第四十話 さよならケニー様 ②
「この通りだ、どうか島に戻っては貰えないだろうか?」
「おお、領主様が!」
「領主様が私達に頭を下げてくださるなんて……」
膝を折り、頭を下げたトラーキの姿に、長老だけでなく海中にいたすべてのメロウ達に衝撃が走った。
領主が平民に――それも友好種とはいえ魔物に対し頭を下げる姿など、滅多に見られるものではないからだ。
『なんだこれ? そりゃ誰だってこの状況なら手をついて謝るだろ?』
『そうっすね。スミルス様なら土下座を通り越して五体投地したうえで、領民にぐしぐし踏まれてますよ』
『ケニー、その貴族観は危ういから捨てなさい。タイア様も』
――ごく一部の領地を除いて。
「……領主様の誠意、しかと受け取りました。正直な所、我々メロウとしてもやっと手に入れた安住の地を、このようにして出て行かなければならないのは本当に辛いと思っていたところですじゃ」
「では、島に戻ってくれるか!」
「いえ、戻りたいのは山々ですが、我々メロウの安全を保障していただきとうございます。つきましてはどうか、代官など立てずにトラーキ様に直接管理していただきたい」
「それは……」
トラーキは、すぐに答えずに口ごもる。
サラム領はキイエロ王国でも屈指の面積を誇る大領地である。単純な面積だけならば実はセイレン領の方がやや広かったりもするが、領土の一割も利用できていないセイレン領と、平野の多いサラム領ではわけが違う。街の数も桁違いに多く、代官を各地にたてねばとても成り立たない。
特にサラム領の主都は西の王都リスティに近い場所にあるために、コジュン島はサラム領の主都からもっとも離れた領地になっている。
ダゼンなど、そんなサラム家がたてた代官の一人にすぎなかった。
「申し訳ないが、私が直接この地を治めるのは厳しい。メロウの中から代官を立てるのではどうか?」
「なんと!」
「父上、それはいささか無茶ではないか? あくまでも、コジュン島の住人はメロウより人間の方が数が多いのだぞ? ワルワレの管理だってある」
「無茶は承知の上だ。それでもメロウがいなければここは回らん。ワルワレだってただの港町となり、経済規模は格段に小さくなる」
コジュン島とワルワレ港――観光地として名の売れたこの二つの地はサラム家にとってドル箱に等しく、それはメロウがいて成り立っている。豊富な水産資源もあるにはあるが、ワカメの養殖程度ではメロウの観光産業の穴を埋めることなど到底できない。
メロウがどれだけサラム家にとって重要な存在なのかは、こうして領主自ら話し合いにやって来た事がよく表している。トラーキは初めから、メロウとの交渉で多少の無茶は通す覚悟で挑んでいるのだろう。
しかし、この話を辞退したのはメロウの方だった。
「トラーキ様のお気持ちには感謝しかありませんが、しかし海から離れられぬ我々には、やはり代官は務まりませぬよ」
「そうか、ならば……」
『なーんか、話がこじれてきたっすねぇ』
『サラム大卿はまともそうだし、これあたし達もう要らないんじゃないか? こっからワルワレまで浮遊魔法で飛べないかな?』
『二人とも、絶対に口を挟んじゃ駄目だからね。フィロフィーちゃんもよ』
今更だが、この念話での会話はフィロフィーにも発信はしている。念話の使えないフィロフィーには会話に混ざって発言する事は叶わないが、アキに向かって小さく頷いてみせた。
『ところで、ここでだいぶ足止めくっちゃってますけど、戴冠式には間に合うんすか?』
『少しぎりぎりだけど、間に合うわよ。そもそもここにいるサラム大卿だって参加するんだから間に合わないわけないでしょう?』
『あ、でもスミルスには一ヶ月前に王都で落ち合う約束だったな』
『それは……私とケニーとタイア様が交代で馬車に浮遊魔法かけて、馬に疾走させてギリギリってところかしらね。できれば一度、自分の店に戻りたかったけど』
『僕もさっさとセイレン領に戻りたいっすよ。というか先に戻ってていいですよね?』
『ん? 先に回復魔法探しだろ?』
『あ、忘れてました』
『あなたねぇ、自分の怪我でしょうに』
『ひとまず歩けるようにはなってますからね。この調子なら、ここでお留守番してなくても大丈夫ですよね?』
『ま、それもそうね。まさかここに、こんな長居させられるとは思ってなかったもの。
でもヒドラの生息地は確か王都より南だから、戴冠式が終わったらそのまま向かった方がいいわ』
『てことは、セイレン領に帰るのはもうしばらくお預けだな。フィーもそれでいいか?
……って、どうしたんだフィー、そんな顔して』
「では、どうかねケニー君」
「え?」
突如トラーキに話しかけられ、ケニーは呆けた。
アキとタイアも訳がわからず首を捻る。三人は雑談に興じ過ぎていた。
参加できなかったフィロフィーだけがメロウとサラム家の話し合いも聞いていたので、説明臭い方法で助け船を出す。
……こめかみを押さえ、難しい顔をしながら。
「サラム大卿、恐れながらケニーさんはセイレン領の兵士ですから、まずはわたくしのお父様の許可を得て頂かないと困りますわ。そもそも今日までただの兵士でしたのに、急にコジュン島で代官になれだなんて無茶なのでは?」
「きゃう!?」
「きゃう?」
「…………」
タイアが狐の鳴き声のような声で驚いて、その奇妙な声にハーフルが眉をひそめる。
当のケニーは石化した。
「ふむ、ではフィロフィー殿、あなたをセイレン家の代理人として交渉させていただきたい。ケニー殿を譲ってはいただけないだろうか? 借りは必ず返すと約束しよう」
「そ、そう、ですわね……少しだけ考えさせて下さい」
フィロフィーは自分の髪を引っ張る謎の考え中のポーズを取りながら、ケニーの方へチラチラと視線を向ける。ケニー自身がどうしたいのか、念話でフィロフィーに話しかけてくるのを待っているのだろう。
ケニーは自分の置かれた状況をようやく理解し……そして全身から嫌な汗が噴き出すのを感じながら、必死に頭を働かせ始めた。
ケニーも馬鹿ではない。ここでリスクも碌に考えず、出世を喜び二つ返事でOKしたりはしない。
ケニーの脳裏に浮かぶのは、一人の貴族の苦労と苦悩に満ち溢れた日々。
いつの間にかメロウ達には熱っぽい視線を送られているが、コジュン島とワルワレの領民の大半はメロウではなく人間だそうだ。別領地の田舎から来た一兵卒がちょっとした幸運で代官に収まって、なんの反感もなく受け入れて貰えるはずがない。
そして領民に受け入れられない事がどれほど大変か、自分にわからないはずがない。
何しろスミルスが赴任して来た当初、自分ほどスミルスを嫌っていた人間はいないのだから。
もちろん先代領主、首切りセイレンの残した領民感情の悪さに比べれば、妬みからくる反感程度はユキウサギの糞みたいなものだろう。
けれどそれを受け止める自分もまた、スミルスほど優秀なわけではない。
読み書きと四則演算、国の歴史くらいはセルフィーやソフィアに習っているが、剣も魔法も出会った頃のスミルスやセルフィーには遠く及ばず、大傭兵団の副団長を務めた経験もない。せいぜいスミルスの仕事を横でボーっと眺めていたくらいだ。
セルフィーの様な有能な伴侶もいなければ、タイアという権威の象徴もない。こんなセイレン領から遠い地の代官を任されたって、不測の事態に対応できるコネもなければアテもない。
下手をすればスミルスよりも苦労するだろうか? さすがにそれはないと思うが、やはり御免被りたい。
それに今は貧乏で借金まみれなセイレン領の状況も、フィロフィーの作る魔石ですぐに改善される。そしてお金さえあれば、開発するべき場所などいくらでもあるのがセイレン領だ。
その好景気を目前に、スミルスの弟子で腹心みたいな事をしてきた自分がどうしてサラム領に引っ越さなければならないのか。
何よりこの地の代官としてサラム大卿にゴマをするより、スミルスと馬鹿話をして笑い合える方がはるかにいい。威圧的で軽口の一つも言わせてくれない上司などまっぴら御免だ。
そんなのはひねくれ者の建前で。
結局の所、ケニーはまだセイレン家の面々と一緒にいたいと思った。
セイレン領こそがケニーの故郷で、極寒の地でも暖かい。
「――フィロフィー様、自分の口で言わせて下さい」
ケニーは上体をあげ、トラーキの顔を見つめて口を開く。
「サラム大卿、恐れながら辞退させて下さい」
「ほう、何故だ」
「僕……私は一兵士にすぎません。代官を務めるだけの学があるわけでも、武勇に優れているというわけでもありません。ましてサラム領の出身ですらなく、この様な未熟者が代官に収まってしまっては、領民達の反感はたいそう強い事でしょう。それに私はフィロフィー様とタイア様の護衛任務の最中、いくら足を怪我したとはいえこれを途中で放棄するわけにはいきません。
何よりセイレン領の経営は今が一番辛い時、この任務が終わっても、私はこれまでの恩義に報いるため故郷セイレン領でスミルス様をお支えしたいのです」
ケニーは自分の考えをオブラートに包んだ後でデコレーションし、そして一息にまくしたてる。
対するトラーキは目を細める。
ケニーは彼を怒らせたかと思って冷や汗をかいたが、トラーキは続いて口角を上げてにやりと笑った。
「素晴らしい。やはり君には代官をやってもらわねばならないな」
「……は?」
ケニーは大きなミスをしていた。
感情が高ぶったあまりに今の答弁には、自分の最大の武器である情けなさが、かけらも含まれていなかったのだ。
「くっくっく、ケニーだったな、実に見事だ! もしお前が二つ返事で代官をやりたがる様な愚か者ならば、父上は絶対に代官になど任せなかっただろうな」
「いやあの、ハーフル様? 私は……」
「謙遜するなケニー! 俺達は貴様の英知も武勇も、既に報告書で知っているのだ。高い剣術の腕を持ちながら相手を油断させるように戦い、そして浮遊魔法を使えるほどの魔法使いなのだろう? ダゼンの悪事に気付いたのも、メロウを最後まで護りきったのも貴様だと聞いている」
「え? ……え?」
「そして自分が代官になった場合のトラブルが瞬時に想定でき、主君であるセイレン卿への忠義にとてもあつい。何より恐れることなく我が父の目を見て言ってのけたその度胸、実に見事!」
ハーフルはケニーを不気味な笑顔で見やり、納得した様にうんうんと二つ頷く。どうやら息子のハーフルにも気に入られてしまったらしい。
ついていけない展開に、ケニーの脳裏に先ほどのアキの忠告がよぎる。
――ケニー、その貴族観は危ういから捨てなさい。
『ああ……危ういって、こういう事だったんすねぇアキさん』
『おだまり……下さい、ケニー様』
『あんまりだ!』
アキはアキで、どうしていいのかわからないこの状況にかなり戸惑っていた。
ケニーにしてみれば平民上がりの領主の苦労を身近に知っていて、フィロフィーの特殊能力を知っていて、自分の所の領主とは普段から臆する必要もなく会話していただけである。
ちゃんと明確に断ったはずなのに、話は何故かのっぴきならない方へと進んでいく。
「フィロフィー殿、すまないがメロウ達との和解のために、どうしても彼の力が必要なのだ。譲ってくれるな?」
「いえ、ですがケニーさんは……」
「ああ、そうか。彼を譲ってくれれば、サラム家はセイレン家の復興に大々的に手を貸そう。そうすればケニーも、我が領地で働きつつセイレン領へも貢献している事になるからな。彼のセイレン家への忠義に反する事もなくなる。
――それでよいな?」
トラーキは最後の一言に凄みを利かせる。
キイエロ王国では全ての領主の間に上下関係はないとされているが、実際は三大領主と呼ばれるサラム家と貧乏領主セイレン家の間には、比べるのも馬鹿馬鹿しいほどの力の差が存在する。
トラーキはケニーの身柄について、先程のフィロフィーへ問いかけるような態度から、完全な命令へと態度を変えた。一兵士の身柄のやり取りに、貧乏領主の許可を貰う必要など感じないというのが本音だろう。
本当は、フィロフィーの秘密を知り強力な魔法を操るケニーの価値は、とても一兵士ではないとしても。
「……わかりましたわ」
そして子供のふりをして駄々を捏ねるには、フィロフィーは少し賢すぎた。
苦虫を噛み潰したくらいでは顔色一つ変えないフィロフィーが、その表情を歪ませている。
「ちょっと待ったぁ!?」
「どうされましたか、タイア様?」
「どうされましたか、じゃないぞ!? ケニーがいなくなるのは、その、あたしも困る!」
『タイア様……』
あとはこの状況で異を唱えられるのはタイアくらいしかいないだろう。
ケニーは一縷の望みを託した目でタイアを見つめる。
「ほう、困るとは、どのようにですか?」
「それはえっと、ほら、ケニーがいなきゃ誰があたしの訓練に付き合ってくれるんだ!」
「訓練、ですか?」
「そうだ、訓練だよ! それにこれから王都に行くのにケニーがいないと……」
「……なるほど、お話は分かりました。しかし王女が訓練を気にされるとは、やはりあなたはあのお二方の娘であらせられる様ですね」
「ん? ま、まあな!」
タイアが小さく胸を張って誇る。
自分の両親についての記憶はないが、まあ傭兵だったり盗賊だったり、貴族とは思えない人間だという事だけは知っている。
「それでは後日、私が責任をもってタイア様にふさわしい師と学び場を御用意いたしましょう。そうだ、戴冠式には私も参加しますので、王都へは私達と共に向かいましょう。我が領地の屈強な兵士達がタイア様を全力で護衛いたします」
「え?」
「ただの護衛とはいえ、旅の連れと離れるのは寂しいかとは思いますが……どうかケニーの新しい門出を祝ってあげては貰えませぬか?
人間は誰しも出会いの数だけ別れを経験することになります。物語の様に出会い続けるだけというわけにはいきません。であれば、どの様に別れるかも大切なのです」
しかしタイアが列挙した理由は簡単につぶされる。
トラーキの口車に乗せられて、タイアはだんだんと自分が我が侭を言っているだけのような気分になり、「本当はやりたいの?」という顔でケニーの顔を見る。
しかし念話があるので、何も目と目で会話する必要はない。
『いやいやいやいや、嫌ですから! 帰りたいですからセイレン領!』
『だ、だよな。でももう理由がなぁ』
『何言ってるんすか、こんな時こそいつもみたいに他人の迷惑考えずに突っ込んでくださいよ! ……あ』
ケニーの失言に、タイアは優しい微笑みで返す。
「ケニー、今まで迷惑をかけて悪かったな」
「いいいいえ、そんな、迷惑だなんてとんでもない!」
「そうだよな、考えてみれば代官なんて大出世だもんな。あたしも祝福するぞ」
そう言って、タイアはケニーの肩を叩いた。
「ふ、どうやら話はまとまった様だな」
「あはは、ケニーさん代官就任おめでとうございます!」
「これからよろしく頼みますぞ、ケニー殿、いえ代官様」
「ケニー様!」
「トラーキ様! ケニー様! 万歳!」
外野の歓声と暖かい笑顔に囲まれて。
「ヨロシク、オネガイシマス」
コジュン島とワルワレ港を統括する新しい代官、ケニーが誕生したのだった。
――死んだ魚のような目で、大海原を眺めながら。
* * * * *
「んな、馬鹿な!?」
「まったくですわ! あそこでタイア様が怒って嫌がらせをするから!」
「だって、だってケニーが酷い事言うから!」
「事実でしょうに!」
「フィーが言うな!」
スミルス、フィロフィー、タイア。
家族三人が久しぶりに顔を合わせたのは、サラム家がセイレン家御一行のために借りてくれた高級宿の一室である。
タイアを人間に戻すという目的を達成し、半年ぶりに再会を果たしたその家族の間には、感動の涙どころか血が流れようとしていた。
「ぎゃうぅ! だいたいフィーだって、サラム大卿にすごまれてコクコク頷いてたじゃんか!」
「わ、わたくしがサラム大卿にあれ以上言い返せるわけないではないですか! わたくしが王女なら絶対に引きませんでしたわ!」
「あー、二人共もういいから。――これはあれだ、全部ケニーを連れて行ったアキが悪い」
久方ぶりのキャットファイトだかフォックスファイトだかに発展しそうな娘達にあてられて少し冷静になったスミルスは、フィロフィーとタイアの頭を掴んで引きはがす。
スミルスは先程トラーキから事のいきさつを聞かされ、ここでタイアとフィロフィーの別視点での捕捉を聞き、もうどうしようもないのだと悟るとがっくりとうなだれた。
スミルスはケニーとの思い出を振り返る。
遡ること十年前、セイレン領の領主に着任したスミルスに対し、最も激しい憎悪を見せた二人の領民、それがケニーとソフィアだった。
首切りセイレンと呼ばれた前領主に家族を殺されたケニー少年は、たびたびスミルスに襲い掛かり――スミルスはそれをあっさりと返り討ちにする。
しかし妻のセルフィーが何故かケニーをいたく気に入り、スミルスは悔し涙を流す彼に木剣を渡して素振りをさせた。その後もケニーが襲い掛かってくるたびに返り討ちにしては稽古をつけ……気がつけば彼はスミルス達の愛弟子になっていた。皆で学問も教え、スミルスの傍に置いて仕事を見せ――スミルスはセルフィーに人を見る目があった事を痛感する。
いっそフィロフィーの婿にしてしまおうかとも話していたのに、彼女の墓になんと報告すればいいのだろうか。
そのあたりの事情はアキにだけは話した事があり、だからこそアキはケニーを連れて行ったのだろう。
きっとケニーに世界を見せておこうと考えてくれたのだ。
……そしてうっかりサラム大卿に取られてしまい、スミルスを避けて自分の店へと逃げたのだ。
おそらく当分の間はセイレン領にも顔を出すまい。
「はぁ、くそ。……ケニー一人分は高くつくからな。搾り取ってやるぞサラム大卿め」
今も猛る娘達の頭を掴んだまま、スミルスは天井に向かって毒づいた。
スミルスがケニーに思わぬ形で再会するのは、それから数年後の事になる。