第三十五話 フィロフィー、回る ③
「素晴らしい、ああ、本当に素晴らしい!」
歓喜に震えるダゼンの眼前に、檻に入れられた数匹の鼠がいた。
その鼠は執事のセデスが用意したものだが、セデスは鼠を届けた後でダゼンによって食堂から追い出されている。執事はダゼンの仲間ではなかった。
――もっとも今のダゼンが仲間と呼ぶべき存在は、フィロフィー一人に絞られている。
その檻の中には元は六匹の灰色の鼠が入っていたが、うち五匹にはフィロフィーが禁薬を投与したため、今は普通の鼠は比較用の一匹しか入っていない。フィロフィーはダゼンを信用させるため、鼠を用いた禁薬の実験を披露した。
五匹の鼠達にリュックの中から取り出した液体を投与すると数十秒で鼠達の体に変化が始まり――鼠は白い靄を放つ二匹と黒い靄を放つ三匹とに二分される。
白い靄を放っていたものは魔獣化に成功した個体で、尻尾や耳の形が少し違う魔鼠となり、今は元気に檻の中を駆けまわっている。
残りの三匹の鼠は体が真っ黒に黒ずんで、初めは非常に活発に動いていたものの、すぐに弱って死んでしまった。
その微妙な成功率を前に、フィロフィーは恨めしそうに鼠の入った檻を睨む。
「うゆぅ、半分以上失敗ですわね。いつもならもっと成功しますのに……」
「十分ではないですかフィロフィー様! ああ、私はこの生き残った鼠達が羨ましい!」
領地に居た頃の実験では八割は成功させていたのだが、鼠の種類の違いからか、今回は成功率が低かった。フィロフィー的には納得のいく結果ではなくダゼンの反発を心配したが、彼を喜ばせるには二匹の成功で十分だったらしい。
それもそのはず、ダゼンはこれまでに様々な自称研究者達を裏で支援してきたが、誰一人としてエルフ化への小さな糸口すら示す事ができなかった。
それこそ全ての鼠が黒ずんでいたとしても、明確な理論と技術を持つフィロフィーをダゼンが責める事などなかっただろう。
ダゼンは恍惚とした表情で白い魔鼠達を眺めながら、フィロフィーに賛辞を呈していた。
フィロフィーはそんなダゼンのチョロさに苦笑しつつ、今度はリュックサックの中身をテーブルの上に広げ始める。
フィロフィーのリュックサックはなんとも子供っぽいピンク色で、側面には片手鍋がひっかけられ、そしてウサギの人形が口から頭を出している。
そのウサギ人形をひっこ抜き椅子の上に置くと、中から魔石や魔導書、そして数種類の禁薬の試薬を取り出してはテーブルの上に並べていく。
見るからに貴重な代物が子供用のリュックから次々と出てくるのを見て、ダゼンは開いた口が塞がらなくなった。そこからフィロフィーわざとらしいまでの子供っぽさはただの偽装なのだと一人納得し、フィロフィーの持ち物に熱っぽい視線を向ける。
もちろんフィロフィーにとって最大の貴重品は母に託された悪魔之書であり、それは母の手製のウサギ人形の中に隠されている。次点で重要なのが製作に時間をかけた何でも溶かせる魔導鍋だろう。
ダゼンが人形や鍋には目もくれずに魔石や魔導書を眺めているのを見て、フィロフィーは自分の二段構えのカモフラージュが成功している事にほくそ笑んだ。
「ダゼン様。これは、お近づきの印に」
フィロフィーはその中の一つ、白い液体が入った小瓶をダゼンに渡す。
「フィロフィー様、もしやこれは先程の!?」
「ええ、鼠に投与した魔……エルフ化の試作品ですわ。先程のものとは少し成分が違いますし、材料もメロウではありませんが」
「おお! おおおおお!」
ダゼンは小瓶を震える手で握りしめ、食い入るように見つめはじめる。
見た目は水で薄めた牛乳の様にしか見えないが、魔石にも似た強い魔力を感じ取っていた。
「これを飲めば、私はエルフになれるのですか!?」
「その通り――と申し上げたいところですが、おそらくこちらの黒い鼠の様になってしまうかと」
「そ、そうですか」
小さく首を振るフィロフィーに、ダゼンはがっくりと肩を落とした。
「この黒くなった子達は肉体の最適化に失敗し、魔力の暴走を起こした結果死んでしまったのですわ。
これは先ほどの講義の続きですが、人間はマナンプ因子を持っているので動物よりも魔力が多いのですが、その代わり魔力の暴走も起こしやすい生き物です。
まあ鼠のようにすぐに死んでしまう事はないので、十数分程度の廃魔人化は楽しめると思います。それで満足でしたら止めませんが」
「い、いえ、遠慮しておきます」
小瓶を残念そうに見つめたダゼンだったが、それでも大事そうにハンカチで包んで懐に入れた。
フィロフィーにしてみれば禁薬などいくらでも増産でき、実験済みの失敗作などそれこそ何の価値もないのだが、そうとは知らないダゼンには家宝のように見えていた。
「それでどうすれば、ここから完全なるエルフ化の薬に辿りつくのでしょうか?」
「こればかりは地道に研究を重ねるしかありませんわ。その試作品を、人間が飲んでも暴走しにくい物へと徐々に近づけていくのです」
「ではやはり、メロウを材料にしてみては?」
「いえ、メロウにこだわってきたダゼン様には申しあげにくいのですが、メロウの魔力が特別人間に馴染みやすいという事はたぶんないかと。
まあ、一応試してはみたいので……そうですわね、もしメロウの魔石を持っていたら、これと交換していただけませんか? 小さなクズ魔石でもかまいませんが」
そう言ってフィロフィーが何気なく取り出した魔石に、ダゼンは思わず喉を鳴らす。
それはかつてスミルスがアキに買い取りを拒否された、純白で球体の、宝石のようなホワイトフォックスの魔石だった。
「こ、これほどの魔石を……いえ、この様なものを頂かずとも、私の財はすべてフィロフィー様の研究に――」
「ああ、ご心配なく。これはわたくしの手作りですので」
「手作り……?」
フィロフィーはダゼンの手に魔石を乗せる。
「これを、魔石を、作れるのですか?」
「エルフ化の禁薬よりは簡単ですわね」
魔石を乗せられたダゼンはしばらく感激に震えていたが、やがてフィロフィーに怯えたような目を向ける。
「本当に、本当に素晴らしいのですが、フィロフィー様がそれほどの力をお持ちならば、私はいったい何を手伝えば良いのでしょうか? 私がフィロフィー様にできる事などあるのですか?」
「それは勿論、鼠でばかり実験しても先へは進めませんので」
「…………」
「何も今の様な犯罪に手を染める必要はありませんわ。ワルワレもコジュンも人の多い所ですし、たまには凶悪な犯罪者も出てきますしょう? そういった方をこちらに寄越していただければ十分ですが」
「……は、はは。ははははははは!」
彼のその笑い声は、覚悟を決めた狂気と役割があった事への安堵で作られていた。
「申し訳ありません。今までは個人で処分を下すのが面倒で、すべて本土に送ってしまっていました。今後は私の元で罪を償わせることができるようにすぐに手配を致しましょう」
「よろしくお願いしますわ。実験の準備にはもう少しかかりますし、のんびりと重罪人だけ何人か確保しておいて貰えれば結構です」
「では、その様に。あとは何を?」
「しばらくは現状維持で結構ですわね。ああ、捕らえているメロウ達は絶対に殺さず、それにできるだけストレスも与えぬ様に接待してあげてください。その方が後々都合がいいので」
「……大変申し訳ございません。実はあのメロウ達は後日、とあるエルフ化の研究をしている魔導士協会の支部に渡す事になっているのです」
『ご主人、緊急事態だ。地下室に忍び込んでたタイアとケニーがさっきのセラップって奴に見つかった』
「……はい?」
フィロフィーの驚きの声に、勘違いしたダゼンが慌てて頭を下げた。
「本当に申し訳ございません。こうしてフィロフィー様に出会った今、あのような愚者達を優先するなど本来ならばあり得ないのですが……この屋敷に張っている魔封じの魔方陣を用意したのは彼らですし、それに先ほど執務室にいたセラップは協会の手先でして。
ここで一方的に縁を切っては報復してくる可能性もあり、差し支えなければ数名のメロウは渡したうえで縁を切ろうかと考えます。メロウが必要でしたら後日改めてご用意いたしましょう」
「えっとぉ……少し、考えますわね」
フィロフィーはすました顔でダゼンに告げると、椅子の上のウサギ人形を抱いてくるりと後ろを向き――
そして今までに見たことのない般若顔をグリモに向けた。
(な、なんでそんな事態に!?)
『地下室で何か異常があると、執務室に伝わるようになってたみたいだな。タイアは何とか逃げたけど、ケニーはメロウを人質に取られて逃げられないってところだ。あのセラップとか言う奴結構強そうだし、魔方陣を解除しないとケニーの奴死ぬんじゃないか?』
(ではなく、いつの間に地下室に忍び込んだのですか!?)
『結構前に、地下室への秘密の出入り口から、かな? 遠すぎてどこにつながってるのかまでは見えないけれど』
(結構前!? どうして言ってくれないんですか!?)
フィロフィーが思わずウサギ人形をきつく締めあげるが、それで中のグリモが痛みやダメージを受けるわけではない。
加えて今回はグリモにも思うところあるらしく、彼は珍しく反論を始めた。
『どうしてって…… そりゃあご主人が思いっきり人の道を踏み外してるからだろ! 何だよさっきの契約は! メロウは食わないってタイア達と約束しただろうが!』
(なっ、誤解ですわ!? メロウを食べるつもりなら料理して持って来いって伝えてます! わたくしはメロウを殺すなと言ったんですわよ!)
『――え?』
(魔導士協会云々さえ無ければ、あとはタイア様達と合流した後で事情を説明してメロウを逃がしてあげれば大団円だったのですわ! 今後ダゼン様がメロウを襲う事もないでしょうし)
『えっと、じゃあ、さっきの契約は?』
(それは今後を見据えてですわ。メロウ達の誘拐はダゼン様とは無関係って事にして、ちょっと魔人化の実験材料を確保しようかと)
『そこはガチじゃねぇか!
……いやまあ確かに重罪人だけ貰って、人魚も助かるならいいのか…………いいのか!?』
(悪魔のくせにそんな細かい所を突っ込まないでくださいませ! えっと、たぶんわたくしとケニーさん達とのつながりはバレてないと思うので……)
フィロフィーがちらりとダゼンを見れば、飼い主に『待て』をされた犬ような顔で指示を待っている。
フィロフィーはその脳をフル回転して対策を考える。
(ここまで洗脳してしまえば、多少の無理は通りますわね。ケニーさんを絶対に殺さず生け捕りにするよう命令を出して……
いやそれだけではケニーさんが暴れて上手くいかないでしょうから、わたくしが行って大人しく捕まるように合図した方が良いですわね。そのまま戻って来るだろうタイア様に合図を出して――
うみゅう、これだともう重罪人は諦めないといけませんが……仕方ないですわね)
『ああ、ちゃんと仲間を助けるんだな』
(……グリちゃんは本当に、わたくしを何だと思ってますの? いいからもう黙っててください)
フィロフィーはこめかみを押さえるが、今はケニーのピンチであり、グリモにかまっている場合ではない。
ケニーは一見すると情けない男に見えるが、それは演技がかなり混じっていて実際には相当強い。そんなケニーが負けそうだとすれば、セラップは相当な達人なのだろう。ならば仲間に引き込んで……
フィロフィーは必死に考えをまとめると、ダゼンに出す指示を出すために振り向いた。
「ダゼン様、突然ですが――」
『あ、待った。ケニーが勝った』
「はい、どうしましたか?」
「あ、えっと、もうちょっと待ってください」
振り向いたフィロフィーはそのまま一回転し、再びダゼンに背を向ける。
ダゼンが不思議そうに首を傾げた。
(……グリちゃん?)
『いやまて、違うんだ、聞いてくれご主人。さっきまで確かにケニーの方が劣勢だったんだよ。全身傷だらけで、へっぴり腰で、防戦一方で。それが急に大逆転してさ、ケニーのくせに』
(……グリちゃんは、ケニーさんを何だと思ってましたの? それがケニーさんの得意技でしょうが)
『知るか!』
グリモは開き直りながら、珍しく動揺しているフィロフィーから人間らしさ感じてほっとしていた。フィロフィーはそんなグリモの生暖かい視線を敏感に感じ取り、さらに苛立ちを増していく。
それでも彼女の思考はぶれない。脳の半分が憤怒に支配されていても、もう半分では冷静沈着を保っていられるのがフィロフィーである。
ケニー勝利からの流れをシミュレートして、今度こそダゼンに指示を出す。
「そうですわね、今捕まえているメロウ達はすべて引き渡しましょう。引き渡しはいつなのですか?」
「明日の予定です」
「二~三日でいいので、ずらせませんか? 引き渡す前に試したい実験がありますので」
「かしこまりました、そのくらいは大丈夫なはずです」
『……ご主人、その、言いづらいんだが、ケニーが油断して大怪我した』
「……………………そ、その前に、今すぐ一度見せて頂きたいのですが」
「今すぐ、ですか?」
「え、ええ。えっと、捕まえたメロウの中に魔石持ちがいたならば、別の実験の準備をしたいですので?」
「わかりました。ですがセラップはどうしましょうか?」
「材料にメロウを使わない以上、別に敵対する必要はないでしょう。こちらのエルフ化研究を手伝わせるのもありでしょうし、わたくしが直接話をつけますわ」
「なるほど、確かにこの鼠達を見せれば黙って頷くしかないでしょう。ご案内いたします」
フィロフィーは先導を始めたダゼンの後ろを歩く。
グリモへの恨みつらみが喉まで上がってきていたが、ケニーの危機的状況の前に、今はこらえて飲み込んだ。グリモには何がわかって何がわからないのか、きちんと確認していなかった自分にも非があると言い聞かせる。
そんな気丈なフィロフィーだったが、ついにこらえきれなくなる瞬間を迎える。
『あ、今度はタイアが狐火抱えて戻って来た』
フィロフィーはこけた。
それはもう盛大につんのめり、一回転して食堂の壁に背中をぶつける。
「だ、大丈夫ですかフィロフィー様!?」
「……ぇわ、もう」
「は?」
「もう! ああ、もう! もう! 全部うちに任せどぎゃあえぇんに!」
『……え?』
「ど、どうされましたかフィロフィー様!?」
驚いて声をかけてくるダゼンに対し、フィロフィーは言いわけを考える必要はなかった。
すぐにズンッと低い音が響き、代官ダゼンの屋敷が揺れたからである。