第三十九話 さよならケニー様 ①
王都リスティ。
イトラ大陸の西部に存在するこの街は、海へと続く大河の中流付近に存在している。そこにはキイエロ王家の城があり、街の規模もかなり大きい。
街の最北端の河沿いには王都防衛と治水のための砦が築かれ、そこから伸びる複数の運河が街の中へと水を引く。運河には水車を備えた工場が立ち並び、物資を運ぶ船が行き来する様が確認できる。
近郊には計画的に作られた農村がいくつも点在し、そこから日々送られてくる農作物が王都の台所事情を支えている。
そんな王都リスティの北東部には、政府関連施設が集まったエリアがある。その中の三階建ての大きな屋敷は、普段は各地に散らばる領主達が王都に出向いた時に滞在するための寮だった。
必ずそこに泊まらなければならないわけではない。力のある貴族は南西の街のホテルに泊まり、あるいは街の一等地に別邸を持つ場合もあるのだが――財政的な余裕のないセイレン家が、王都に別邸など持ってはいない。
セイレン領の領主スミルス=セイレンは寮の中で一人、何をするでもなく部屋で娘達の到着を待つ日々を続けていた。
およそ半年前のあの日、フィロフィーに魔力を使い切るまで念話の実験をさせられたスミルスは、夜になるとアキに酒を飲まされて……目を覚ました時には縛られてベッドに転がされていた。
頼みのケニーまで連れていかれ、追いかけようにも足取りがわからない。スミルスは年甲斐もなく涙目になりながらも、フィロフィー達の無事を信じて待つ事しかできなかった。
――すぐに領地に帰れない時は、オリン王女の戴冠式の一ヶ月前に王都で落ち合いましょう。
そんな一人娘の残した伝言を信じて。
「遅過ぎる!」
しかし一向に王都に来ないフィロフィー達に、彼は栗色の髪を掻きむしり、その手でベッドを打ちつつ嘆く。
スミルスは急ぎ仕事を終わらせて、戴冠式の一ヶ月前よりも更に早く王都に到着していたのだが――約束の日はとうに過ぎ、戴冠式まであと二週間に迫っている。
フィロフィーが現れない理由を単に遅れているだけだと信じながらも、どうしてもより悪い方に想像力を働かせてしまう。気晴らしと時間潰しを兼ねて外出したい所だが、タイアの父ロアードに見つかるのが怖くて出るに出れない。
そんな状態でずっと王都で待ちぼうけのスミルスは、ひどく憔悴した顔をしていた。
『タイア様! ケニー! アキ! まだなのか!?』
スミルスは毎日の日課になっている王都全体への念話での呼びかけを行う。王都全体となるとかなりの魔力を消費する上、話しかけた相手が王都の中にいなければ全くの無意味だ。わかっていても一日三回呼びかけて、そのたびに返ってこない返事に肩をがっくりと落とし――
『ん、スミルスか? 遅くなったな』
「おおう!?」
しかしいざ返事が返ってくると、喜ぶよりも先に驚いて変な声を出すスミルスだった。
『タイア様ですか!?』
『ん、やっぱりスミルスだな。今王都に到着したぞ』
『ご無事で何よりです。人間には戻れましたか?』
『えーっと、まあ、一応?』
『一応?』
スミルスの問いかけに、タイアは歯切れの悪い返事を返す。
タイアは決して人間に戻れたわけではなく、複数の魔法の重ね掛けで人間の姿を保っているだけだった。かといって狐の姿のままでもないので、戻れなかったと返事をするのも間違っている。
スミルスはタイアの曖昧な返事が引っかかったが、詳しい話は会って直接聞けばいいと考えて、今は最低限の事だけ念話で問いかけることに決めた。
『フィロフィー達もそこにいるのですか?』
『あー、フィーならあたしの目の前にいるけど、アキは王都には来ないで自分の店に帰ったよ。お店の方が落ち着いたら、報酬を受け取りに来るってさ』
『そうですか。それと、ケニーも連れて行ったと聞きましたが』
『…………』
『タイア様?』
『……落ち着いて聞いてくれ、スミルス』
タイアの言葉に、スミルスは最悪の結果を想像して背筋が凍る。
刹那、十年前から手ほどきをしてきた情けない愛弟子の、少年時代の笑顔が脳裏に浮かんだ。血の気が引いていくのを感じるも、元傭兵で少なからず仲間の死に経験のあるスミルスは、ひとつ深呼吸をしてタイアへ更に問いかける。
『――話してください、タイア様』
『ケニーは、その……』
『はい』
『――――――――』
『………………は?』
しかしタイアの返答は予想を塵になるまで粉々に砕き、更にスミルスの思考をも停止させた。
* * * * *
話は一ヶ月半程前、フィロフィー達がまだコジュン島の沖に居た頃に遡る。
『皆さん、サラム家からの使者様が参りましたよ、ええ』
カメタロウの念話に、フィロフィー達はその姿を確認しようと小屋の外に飛び出した。
一同にとって、それは待ちに待った交渉人だった。何しろメロウ達の家で足止めを食ったまま、ついに二週間が経っている。
もうとっくに王都に向かわねばいけない時期なのだが、話が大きくなり過ぎたせいで逃げられず――せめてサラム家が直々に送り込んできた交渉人と話をつければ身動きも取れるだろうと考えて、その到着をただひたすら待っていたのだ。
ようやく現れた交渉人を出迎えようと全員が小屋から出てきたが……昔と違うのはタイアが人間の姿をしている事と、ケニーが杖を突いている事だろう。ケニーはやや足を引きずりつつも、ひとまず歩ける程度には回復していた。
「やっと来たわね…………って、まさか!?」
「ん? アキの知り合いか?」
「知り合いというか、一方的に知っているんだけど……あれ、サラム領の領主のトラーキ=サラム大卿本人よ。隣にいるのは次男で『大魔法使い』のハーフル様ね」
「うえっ!?」
こちらに向かってくる小舟には三人の男が乗っていた。一人は小舟の舵を取っているワルワレ漁業組合の会長兼ロミットの父親なので、他のメンバーにも見覚えがある。その他に二人、いかにも貴族といった身なりのラメ入りの服を着た男達が、船に座ってこちらの様子を伺っている。
それぞれ少し白髪の交じった中年と長い黒髪を束ねた青年で、サラム領の領主トラーキ=サラムと、その次男のハーフル=サラムだった。よく似た三白眼の顔が、二人に血縁関係がある事を示している。
「へー、あれがサラム大卿ですかー」
「いえロミット、なんであなたが知らないのよ……」
いくら代官を複数立てるほどの大領主でも、たまに視察くらいはしているだろう。特にワルワレの港とコジュン島は観光地なのだから、休暇に遊びに来ていてもおかしくない。
一般市民ならばともかく、港の職員で会長の娘であるロミットが顔も知らないのには違和感がある。
「いやー、なんかサラム大卿が来るときは、いつもお父さんにお前は引っ込んでろって追いやられてたので」
「……そう」
アキは聞きたくもなかった情報を手に入れた。
「それにしても、あれが噂のハーフル様ですかぁ。ちょっと目が釣り合がってて怖いけど、中々のイケメンですねー、おーい!」
「ロミット、跪いてなさい」
「ぁ痛っ」
アキは小舟に向かって手を振り始めたロミットの頭を叩く。海の向こうでは自分に手を振ったのだろうと勘違いしたカメタロウが、前足を振り返していた。
アキはこめかみを押さえて考える。小舟の上の会長は、今のでさぞかし肝を冷やしたことだろう。今からでもロミットを小屋に押し込んだ方がいいかもしれない。……いや、もう遅いか。
そうしてロミットがはしゃぐ一方で、メロウ達は『大魔法使い』の登場に不安そうにざわめいていたが――アキがそれを落ち着かせた。
確かにハーフルは王国からその称号を与えられる程の魔法の使い手ではあるが、それでもこの海の上ではメロウの方が有利であり、争うつもりはないはずだ。彼はあくまで父親の護衛なのだろうと説明する。
アキはそこから素早く指示を出し……最終的にはタイアとフィロフィーが前に立ち、アキとケニーとロミット、それにメロウの長老が二人の一歩後ろで膝をついて小舟の到着を待った。他のメロウ達は水中に待機させる。
そうして迎え入れる準備を終えた浮島に、カメタロウと小舟が到着した。
会長とサラム親子が上陸するが、カメタロウは水中からは出てこなかった。
「おいおい専門家先生よ、わかってるのか? こちらにいるのは領主のトラーキ様と、その次男のハーフル様だぞ?」
跪く様子のないタイアとフィロフィーの二人を見て、会長が青い顔で説明をする。
紹介されたハーフルがフンスと鼻を鳴らして胸を張った。
「ん、わかってるぞ。ちなみにあたしはタイア=キイエロだ」
「なっ!?」
ハーフルに負けじと小さく胸を張るタイアに、ハーフルと会長が異口同音に驚きの声を上げる。
「サラム大卿、お会いできて光栄ですわ。わたくしはセイレン領領主の娘、フィロフィー=セイレンと申します」
続いて小さくお辞儀をするフィロフィーにはハーフルは僅かに顔を引きつらせるにとどまったが、後ろの会長はかわいそうなほど動揺していた。
何しろフィロフィーがワルワレに居た頃は、ワカメに食あたりを起こしたまぬけな専門家だと思って普通に接していたのだ。
しかし会長にとって恐ろしいのは、やはりフィロフィーよりもタイアの方だろう。このキイエロ王国において、名前の後ろに続くのは単純な血縁を表す姓ではなく、その領地に対して継承権を持っている事も示している。つまりキイエロを名乗るのは王族の、それも本家に近い血筋の者以外にはありえない。
目の前に突如現れた王族に、会長が慌てて跪く。
そんな父親をロミットが頭を上げてニヤニヤと見つめ、すぐに隣のアキによって浮草の大地に沈められた。
トラーキだけは三大領主の貫禄を見せ、無言無表情のままでタイアとフィロフィーを見定めるように見つめている。
「お、お前達、そんな――」
「待て、ハーフル。言われてみれば確かにタイア王女はロアード様やブリジスト様によく似ておられる。それに銀髪緑眼などそうそういるものではないな。
初めまして――ではありませんが、覚えてはいらっしゃらないでしょうから名乗らせていただきましょう。サラム領領主のトラーキ=サラムでございます」
「なっ!? し、失礼しました。サラム家次男、ハーフル=サラムです」
父親がタイアに会釈したのを見て、ハーフルも渋々といった感じでそれに続く。
もちろん二人が頭を下げているのはタイア一人に対してであって、フィロフィーの存在は関係ない。表向きはすべての領主は対等という事になっているが、三大領地と呼ばれるサラム領と首なし領地セイレン領の間には、けして越えることのできない壁がそびえたっている。
しかしそんな事よりも、フィロフィーには今のやり取りに疑問に思うところがあった。
「あの、わたくしの事もご存じなのですか?」
「ああ。タイア様もだが、君にもまだ赤ん坊の頃に会っているからな。
――父君は息災か? よくぞあの地の領主を務めあげているものだ」
「サラム大卿にそう言って頂けるとお父様も喜びますわ。ここ半年は会えてませんが、お父様の事ですからきっと元気にしているでしょう」
『でもフィロフィー様やタイア様と離れ離れになって、今頃やつれてそうっすけどね』
『おだまり、ケニー』
「うむ。それでタイア様が何故ここに?」
「ん、あたしってかフィーが魔物の研究にはまっててな。戴冠式に行くついでに実地調査したいって言いだしたからついてきたんだ。
ここにも海の魔物の調査に来て――まあ色々あって巻き込まれてさ」
「そうでしたか。この度は我が領地の問題に巻き込んでしまった事、陳謝いたします」
タイアは一番大事な部分を大きく端折ったが、上手く説明もできないので仕方ないだろう。
トラーキがタイアの説明に完全に納得したかは謎であったが、彼はそれ以上深く突っ込むことなく頭を下げた。
それからすぐに、値踏みするようにフィロフィーを見つめる。
「しかし、その歳の貴族の娘が魔物の研究に没頭するか。お前に通じるものがあるのではないか、ハーフル?」
「父上、戯れを。俺の魔法に対する情熱は、貴族の暇つぶしの道楽ではない」
「それならわたくしだって、ただの道楽のつもりはありませんわ。心血を注いで研究していますもの」
「ほぅ……フィロフィー、だったか? そこまで言うなら、魔物に関して何か新発見でもあったのか?」
「ええ、それはもう」
フィロフィーとハーフルは、互いに笑みを浮かべたままにらみ合う。
「ちょ、ちょっとフィロフィーちゃん!?」
本来ならばフィロフィーの様な弱小領主の娘が張り合って良い相手ではない。
アキが慌てて制止しようと声をかけ――しかしハーフルは楽しそうにくつくつと笑い始めた。
「なるほど面白い。ならばお前の研究成果とやら、この俺に――」
「ハーフル、それについてはまたの機会にでも聞かせて貰え。
ではタイア様、会ったばかりで申しわけないが、証人として立ち会って頂きたい」
トラーキはハーフルとフィロフィーのやり取りを制しながら脇を抜け、後ろで傅いているメロウの長老の方へと向かう。
彼は不安げに見上げる長老の前に立ち――しかし長老に話しかける前に、僅かに首を動かしてケニーの事を見つめた。
『……あれ、なんかすごく見られてる気がするんですけど』
『打ち首が嫌なら頭下げときなさい』
ケニーが慌てて下を向くと、トラーキは再び長老の方へと視線を移した。
そして自分も浮島に膝をついて、長老に目線を合わせる。
「この度の事、君達メロウには本当に申し訳ない事をした。この通りだ」
そのまま動揺している長老に対し、深々と頭を下げたのだった。