第三十四話 フィロフィー、回る ②
『地下室にメロウがいるな』
(はい?)
『この代官屋敷の地下室だよ。メロウが六人、地下室の檻に入れられてる。ご丁寧に魔封じの魔方陣まで用意してるぜ』
グリモがそう話しかけてきたのは、フィロフィーとアキとロミットの三人が代官屋敷の門の前に到着した時の事だった。三人を屋敷の中に迎えるために、執事セバスがこちらに向かって歩いてきている。
グリモの目はあまり遠くは見れないものの、近場なら障害物の裏側だって見ることができる。
それは水中や地面に対しても例外ではなく、彼の目は庭の下にある地下室のメロウの姿を捉えていた。
(わたくしとグリちゃんって魔封じの魔方陣の上に乗っても平気ですの? わたくし今、かなりの魔力を体内に蓄えている状態なのですが)
『平気だ。単に魔法の発動を防ぐだけのもんだから、魔力が消えたり体から溢れ出たりはしない。……と言うよりも、既にここは魔封じの魔方陣の効果範囲の中なんだけどな』
予想外に、もしくは予想通りに長くなってしまったこの旅の間、フィロフィーはずっと魔石の出し入れによって魔力体内貯蔵量を増やす訓練は続けていた。
その訓練は身を結び、最初は手のひらサイズの魔石を吸収するだけでも魔力酔いを起こして気持ち悪くなっていたフィロフィーだったが、今ではイワメティエプの頭ぐらいの大きさの魔石を体内に貯蔵している。グリモの見立てではフィロフィーの保有している魔力量は街一つ吹き飛ばせる火球を生み出せるレベルだというが、魔法の使えないフィロフィーには意味のない換算だった。
『俺とご主人の契約にも影響はない。
念話なら魔方陣の内側にいると使えないけど、俺とご主人は既に成立した契約の力で喋ってるから』
(じゃあ、タイア様を魔方陣に乗せても人間には戻りませんわね)
『戻らないな』
フィロフィーはこっそりと、魔石を少しだけ手の中に取り出してみる。
(わたくしの魔石生成も問題なくできますわね)
『だってそれ魔法じゃないし』
(そうですわね……)
グリモの的確なツッコミに、フィロフィーは人知れず肩を落とした。
そのまま執事に屋敷の執務室へと案内される。
そこには代官ダゼンと、その後ろに護衛と思われる皮鎧の男セラップがいた。
『いや、そこの男は代官の護衛じゃなく、この執務室を護ってるんじゃないか? 男の下にさっきの地下室へ続く隠し階段があるぜ? あと、そっちの本棚の裏は魔封じの魔方陣の発動装置のある場所につながってるな』
(なるほど。となるとメロウの誘拐はやはり、代官様の差し金でしょうか?)
『まあ主犯かどうかは知らんけど、無関係って事はまずねぇな。目的は人身売買――ならぬ人魚身売買か?』
(あるいはメロウを食べるとエルフ化できると信じているのかもしれませんわね。エルフ化の研究をしている非合法の魔導士協会などもありますから)
『メロウも災難なこった』
(ですわね。……とりあえず、その辺の手紙などの解析をお願いしますわ)
グリモの目は封筒の中の手紙や閉じてある本も読む事ができる。紙に染み込んだインクの粒子の位置を確認するという、人間ならば投げ出してしまうような精密作業ができるからだ。
精神体であり眠気や注意力低下とは無縁の悪魔之書だからこそできる技術だが、さすがに多少の時間はかかるため、この部屋の全ての本や手紙を一瞬で解析できるわけではない。
グリモは決定的な証拠を探すため、ひとまず机の中に入っていた書きかけの手紙から解析を始めた。
――当たりだった。
『ははっ、いきなりあったぞ。ご主人の言う非合法の魔導士宛ての手紙だな。
内容を要約すると――いつまで待たせるんだ、せめてエルフ化研究の進捗状況くらい教えろってさ』
(それはまた……何とも言えない手紙ですわね)
『まあ、その魔導士がメロウなんて当てにしている時点で、上手くいってはないだろうよ』
その後ダゼンと会話をしたフィロフィーは、彼が魔物の食用化について強い興味を示した事などから自分がここに呼ばれた理由に確信を持つ。
どうもフィロフィーの知識から、少しでもエルフ化に役立つ情報を得たいらしい。
確かに魔人化に関する事ならば、フィロフィー以上に詳しい人間はこの世にいない。その点ではフィロフィーを呼び出したダゼンは、数多の似非専門家の中からたった一人の本物を見つけ出したと言っても過言ではない。
――ただし、フィロフィーがダゼンにとって敵か味方かは別問題である。
(これは――ようやく出会えましたわね)
『ようやく?』
(はい、ダゼン様こそわたくしの探していた本命ですわ。これからダゼン様の気を引くために色々やりますが、途中で止めないでくださいませ)
一方のフィロフィーは、ダゼンとの出会いを何故かとても喜んでいた。
フィロフィーの言う本命とはタイアを人間に戻す本命ではなく、自分が魔導士になるための本命の事を指しているのだろう。それはグリモにも理解できたが、しかしメロウを生贄にエルフ化しようと目論んでいる代官が、どうして本命なのかはわからない。
『……それは大丈夫なのか?』
(時には虎穴に入らないと、わたくしが魔導士になる事も、タイア様を人間に戻す事もできませんわ)
『いいけど、あまり危ない事はするなよ? 今ご主人に死なれると俺まで一緒に死ぬんだからな』
(それはこのまま、わたくしが魔導士になれずに老衰で死んでも一緒でしょう?)
『……わかった。ご主人を信用して完全に任せる』
この言葉をもって、グリモはフィロフィーの暴走を止める最後のチャンスを完全に逃した。
フィロフィーは代官の信頼を得るために、かなり踏み込んだレベルで魔力と魔物に関する講義を行った。その結果、昼食前にはフィロフィーは代官に専門家として一目置かれる事に成功した。
アキが執事に見送られつつ屋敷を出ると、食堂にはフィロフィーとダゼンの二人だけが残り――
それはフィロフィーにとって千載一遇の好機であった。
「それではフィロフィーさん、魔物の肉から魔力を抜く方法について伺いたいのですが」
「教えても良いのですが、この方法を世に広めては、メロウを食べようとして狙う者が増えるのでは? 世間にはまだまだエルフ化の噂が残ってますし」
「それはありえない話ではないでしょうが、しかし私が護り切れば問題ない事ですよ」
「ふふ、ダゼン様も大変ですわね。
――まったく、エルフ化にメロウなんて全く必要ないというのに」
フィロフィーの言葉に、ダゼンの眉が一瞬ピクリと痙攣する。
「フィロフィーさん、それはどういう意味でしょうか? 確かに今までメロウの肉でエルフ化できたという例はないですが、最後のエルフがメロウでエルフ化したと言った事自体は事実のはずです」
「では、ダゼン様はメロウでエルフ化できると信じているのですか?」
「い、いえ、私は別に……」
「まあ確かに、今の言い方は誤解を招くかもしれませんわね。
もちろんメロウを材料にしてもエルフ化の禁薬は作れますが、メロウにこだわる必要がないのです。エルフ化に必要なのは何らかの魔物であって、わざわざ友好種であるメロウを材料にする理由がありませんわ」
そう言ってフィロフィーが紅茶をすすると、ダゼンもつられてカップに口をつける。
二人共口元には笑みを浮かべているが、ダゼンの方は動揺を隠しきれておらず、目が泳いでいる。
「そんな事……まるで、エルフ化の方法を知っているみたいな事を言いますね」
「ええ、知ってますわ、方法を」
その一言で、代官の口元からついに笑みが消えた。
「世の中にはエルフ化の研究者のためにメロウを狙っている方々がいるそうですが、わたくしに言わせればメロウに執着している時点でエルフ化に辿りつく見込みなんてない愚か者ですわね。
――ああ、そう言えば最近、嵐の夜に行方不明になったメロウが何人かいるとか。もしやその様な者達に攫われたのでは?」
「……いえ、それはありませんね。ワルワレでのワカメ事件もありましたから警戒を強化していますが、島の近辺で怪しい船などは見つかってません」
「ではきっと、この島に彼らの協力者がいるのでしょうね。それも怪しい船を怪しくない事にできる人間が」
「はは、まさか」
「メロウは水魔法を使いますから、生け捕りにするなら継続的に睡眠薬を投与するか、あるいは何らかの方法で魔法を封じる必要がありますわね。まだ島の外に連れていかれてないのであれば、最近この島で急に魔法の使えなくなった場所などが怪しいかと」
「…………」
ダゼンは沈黙し、目をすっと細めてフィロフィーを見つめる。その手はテーブルの下で汗を固く握りしめていた。
対するフィロフィーはすまし顔で語り続ける。
「まあ今のはわたくしのただの妄想ですが、本当だったならその協力者さんもかわいそうですわね」
「ほう、かわいそう、ですか」
「ええ。おそらくはエルフ化を切に望んで危ない橋を渡っているのでしょうが、肝心の研究者がメロウにこだわっている時点でポンコツですもの。労力にまるで見合いませんわ」
「なるほど。フィロフィーさんのおっしゃる事が全て本当ならば、そうでしょうね」
ダゼンは身をかがめると、足元に置いてあった自衛用のレイピアを手に取った。
フィロフィーは紅茶を完全に飲み干して、ダゼンに対し首を傾けて微笑みかける。
『おい、ご主人!』
(邪魔しないでくださいませ!)
警告しようとしたグリモを、フィロフィーはすぐに黙らせる。
グリモの気持ちはわからなくもないが、遅すぎた。既に賽は投げられてしまっている。
ダゼンは机の下で、ゆっくりとレイピアを鞘から抜いた。
「そう言えば、この屋敷はどうでしょうか? ダゼン様の身内に裏切者がいないか試してみましょう」
一触即発の状況で、フィロフィーは座ったまま手のひらをダゼンの方にかざす。
そして油断しているダゼンに向かって、魔石を槍の形にして生み出した。
槍の先端がダゼンの鼻を触る。突きさす事はなかったが、彼は驚きのけぞって椅子ごと倒れた。
その手から離れたレイピアが転がっていく。
フィロフィーの生み出した魔石の槍は、複数の種類の魔石をツギハギして作ったため、カラフルなガラス細工の様な見た目だった。
視覚的なインパクトと、それ以上に魔石特有の強烈な魔力放射がダゼンを怯えた子ヤギに変える。
もちろんフィロフィーに槍を振り回す技術などない。魔石の槍などただの脅しにしかならない。
フィロフィーは重たいだけの魔石の槍を、さっさと手の中に吸収した。
「うひゅひゅひゅ、失礼致しました。でもどうやら、この屋敷に裏切者はいない様ですわね」
「なっ……そんな馬鹿な!?」
ダゼンは慌てて立ち上がり、そしてフィロフィーからの距離を取ると火の魔法を撃ちこもうとして手を上げて――しかし当然、魔法は発動する様子を見せない。
「どうかされたのですか、ダゼン様?」
「な、何故だ、どうして……」
「顔色がお悪いですわね。今日の講義はここまでにいたしましょうか」
そう言ってフィロフィーは椅子から立ち上がり、今日一番の満面の笑みで裾をつまんでお辞儀をした。
そしてそのまま悠然と、出口の方へと足を運ぶ。
「ま、待て!」
「まだ、何か?」
振り向いたフィロフィーは笑顔だった。
それは演技の笑みではなく、このまま声をかけられなかったらどうしようかと焦っていた心の内が反映された笑顔だった。
「お前は、本当にエルフ化の方法を知っているのか!?」
「あら、急に酷いですわ。さっきまでわたくしの事を魔物の専門家として敬ってくださってたのに」
「……し、知っておられるのですか?」
「うひゅひゅひゅ、さっきからそう言ってるではないですか。そもそも……」
フィロフィーは笑顔を崩さないまま、できるだけゆっくりとダゼンに近づいていく。
完全にフィロフィーの術中に嵌ったダゼンは金縛りにあったように動けない。
そして十分に近づいた時。
その耳元に小さく囁いた。
「エルフ化の薬なら、このリュックの中にも入っていますもの」
サラム領のコジュン島とワルワレ港の責任者、代官ダゼン。
彼はこの日、悪意に出会った。
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