もっとも、『透明化』という絶大な力を与えられたが故に、どうして間者や暗殺者にむいていない人間になってしまった。
通常、スパイや暗殺者を育成するための訓練は、非常に厳しいものになる。時には訓練中に死んでしまうこともあるし、あまりの凄惨さにうつ病になる訓練生も少なくない。
訓練を無事に修了して第一線で活躍し始めるのは、ほんの一握りの人間だけという世界である。
しかし十七番は、死んだり壊れたりするような厳しい訓練はさせられなかった。それは彼女の代わりは他にないためで、他の訓練生とは基本的には隔離され、全く違う訓練を受けてきたのだ。
彼女がやらされてきた訓練は、物音を立てずに歩く練習や開いたドアに滑り込む練習など、透明化を活かすための練習ばかりになり。
結果、彼女にはこの仕事に一番必要なはずの『影の精神』が育たなかったのである。
とはいえ、その程度の理由で、ここまで多大な労力と費用をかけてきたのに実戦に使わないという訳にもいかず。
兄の十番を目付け役として、十七番はキイエロ王国に送り込まれたのだった。
* * * * *
(さて、どうやらその部屋のようですね)
レモナがいると思われる部屋を発見した時、十七番はかなり疲弊していた。
透明化は魔力の消費が本当に激しい。
例えば、透明化してリスティ城にいる女王を暗殺できるかというと、その答えはノーである。いくら豊富な魔力をもつ十七番であっても、リスティ城のような大きな建物が相手だと、相手に辿り着くより魔力切れをおこす方が早い。
幸い、迎賓館はリスティ城のような大きな建物ではないが……それでも本来ならば、見取り図と見張りの居場所くらいは調べた上で忍び込まなければならない。
どれだけかかるかわからないため、本来は服ごと消えることもできるのだが、少しでも消費魔力を抑えるために脱いで潜入した。
今も魔力の節約のため、大胆にも魔法を解いて、物陰に隠れている状態である。
その部屋の入り口には、見張りが一人立ってる。
透明化して近づいて、一瞬で喉を凍らせてしまえば暗殺できるかもしれないが……騒ぎになるような事は避けたいし、それに使う魔力すら惜しい。
(誰かが訪ねてきて、扉を開けてくれないでしょうかね)
そんな都合のよい妄想をしながら様子を見ていると――十七番の半ば冗談染みた願いが、はたしてテルカ教の神に届いたのだろうか――潜伏場所とは反対側から、一人の男が現れた。
「……っ!?」
向こう側からやってきたその男――フィロフィーの父親のスミルスは見張りと二言三言会話をすると、部屋の扉を開けてもらった。