第三十七話 タイア王女の七変化
コジュン島から少し離れた沖合の海に、小さな浮島が密集して浮かぶ光景があった。
それはメロウという半人半魚の魔物が住まう集落で、水草でできた浮島一つ一つに小さな家が立っている。そして浮島が海に散らばらないよう、隣接する浮島同士がロープで繋がれ集落の形を維持していた。
浮島の周辺ではメロウ達が四本の長いヒレをなびかせながら海を泳ぎ、魚や貝を獲っている姿が見られる。
普段は浮島の家にはメロウ達しか住んでいないが、今は一軒だけ人間と狐が居候している家がある。
「じゃあじゃあ、タイア様って領主様より偉いの!?」
「うーん、どうかしらね? 表向きはタイア様の方が偉いのだけど。
田舎暮らしで王位継承権も放棄するつもり満々の第六王女と、三大領主サラム大卿だと実質的にはサラム大卿の方が偉いでしょうね」
「おまけに人間じゃなくて狐ですもんねー」
『いや、人間だからな? 絶版魔導書で狐になっちゃっただけで、人間だからな!?』
「ほへー、やっぱり絶版魔導書って怖いんですねー」
救出されたメロウの少女とロミットが、タイアを覗き込むように観察する。
今のタイアは大狐ではなく、元の子狐サイズに戻っている。ずっと大狐の巨体何かと不便だったので、タイアはこの子狐の姿に戻れてホッとしていた。
タイアには何が大狐化の引き金になったのか理解できてはいなかったが、今では大狐と子狐のどちらになるかは自由に選べるようになった。ならば狼化も進化しているのではと思い試してみたが、そちらは相変わらずの貧弱チワワにしかなれなかった。
『二人とも、あんまりじろじろ見ないでくれ』
「申し訳ございません王女様、どうか打ち首だけはご勘弁を!」
「ごかんべんをー」
そう言ってははーっと土下座を決めるロミットと少女に、アキとケニー、それにメロウの母親が顔を見合わせて苦笑する。
なおフィロフィーはこの場に居ない。フィロフィーは別の浮島を借りて魔導書作りに集中している最中である。
メロウには椅子に座る習慣がないので一同は室内の床に座って雑談しているが、ケニーだけは脚の怪我のため、大事を取って急ごしらえの寝床で横になっている。
代官屋敷での戦いから、今日で既に十日が経っていた。
最初はダゼン達が再度何か仕掛けてくるのではないかと気を張っていたが、当然事件は何も起こらず仕舞いに終わった。今ではワルワレからの使者との話し合いを定期的に行い、そしてダゼンが重罪犯として指名手配された事もあり、比較的落ち着いた日々を過ごしている。
今は領主であるサラム家からの使者を待っている所で、重要参考人であるフィロフィー達もここに足止めを食っていた。
そこで問題となったのがタイアの事だ。囚われていたメロウ達にはタイアの変身を見せてしまったし、ロミットとカメタロウも完全に巻き込んでしまった。そして浮島で彼らと共同生活を送るのに隠しておくのは不便でならず、結局開き直って打ち明けてしまったのだった。
ただし打ち明けたのはタイアの事だけで、フィロフィーの能力については秘密のままだが。
「それにしても、いつまでここに居ればいいんですかねぇ。もうオリン王女の戴冠式まであんまり時間ないっすよ」
「ケニー、仮に今日解放されたとしても、貴方はワルワレにで留守番だからね」
「そりゃあ、わかってますけれど」
「すいません、私にもう少し力があれば……」
「いやいやいや!? 回復して貰えただけで十分に助かりましたから! 全然問題ありませんから!」
ケニーの傷は大半が回復魔法で治ったものの、左脚の傷だけはメロウの回復魔法では治しきれないほどに深かった。今は脚が思うように上がらずに、杖なしでは歩くのも難しい。
その事をメロウ達は気に病んでいるのだが、実はケニー本人や仲間達はそれほど悲観してはいない。なにしろ回復魔法の材料となる魔物は既知であり、生息場所もわかっている。あとはフィロフィーが強力な回復魔法の魔導書を作れば完治できるだろうと踏んでいるのだ。
スケジュール的にその魔物を狩りに行くのはどうしても戴冠式の後になってしまうが、幸いケニーは浮遊魔法を覚えている。旅についてくるのは厳しいが、魔力切れにさえ注意して過ごせばそれほど日常生活には困らない。
とそこに、手に海産物を持った別のメロウが訪ねてくる。それはケニーが最初に入り江で出会ったメロウの夫婦で、二人は手に海産物の入った籠を持っている。
「お邪魔するぞ! 新鮮なモケサヘケサが獲れたんだが、貧血に効くしケニーさんにどうかと思って持ってきた」
「ニョロヘンも手に入ったので食べてください。焼いて食べるとおいしいですよ」
「おおお、二人共ありがとうございます!」
ケニーは溶ける様な笑みでそれらを受け取る。
こうしてメロウ達が海の幸をケニーに持ってくるのは今日に始まった事ではなく。
いまだかつてない程にちやほやされて、浮かれてニヤつくケニーだった。
――あとで手痛いしっぺ返しを食らうとも知らずに。
* * * * *
魔導書を完成させたフィロフィーが顔を出したのは、その日の夕方の事だった。
ちょうどワルワレからの使者が来ているため、今は家の中にタイアとケニーとアキしかいない。ロミットも使者の一人である父親と共に話し合いに参加している。
「タイア様、魔導書が完成しましたわ」
そう言うとフィロフィーは紙の魔導書を二冊、そして木版魔導書が一冊の計三冊をタイアの前に並べて置いた。
『……なぁフィー、なんで三冊あるんだ』
「代官屋敷で手に入った魔石でも魔導書を作ってみましたので」
『それ、泥棒じゃ……』
「ただの戦利品ですわ。さあさあ、まずはこの魔導書からどうぞ。ケニーさんは後ろを向いててくださいませ」
そう言って、フィロフィーは右端の紙の魔導書をタイアに勧める。
まあ戦利品と言えば戦利品、この位の迷惑料は貰っても良いだろう――と自分に言い聞かせ、タイアはやや躊躇いながらも魔導書を開いた。
これで共犯――と思いきや、その魔導書を開いてもうんともすんとも反応しない。
まるでフィロフィーが開いた時のように、魔導書はまったく反応を示さなかった。
『何も起こらないな』
「見ても平気っすか? 珍しいっすね、フィロフィー様が魔導書を作り間違えるなんて」
「……なるほど、反応なしですのね」
『え?』
「いえ、なんでも。まあ、これはなんの魔石かもはっきりしなかったものですので。
次はいよいよ、メロウの魔石で作った魔導書ですわ!」
フィロフィーは真ん中の木板魔導書をタイアの前に差し出すと、起動しなかった魔導書をそそくさと回収した。そんなフィロフィーの様子にどことなく違和感を覚えたタイアだが、フィロフィーの奇行にいちいち突っ込んでいては日が暮れる。
それより今は、目の前の人魚の魔導書の方が大事である。
半年前に旅に出た時から、人間に戻れる可能性が高いとして期待していた魔導書だった。
しかも今回はネコマタの時とは違い、メロウ達の魔石を大量に譲って貰えたので板に溝を彫って作る木板魔導書を作成している。
命がけでダゼン達と戦い、ケニーが大怪我を負いながらもメロウ達を救出し。そうやって苦労して手に入れたこの魔導書に、過度な期待をするなというのは難しい。
はたして人間になるのかエルフになるのか。
あるいは魚になるかもしれないし、ただの水魔法かもしれない。
周囲の人間が固唾を飲んで見守る中、タイアは意を決してその魔導書を開いた。
今度は魔導書はちゃんと起動し、中から飛び出したルーンがタイアの体へと吸収されていく。
全てのルーンの吸収後、タイアの体が変化を始めた。
「おおっ!?」
「はいはい、ケニーは目を閉じる!」
アキに促され、ケニーは後ろを向いて目を閉じる。人間に戻れた時にはタイアが素っ裸になるための配慮で、魔導書を読む時はいつもそうしている。
――が、ケニーも今回はいつも以上に期待が高まる。タイアの体が変化を始めたところまでは見ていたので、少なくともセイレーンやウオビトの時とは違い、確実に変身魔法だろう。
ケニーは心臓が高鳴るのを感じながら、声がかけられるのをじっと待つ。
――静寂。
いつもなら失敗した時にはタイアが鳴き、アキから目を開けてよいと声がかかるのだが、今回はタイアの鳴き声すら聞こえない。浮島に波のぶつかるチャプチャプとした音だけが、ケニーの耳に届いている。
ついさっきまでは心地良かったその音が、今はケニーの不安を掻き立てる。
「あの……見ても大丈夫っすか?」
「えっとぉ……タイア様に上着を着せるからちょっと待って」
ケニーの質問に、アキが煮え切らない感じに返事を返す。
この時点でケニーにも、タイアの今の姿にほとんど予想がついてしまった。
メロウの魔石で作った魔導書を使い、上着が必要で、されど喜びきれない姿となればひとつしかない。
「ケニー、もう見ていいけれど……心の準備はしておいてね……」
アキの呼びかけに、ケニーは半ば諦めながら振り向き――絶句する。
そこに居たのは人間でもエルフでもなく。
そして人魚でもなかった。
その姿はケニーの予想通り上半身が人間で。
しかしケニーの予想に反して下半身は大狐だった。
姿としては御伽噺のケンタウロスに近いだろう。人間の腹より上と、大狐の首より下が繋がったような体躯をしている。いったいどういう理屈になっているのか、腹から上の人間部分には人間の腕があり、それとは別に狐の前足が存在している。
ケニーは人魚を予想していたが、魚っぽさはほとんどなく――唯一タイアの目だけが死んだ魚のように見えた。
「ははは……笑えよ、ケニー」
「…………」
半年ぶりに聞くタイアの肉声は、から笑いと自嘲の言葉を紡ぎだす。
ケニーにはフォローする言葉も出てこない。
(前足と人間の腕が両方ありますわね。どうなっているのでしょうか?)
『あー、そういえばメロウって人間の腕もあるし、魚の胸びれも腹びれも両方あったな』
(ひれですか?)
『ああ、進化論についてはまた暇なときにでも教えるけれど、魚の胸びれって獣の前足にあたるから……』
(成る程、それでこの姿ですか)
その場の誰もが固まっている中、フィロフィーはケンタウロスならぬケンフォックスなタイアの姿を冷静に観察していた。
「では、気をとりなおして最後の魔導書ですわ」
「くぉん!」
仕切り直したフィロフィーに鳴き声で返事をしたタイアの姿は、いつもの子狐の姿だった。
ケンフォックス化すれば肉声で自由に喋る事ができるが――たとえ半分が人間でも、タイアは異形の姿より、動物感のあって愛らしい子狐の姿でいる事を選んだ。
その勇気ある選択を否定する者は誰もいない。
「ちなみにこれはあの魔封じの魔方陣の起動に使われていたものですが……」
『ん、どうした?』
「……まあ、とにかく読んでみてくださいませ」
そう言って最後の魔導書を差し出すフィロフィーは、どういうわけか遠い目をして歯切れが悪い。
よくわからないその反応に、他の三人は顔を見合わせる。
まあ、これで都合よく人間に戻れる可能性は低いだろう。タイアはそんな風に考えると、ため息を一つついて魔導書を開く。
今のタイアには正体不明の魔導書を読む事に、もう何の抵抗も無くなっていた。それだけケンフォックス化のインパクトが強かったのだろうが、いい加減タイアの感覚もおかしくなってきている。
「どうですか、タイア様」
『ん、でもこれも変身魔法っぽいな』
「……ソウデスカ。オメデトウゴザイマス」
「きゃう?」
まだ変身してみせてもいないのに、何故かフィロフィーは祝辞を述べると暗い顔でそっぽを向く。その様子に一同は首を捻るが、フィロフィーに説明するつもりはないらしい。
「まあ、可能性があるんなら僕は後ろを向いてますね」
ケニーにが後ろを向いて、タイアが魔法を発動させる。
――そして。
「お、おお、おおおおお!?」
「嘘!? え、なにこれ可愛い!」
ケニーの耳に、タイアの肉声とアキの黄色い悲鳴が聞こえてきた。
「ど、どうしたんすか!?」
「ははははははは! ちょっと待ってろケニー、すぐに服を着るからな! ん、お尻が引っかかるな」
そして許可が下りてケニーが振り向いた時。
そこに居たのはかなり人間に近い姿のタイアだった。
狐人、と表現するのが適切だろう。腕や足のなどの所々に狐っぽい毛皮が残り、耳がやや尖がり気味で毛に覆われていたりするものの、顔つきやシルエットはほとんど人間と変わらない。
お尻には尻尾が残っているらしいが、それは着ているワンピースの中に収まっていてケニーは言われなければわからない。
「やったわねタイア様! これなら、ええ、十分よ!」
「そうっすね! ちょっと残ってる狐っぽさが逆に可愛い気がするっす!」
「ありがとう二人とも! あたしもこれならいける気がしてきた!」
タイアはくるくると回ってポーズを取り、アキとケニーがそれを絶賛する。
その姿はやはり人間ではないものの、一同は十分に満足していた。
「ほら、やっぱりポイズンマッシュマンでしたわ!」
「……へ?」
――フィロフィーが不満を爆発させるまでは。
「その魔導書、材料はポイズンマッシュマンの魔石だったのですわ! だからわたくしはこれで人間に戻れるんじゃないかって言いましたのに! ……お父様達が捨てるから」
浮島の家に、再び静寂が落ちる。
ポイズンマッシュマンは紫色のキノコが人の形をしたような魔物で、セイレン領に居た頃にも一匹捕まえていたのだが、毒があって危ないからと父スミルスが捨ててしまった魔物である。
その特徴から人間に戻れるのではないかと疑っていたフィロフィーは、当時その事で激怒した。何しろグリモから解毒薬の作り方を聞き出すために齧ってみせる事までしていたのだから、怒るのも無理はないだろう。
その時ここにいるフィロフィー以外のメンバー達は、皆そろってスミルスを擁護していたのだが――
「そ、それはスミルスが悪いな」
「そうね、スミルスが悪いわ」
「スミルス様のせいっすね」
今回は三人とも何の躊躇もなく、フィロフィーの怒りの矛先をスミルスへと誘導するのだった。
その後、狐人の姿からさらにネコマタの変化の魔法を使えば、ほぼ一日中人間と変わらぬ姿をとれることが判明した。
ようやく人間に戻れたとはしゃぐタイアに、話し合いから戻ったロミットが「それ、変化の魔法で誤魔化してるだけで結局は狐ですよね?」とツッコミを入れるのは、それから一時間後の事である。
* * * * *
その日の夜、皆が寝静まった後で、フィロフィーはひとり屋外に出て作業をしていた。
彼女のふわりとした長い銀髪が、月の射す光を反射して輝き海風に揺れる。
浮島に座る彼女の右手には、先ほどタイアに何も反応しなかった魔導書が開いた状態で掴まれている。
そこに描かれている魔方陣やルーンを左手の指でゆっくりと丁寧になぞると、魔導書に使われていた魔力がフィロフィーの中に吸収されて、線はなぞった場所から消えていく。
「ところで、グリちゃん」
『……ん』
「グリちゃんは、本当に悪魔ですの?」
フィロフィーは作業する手を休めぬまま、グリモに一言問いかける。
今回、グリモとフィロフィーの間に大きな行き違いがあった。
ただしフィロフィーの行動の根っこは今までと何も変わらない。悪い敵を殺して食べる、ただそれだけの事しかしていない。
仲間の事は全力で助けようと動いたし、被害者であるメロウの事もできる限り助けようとしたはずだ。
にもかかわらず土壇場でグリモと衝突する事になったのは、フィロフィーがグリモの本質を見誤り、説明を省いたのが原因だ。
タイアとケニーが地下室に侵入した事を、グリモが隠そうとするなど予想外だった。
それはもう過ぎた事であり、全員生きていたので良いだろう。仮にケニーの足に障害が残ったとしても、回復魔法には確実なアテがある。
――ただ、腑に落ちない。
古代に世界征服を望んだ悪魔が、どうしてそんな些細な事を気にするのかがわからない。
グリモにとって、フィロフィーはただ自分が復活するための手駒ではないのか? 仮にフィロフィーが平気で仲間を裏切ったり人を殺す様になったとしても、グリモにとってはむしろ好都合なはずなのに。
タイア達はフィロフィーの関係者というだけで、メロウの生命に至っては気にする必要もないだろうに。
フィロフィーには納得がいかない。
グリモは自分と同じだと思っていたのに。
『…………悪魔だよ。紛れもなく悪魔だし、どんな手を使っても復活して、それで俺は世界を征服する』
「そうですか。ならいいです」
フィロフィーは魔力を吸い尽くしたノートをリュックにしまうと、かわりに乾燥肉の入った袋を取り出した。
ずっと湿気の多い海の上にいたせいで、一部にカビが生えてしまっている。
フィロフィーそれ以上食べることを諦めて、袋ごと海に投げ捨てた。
【第一章 あとがき】
ここまで読んでくださった方、いつもありがとうございます。まだまだ第一章が終わったところですが、ひとまずここでお礼を言わせて下さい。
次話は12月3日に投稿再開します。(最初の一話は短いプロローグの様なもののため、その日は2話連投します)
間が空いて申し訳ないのですが「第一章が頂点だった」と言われない様なものを書いていきたいと思いますので、今しばらくお待ちくださいませ。