第五話 金庫の中の夢と希望
フィロフィーが行動を起こしたのは、スミルスが魔石を持って帰って来た翌日の昼過ぎだった。スミルスは既に開拓に出かけ、タイアは今日もケニーを引きずり回している。メイドのソフィアは屋敷内にいるが一階の共用施設の掃除をしている最中なので、当分は二階にあるスミルスの書斎にはこないだろう。
スミルスはホワイトフォックスの魔石を売るため、昨日のうちに旧知の商人への手紙を出していた。しかし手紙を持った兵士が南の街に着き、そこから配達屋が手紙を商人まで運ぶのに二十日以上はかかる。その商人が都合をつけてセイレン領に来るのには、早くて二ヵ月といったところか。
スミルスは商人が来るまで魔石を金庫にしまっておく事にしたのだが、その金庫はついさっきフィロフィーの手で開かれていた。
フィロフィーは金庫の番号を知っていた――わけではなく、グリモの力で金庫破りをしていた。グリモの目で金庫をスキャンして調べ、その開け方をいとも簡単に解析してみせたのだった。
金庫が鍵の不要なダイアル式だったのがスミルスの敗因だろう。鍵式でもいつかは開けただろうが。
(これがホワイトフォックスの魔石ですわ)
『思ってたよりも大きいな』
金庫の中の魔石はフィロフィーにはだいぶ小さく思えるのだが、グリモはそれを大きいと評価した。
(これで大きいんですの? わたくしの拳より小さいですけど)
『あ、中型の魔物の魔石にしてはって意味だ。よほどでかい狐だったのかもな』
(興味があるなら後で見せて差し上げますわ。近くの雪の中に埋めてありますから)
スミルスは魔石だけでなく、魔石が出たホワイトフォックスの亡骸も持って帰ってきている。通常のホワイトフォックスより二回りは大きかったので、骨の標本を作るつもりになったらしい。
それは決して道楽ではなく、標本も魔石とセットで売れるかもしれないという打算があっての事だ。ホワイトフォックスの魔石には実用的な価値よりも学術的な価値の方が高いだろうとスミルスは思っていた。
『いや、わざわざ見たいほどでもないな。……それでどんな感じだご主人』
(うーん、特に変わった感じはしませんわね)
スミルスの書斎に忍びこみ金庫を破ったフィロフィーだったが、さすがに魔石を丸ごと盗むつもりではない。
自分に吸収能力があった場合に魔石の全てを吸収しては困るので、初めは恐る恐る金庫の中の魔石を指でつついていた。
が、それだけでは魔石にもフィロフィーにも変化はない。
そこから人差し指を魔石に乗せてみたり、それで駄目なら撫でてみたりと段階的に強く触ってみているのだが、やはり変化は起こらない。
ついには魔石を持ち上げて、手の中で転がし始めた。
(何も起こらないですわね。やっぱり、わたくしに特別な力なんてないのでしょうか…………)
『いや、俺の表紙の魔方陣を消したんだ、ご主人には何かしらの力はあるはずだ。もしかしたらその魔石を吸い付くさないように無意識にストッパーをかけてるんじゃねーか?』
(ストッパー?)
『ああ、今は魔石を小さくしすぎないようにって注意しながら触ってるだろ? 試しに魔力吸い出しきってやろうと意識してみるとか』
(なるほど。やってみま――)
その瞬間、魔石は消えた。
「……………………」
『……………………』
フィロフィーとグリモはしばらく言葉を失い、魔石を握っていた左手をじっと見つめる。
そこには何もない。
それからフィロフィーは床を見つめ、這いつくばってソファの下などを探し始めた。
『いや……床に落ちたわけじゃないな』
「あ、あああうあうえうわ!?」
『落ち着けご主人。大声出すとソフィアに気付かれるぞ』
フィロフィーは慌てて口を押さえる。
幸い、ソフィアが階段を上って来る様子はなかった。
フィロフィーはあらためて周囲を見渡すが、魔石はどこにも見つからないし、そもそも見つかるはずもない。
なにしろたった今、フィロフィーが吸収し尽くしたのだから。
グリモに諭されたフィロフィーは気持ちを落ち着けようと、目を閉じておおきく深呼吸する。
「まぁ、無くなってしまったのでは仕方ないですわね」
『切り替え早いな』
そして開き直る事にした。
『まあ、いいけどさ。それでご主人、まずは身体に異常はないか?』
「あ、汗がびっしょりと出て熱いですわね」
『それは魔石が消えて焦ったからだろ?』
「気持ち悪くて吐きそうですわ。それにくらくらと」
『あぁ、うん。……判断が難しいな』
フィロフィーが挙げたのはストレスで起こる症状ばかりだった。
吸収した魔石の影響なのか、それとも貴重な魔石を失ったストレスが原因なのか。グリモにも判断が難しい。
『しかしまさか、あのサイズの魔石を丸ごと吸収するとはなぁ。ご主人は今体内にとんでもない魔力が溜まってるハズだから、それで気持ち悪くなってる可能性は高いか』
「うう、そう言われると何だか段々気持ち悪くなってきた気がしますわね。でも今のわたくしなら魔法が使えますの?」
『それは試してみないとわかんねーな。狐の魔石だから、狐に変化とかできんじゃねーの?』
「なるほど、さっそくやってみますわ」
『あ、ちょっと待った』
グリモの制止は聞かず、フィロフィーは目を閉じて狐に変化しようと念じ始める。
変身魔法を魔導書に頼らず覚えられた人間は、数少ない魔導士のなかでも更に一握りしか存在しない。魔法を使う時はイメージの力が非常に重要になるが、人間が人間以外の姿になるという事をイメージするのがとにかく難しいからだ。
その事を知っているフィロフィーは非常に丁寧に自分が狐になるイメージを作っていく。幸いホワイトフォックスはフィロフィーにとっても身近な魔物であり、完成形を既に見知っている。四肢の骨格の変形、頭の形や尻尾などを繊細にイメージする事ができた。
なにやら騒がしいグリモの言葉を意識の外へと追いやって、フィロフィーはそのまま十数分瞑想を続ける。そしてフィロフィーはついに――
「……なれませんわね」
――ついに諦めた。
フィロフィーには耳も尻尾も生える事はなく、先ほどから感じている気持ち悪さ以外に体に変化を感じなかった。その感覚は無魔力なのに火や水の魔法を使おうと躍起になっていた時と同じであり、これ以上続けても虚しいだけだとフィロフィーに囁いていた。
『よかったな。領主の家から狐の魔物が飛び出したら大パニックだったぞ。下手すりゃタイアに斬られてたかもな』
「う……」
変身したばかりの狐の姿でタイアに襲われて、逃げられる気がまるでしない。タイアにあっさり切り捨てられる自分を想像し、フィロフィーは狐化しなかった事を悲しみつつも胸をなでおろした。
そして少し逡巡した後、スミルスの書斎の窓を開け、手のひらを窓の外に向かってかざす。
「出でよ、水。 ウォーター。 アクア。 お水」
使って良い、そして使えそうな魔法はと考えて思い付いたのは水魔法だ。火の魔法と水の魔法はフィロフィーが何年も練習し続けていたものであり、魔力を得た今なら使えてもいいはずと考えた。安全性を考えて、火ではなく水の魔法を選ぶ。
フィロフィーの顔色は悪く、吐き気もまだ治らない。魔力を得た事による副症状の可能性が高まってきたが、休む事なく魔法を使おうとして躍起になっている。
そんなフィロフィーを心配したのがグリモである。
『いやいや、そんなすぐに魔法は使えないだろ。とにかくまずは、ご主人の体の変化を……』
グリモの言葉が切れる前に、フィロフィーは体の中で何かがうごめく様な感覚を感じた。
そして彼女の小さな手のひらに、白く光る球体が出現する。
グリモとフィロフィーが息を呑む。
それはフィロフィーが恋い焦がれ続けた水魔法――
『そんな、馬鹿な……』
――ではなく、白くて丸い、固形の石のような物だった。
それは窓の外に飛んでいく事無く、そして重力に逆らう事なく床に落ちた。二、三度小さくバウンドして床を転がる。
「………………」
『………………』
フィロフィーとグリモは、無言でその球体を見つめ続ける。
それが何なのかは二人ともすぐに解ったものの、理解が追いつかない。
形こそ違うが、フィロフィーが吸収したはずのホワイトフォックスの魔石が床に落ちていた。
* * * * *
「そういやスミルス、魔石の出てきたホワイトフォックスはやっぱり強かったのか?」
「いえ、弓で一撃でしたよ。ただ通常よりも大きな個体だったので、一発目を外していたら苦労したでしょうね」
その日の夕食後、スミルスとタイアは生薬茶をすすりつつ魔石談義をしていた。フィロフィーもタイアの横で白湯を飲んでいるが、二人の会話に割り込もうとはしない。
ソフィアは洗い物をしているが、先ほどまでは彼女もフィロフィー達と共に四人で夕食を囲んでいた。セイレン家の食事はメイドのソフィアも席に座らせて食べている。
ソフィアは住み込みメイドというわけではなく、近所にある自宅から毎日通っている。彼女の夫は既に他界し、二人いた彼女の子供達はいずれも村を出ていた。スミルスはソフィアに住み込みを提案した事もあるのだが、家族との思い出の詰まった家を出たくないとソフィアに断られている。
それでもせめて夕食くらいは一緒に食べていくようにとスミルスに命じられ一緒に食卓を囲むようになったのだが、彼女がフィロフィー達の会話に参加する事は滅多になかった。
「そんなにデカかったのか?」
「ええ、亡骸を持って帰ってきましたので明日焼く前にお見せしましょうか? 既に皮は剥いでしまっているので、少々グロテスクかもしれませんが」
「……いい。でも売る前にもう一度くらい魔石を見ておきたいかな」
「ははは、アキがここに来るまではいつでもお見せしますよ。とりあえず取ってきましょう」
「ありがとう」
スミルスが席を立って魔石を取りに向かい、タイアははにかみながらお茶をすすった。
フィロフィーもニコニコしながらカップに口をつける。
一見すると平和な空間であったが、フィロフィーのカップは既に空であり、彼女はその口元が引きつるのを隠す為にカップをあおっていた。
ほどなくしてスミルスが魔石を戻って来るが、彼は魔石をいぶかしげに見つめながら登場した。
「ん? どうかしたのかスミルス」
「いえ、昨日と少し形が違っている気がしまして」
フィロフィーの細い眉がピクリと動く。
「それってまさか、偽物にすり替えられた!?」
「いえ、強い魔力を感じますし、間違いなく魔石です」
「ならお父様の気のせいでは?」
タイアはそれまで無言だったフィロフィーが口を開いたのが気になって、フィロフィーに疑いの目を向ける。
「……フィー、まさか削ったりしてないよな?」
「そんな事やりたくても不可能ですわ。魔石は鋼よりずっと硬いのです」
「ん、そうなのか?」
「事実ですよタイア様。持った感じ軽くなった様にも思えないですし、今のは忘れてください」
「そうか。変な事言ってごめん」
タイアにはフィロフィーの態度に若干引っかかる感じがあったが、スミルスがそう言うからには特に問題はないのだろうと判断する。
一応、スミルスから受け取った魔石を念入りに見つめるが、特におかしいとは思えなかった。
実際はその魔石は昨日とは形や色が変わり、少しだけゴツゴツとしている。重さもほんの少し軽くなっているのだが、スミルスも手に入れた時に念入りに検査したわけではないので気づかないだけだった。
フィロフィーが手のひらから魔石を生み出した時、最初に生成した魔石は綺麗な球体だった。
そこから魔石を何度も吸収したり取り出したりしながら、元の角ばった石っぽい形にするために悪戦苦闘を重ねたのだ。
作業の途中で魔石を全て吸収すると気持ち悪くなる事がわかり、魔力の取りすぎはフィロフィーの体に異常をもたらす事が確認できた。一方で魔石の付け足しは簡単にできたので、魔石をまるで粘土を操るかの様に削ったり付け足したりを繰り返しながら、魔石全てを一度に吸収しない様にして作業を続けた。
時には魔石を水っぽい液体にして床こぼしてしまい、心臓が飛び出そうなくらい驚いたフィロフィーだったが、液体状の魔石も手で触れれば再度吸収する事ができた。
もっとも最終的にはゲシュタルト崩壊をおこしてしまい、もうこれでいいやと投げやりに金庫に放り込んだのだったが。
「フィーも見てみるか?」
「いえ、わたくしは昨日十分に堪能しましたから」
魔石を吸うのも出すのもフィロフィーの意識次第であるとわかり、今のフィロフィーがうっかり魔石を吸収してしまう事はまずない。――ないのだが、それでもあまり触りたくはなかった。
断るフィロフィーを、タイアがやはり怪しいと思いながらジト目で睨んでいた。
* * * * *
『結局、魔石は全部金庫に戻しちまったな』
「もう、いいですわ。心臓が止まるかと思いましたもの」
『そうか。まあとりあえずご主人の能力は確認できたからいいけど』
グリモと契約してからは、フィロフィーは寝る前に布団に潜り込んでグリモと会話をするのが習慣になっている。ベッドサイドのウサギ人形の、その隣がグリモは定位置となっていた。
『しかし、まさか魔石を吸収できるだけじゃなくて、魔力を魔石に戻す事もできるとはなぁ』
「はぁ」
『しかも途中で魔石が液体になってたし。ありゃもう魔石じゃなくて魔液かな?』
「えぇ」
『ご主人の力を使えば、古代文明にも生み出せなかったような強力な魔道具も作れるかもな』
「そうですか」
『……つれないなぁご主人』
「結局魔法は使えませんでしたもの」
グリモから視線を逸らしつつ、フィロフィーはそう吐き捨てた。
『ご主人の魔石生成能力は魔法よりよっぽど凄いんだがなぁ』
「魔法が使えないと意味ないですわ」
『それは……ただの練習不足かもしれないだろ?』
「魔導書も相変わらず無反応でしたのに?」
『…………ま、魔導書は所詮魔導書だって。狐の魔力でだけ使える魔法があるかもしれないだろう?』
「本の悪魔がそれを言いますの?」
フィロフィーは魔石いじりの途中で魔導書の存在を思いだし、風の魔導書やグリモの魔法伝授を試してみたものの、以前と変わらず一切反応しなかった。
『うーん、ご主人の能力をどこかの研究機関に話して魔力の研究を手伝ってもらう……のは駄目だな。この前の魔導士の言ってた通り、魔力じゃなくてご主人が研究材料にされるだろうから』
「それは絶対嫌ですわ」
『だよなぁ。しかし魔石が駄目なら、やっぱりMPポーションの為にスライム探しをするのが現実的か。スライムの魔力ならご主人でも魔法が使えるのかもしれないし』
「そう言えばグリちゃん、他の魔物からはMPポーションは作れませんの?」
フィロフィーはグリモに尋ねるが、その目は既にまどろみ始めている。
『そいつはたぶん無理だな。魔物は食料にできないって知ってるか?』
「それは知ってますわ。大量に食べると死んじゃうんでしたわよね」
『じゃ、その理由は?』
「…………」
フィロフィーは眠くてあまり働いていない頭で考えるが、答えは出ない。
魔物の血肉は少し齧る程度でも気持ち悪くなり、大量に食べると苦しみのたうち回って死んでしまう。その事は事実として知っているのだが、その理由までは知らなかった。
フィロフィーがたまたま知らないのではなく、その理由が解明されていなかったのだ。
現代では。
『魔物を食べると人間の持つマナンプ因子に障害が発生して、魔力生成が暴走するんだよ』
「ま、まな?」
『マナンプ因子、生き物が持ってる周囲の魔素を魔力に変換する能力の事で、ご主人に足りない物の正体だな。この時代になんて呼ばれてんのかは知らん』
「はあ、たぶん名前はついてないですわね」
それは魔導士アムバロがフィロフィーの検査をした時、既に指摘されていたものだった。古代ではそれに名前が付いていたそうだが、それを聞いて特別驚く事はない。
『ちなみに、魔力をしっかりと抜いた魔物の肉なら別に食べても平気だぞ』
「ふぇ? そうなんですの?」
『毒がなければ、だけどな。
ただし魔力を抜くのも大変でなぁ。大量のエーテル触媒に漬け込んでかき混ぜ続けたり、防腐処理して年単位で保存する必要があるから、古代でもよっぽど美味い魔物でなきゃやってなかったな。金持ちが道楽でやってるくらいだったよ』
エーテルというのは魔力を抽出するための溶媒で、現代でも魔導書作りなどで使用されている液体なのだが、これもまたいい値段がするので試す気にはなれない。
「それがスライムと関係あるんですの?」
『ん、話がそれたな。スライムのもつ魔力は何故か、人間が取り込んでも暴走しないんだとよ』
「なら、スライムは食べれるんですね」
『いや、スライムの体は強酸性だからそのまま食べる事はできないな。
スライムからどうやってMPポーションに加工するのかは公表されてなかったんだけど、まあ見つけ出してくれれば俺が意地でも造ってやるさ』
グリモは自身満々に答えるが、アルカリで中和すれば何とかなるだろうとくらいしか思いついていない。
「なるほど。……といいますか、魔物の肉には魔力がこもってますのね」
『そりゃそうだろ、魔物なんだし』
「それが人間の魔力を生み出す力と相容れないから食べれないと」
『ああ』
「はぁ。そもそも魔力の作れないわたくしには関係のない話ですわね」
『そうだな』
そこまで話して、ついにフィロフィーは眠気の限界に達した。
灯りを吹き消し、仰向けになって目を閉じた。
* * * * *
「…………え?」
『…………ん?』
沈黙のあと、フィロフィーは布団を蹴り上げて飛び起きた。
二人は気付いてしまった。
フィロフィーにマナンプ因子がないということは、即ち暴走とも無縁であると。
「食べられますわ!?」
『食べられるのか!?』
フィロフィーとグリモの驚愕の叫び声は同時に発せられたのだった。