第三十一話 人魚の島 ⑦
ズンッと言う音と共に、代官屋敷が小さく揺れた。
地下から聞こえたその音は、食堂で話しをしていたフィロフィーとダゼンの耳にも届く。
「……ダゼン様、今の音は一体ナンデショウカ?」
「お待ちくださいフィロフィー様、すぐに確認してきます」
そう言ってダゼンは涼しい顔で退室していったが、地下に何があるのかよく知っている彼は、内心焦っていたに違いない。
執事も給仕もいない広い食堂に、フィロフィー一人が取り残される。
否、フィロフィーは一人ではない。
腕の中のウサギ人形の中には契約者、悪魔之書グリモはいつも通りに押し込められている。
『あ、まずいな。代官のやつ庭にいた私兵を連れて地下に向かいやがった』
(私兵?)
『たぶん、メロウ誘拐の実行犯達じゃないか? ダゼンとセラップが二人だけでメロウを六人も誘拐したって事はねぇだろ』
そしてグリモの目は地下のメロウの入った檻やそこに現れたケニー達の様子を、その視界にずっと捉えている。当然フィロフィーもさっきの爆音の正体がタイアの魔法である事を理解していた。
『このままだと魔法の使えないタイアじゃ手詰まりだな。ケニーもさっさと治療してやらないと、あの怪我じゃあ長くはもたないぞ』
(まったく次から次へと……わかりましたわ。魔封じの魔方陣を解除して、タイア様を援護しましょう)
魔封じの魔方陣を止めてしまえば、タイアが魔法で戦う事ができる。フィロフィーの作った数々の魔導書を読んだタイアなら、一般兵士の二人や三人には負けないはずだ。
『魔方陣を止めるなら、代官達が地下に降りていった今がチャンスだな。さっきの執務室に地下室に向かう階段とは別に隠し部屋があって、そこに魔方陣維持のための魔石がセットされてるぜ』
(迷っている暇はなさそうですわね。グリちゃん、案内を)
フィロフィーはリュックを背負い、食堂をでて人知れず行動を開始した。
* * * * *
セラップが背後に迫る熱気に気づいて振り向いた時、その目の前には巨大な火球が迫っていた。
言わずもがな、タイアの生み出した狐火である。
タイアは魔方陣の効果範囲の外でアキに助けを求めた後、狐火と浮遊魔法を発動させてすぐに引き返していた。
「がぁあっ!?」
セラップにはタイアの不意打ちを完全に避ける事は出来なかったが、致命傷を避けるために左手の剣を突き出して、火球を自分の手前で爆発させた。しかし予想以上に火力が強かったため、セラップの剣を突き出した左手の先は炭化して、腕や胸部の広範囲に火傷を負う。
命に係わる大怪我ながら、彼にはまだ意識があり、顔を歪ませてタイアを睨む。
しかし剣を落としうずくまった彼の両腕を見れば、もう戦える状態ではないのは明白だった。
タイアは魔法を解除して大地に降り、まず真っ先に倒れているケニーの元へと向かう。
ケニーは傷口が焼かれているので出血は少ないものの、激痛のために額に脂汗を浮かべている。
そんな状態でも彼は寄ってきたタイアに対し、無理に作った笑顔を向けた。
「はは、助かったっすよ。――連絡は?」
「きゃふ!」
ケニーはタイアの返事に安堵して息を吐く。
しかし、問題は山積みである。
狐タイアの膂力ならばケニー一人くらいは引きずっていく事もできるが、檻の中には子供を含め合計六人のメロウの女性がいた。浮遊魔法が使えればまとめて浮かせる事も出来ただろうが、脚のないメロウが這うなり転がるなりして移動するには時間がかかる。
「そうだコクリさん。この鍵で牢屋開きますかね?」
そう言ってケニーが差し出したのは、先ほどセラップが囮に投げた鍵だった。タイアはそれを咥えるとメロウの檻へと近づいて、そして手を伸ばしてきたメロウに鍵を渡す。
鍵自体は本物だった様で、ガチャリと音がして鍵が開き、メロウ達が小さな歓声を上げた。
「ああ、危ないのでそこから出ないで下さいね。皆さんを傷つけたくはないですので」
そのようやく生まれた脱出への希望を、若い男の声が打ち砕く。
今度は奥の扉から四人の男達が現れたが、その中の一人でメロウに声をかけたのは、この島の代官ダゼンだった。
残りは鎧を着た兵士風の男達で、ダゼンの前と両脇に長剣を抜いて立っている。ダゼン自身も鎧を着て、降りてきた時には既にレイピアを抜いていた。
「セラップさん、あなた方を信用してメロウの誘拐まで手伝ったのに、そんな簡単に負けてしまっては困りますよ。これではあなた方との協力関係の見直しが必要ですね」
「ち、違う! 狐の方だ、そいつ魔法を使うぞ!」
「狐が?」
「ぎゃうぅ……」
タイアは倒れているケニーやメロウを庇う様にして前面に立ち、ダゼン達を睨みつけて威嚇する。
「まさかこの子狐も、この魔方陣の中で魔法を発動させたのですか?」
「……いや、おそらくは外で発動させた火の魔法をここまで維持して持って来たんだ」
「はぁ。なら、別に問題ないでしょう? ――先に狐を殺しなさい。男は尋問するので生かしておくように」
ダゼンの命令が下されると同時に、三人の兵士姿の男達がタイアに襲いかかる。
そうして始まった第二ラウンドは、とても戦いと呼べるようなものではなかった。
三人の兵士がかわるがわるタイアに向かって剣を振りおろす。
さりとてそこは常日頃からアキやケニーと訓練を重ね、特に二人の攻撃を避ける訓練に重点をおいていたタイアである。タイアの方が素早い事もあり、次々と繰り出されてくる攻撃を、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら回避していく。
幸いな事に三人はセラップほど強い訳ではない様で、その剣はケニーやアキと比べても数段劣っている。フィロフィーの見立て通り、魔法さえ使えれば苦も無く勝てる相手だろう。
しかし最大の問題は、今のタイアには魔法が使えない事である。
魔法が封じられている現状で、狐姿のタイアには敵を攻撃する手段がない。野生のホワイトフォックスが引っ掻いたり噛みついたりして戦う事とはわかっているが、そんな獣的な戦い方は一度もやったことがない。
タイアはこの旅の途中、暇を見つけては特訓に明け暮れていたものの、練習していたのは魔法ありきの戦い方だった。敵の攻撃をかわしつつ、相手に魔法をたたき込む。それは本来のホワイトフォックスの戦い方とはかけ離れた、ケニーやアキの様な近接武器を使える魔法使いの戦い方だった。
結果的に特訓の成果もあって避け続ける事はできているものの、反撃に転じることができない。
兵士達が剣をふりまわし、タイアは延々とそれをかわす。
まるで今にも叩き殺されそうな蠅のような状態の自分に、タイアは歯をギリギリとさせて食いしばっていた。
(――いつもだ。いつもあたしはこうやって、大事な場面になって修行不足を後悔する)
ふと、タイアは思いだす。
自分の初陣、セイレン領でイワメティエプと戦った時の敗北を。
あの時は狐化してから一ヶ月は経っていたにもかかわらず、そのほとんどを部屋に引き籠って過ごしていたタイアには、体も狐火もろくに操る事ができなかった。
その結果自分の魔法に自分から突っ込んで敗北し、背中に火傷痕を残すことになってしまった。
今にして思えば、イワメティエプなんて楽に倒せる相手だった。
もう少しだけ魔法が上手く操れていればあんな無様に死にかける事はなかったのにと後悔し、それが今のタイアの原動力にもなっている。
ただし、当初はひたすら魔法を制御する訓練しかしなかった。
「この、ちょこまかとっ!」
たとえタイアの方が肉体的に優れているとしても、この一方的な状況はダゼン達の方が肉体的にも心理的にも負担が少ない事は明白である。一歩間違えれば命を落とす状況が、タイアの心身を追い詰めていく。
実際、兵士達は少し呼吸を乱し始めていたが、それ以上に避け続けているタイアの方が疲弊して、徐々に集中力も切れ始めていた。
それはタイアのトラウマである、かつてのバーバヤーガ達との戦いを思いださせる。
あの時はパニックから決着を焦り、冷静な対応ができなかったせいで敗北したのだったが、それ以上に魔法に頼り過ぎていた。フィロフィーの魔導書がなまじ強力だったために普通の魔法使いの様な戦い方をしていたのだが、狐の高い身体能力を駆使して動きながら戦えば、あんな簡単には負けなかったはずだ。
今のタイアは、敵を倒すには腕か足を一本負傷させるだけで十分なのだと知っている。魔力をつぎ込んだ必殺の一撃なんて意味はなく、魔法の乱発は魔力の無駄だと理解している。
だから一発の魔法をしっかりと当てるための訓練を続けてきたのに。
まさかこんな形で魔法を封じられ、獣として戦わなければならないなんて想定外だ。
(結局あたしは、剣が持てなくなってふてくされてたんだよな)
「はっ!」
「きゃふ!?」
そんな風に思考が飛んでしまったために、攻撃を避けるのが一瞬遅れた。兵士の一閃がタイアの尻尾をかすめ、僅かに切り傷を作ってしまう。
興奮状態のタイアには痛みはほとんど感じず、動きが鈍るほどの傷ではない。タイアへのダメージはゼロに近い物であったが、しかし致命的な一撃だった。
男達がタイアをあざ笑う。せっかく攻撃が当たらずに士気が下がってきていたところだったのに、今の一撃で自信を取り戻させてしまった。
一方のタイアは不安感のせいで、更に雑念が激しくなってしまう。
(だいたい、今の姿の方がよっぽど強いじゃないか! ここで人間に戻って剣を握って、それでこの三人の攻撃を避けられるのかよ、あたしは!)
一方的な攻防が続き、気が付くとタイアは部屋の隅に追い詰められていた。
兵士達はチャンスとみて散開しじりじりとタイアににじり寄る。
「に、逃げて、ください……」
タイアにケニーが声をかける。
意識が朦朧とし始めたケニーは、ただただタイアの逃走を願った。
ケニーにその言葉を言わせた事が、タイアの心に変化をもたらす。
(くそ、剣がなんだ、魔法がどうした、ホワイトフォックスがそんなもん使うか!
相手の四肢をひっかけ、喉元に噛みつけ、噛みついて、そのまま引きちぎればいいんだよ!
あたしは、狐だぁぁああああ!)
そして、タイアはようやく……
自分が狐になることを受け入れた。
「きゅぉぉおおおん!」
その瞬間、タイアの体が黄色く光り輝き、徐々に体つきが変わっていく。
「な、なんだっ!?」
「魔法か!?」
「そ、そんなはずはない! うろたえるな!」
突如光ったタイアに兵士達が後ずさりし、ダゼンは焦りながらも足元を確認する。
魔方陣は確かに光輝いていて、魔封じの魔方陣が起動中である事が確認できた。
――しかし、その確認には意味がない。
魔封じの魔方陣は魔法を消すわけではなく、あくまでも最初の魔法の発動を止めるだけしか効果がないからだ。
既に発動している魔法を消す事はできない。だからこそ一度魔方陣の効果の外まで行って狐火を発動させ、それを持ってきてセラップに一撃を加えるという戦術も取れる。
そして、タイアには半年以上ずっと発動させたまま、いや発動途中になっている魔法がある。
タイアが狐になってそれだけ経つにもかかわらず、彼女はずっと子狐の姿のままでまったく成長していなかった。
本来ならばケニーの使った狐化の魔導書よりもはるかに強力な、フィロフィーの魔液で作った木版魔導書でありながら、その姿はケニーの狐化よりずっと小さな子狐だった。
みんなそれをタイアが小柄で十歳の少女だからだと思っていたが、実際にはそうではなかった。
タイアが狐化を受け入れることができず、彼女の心がその姿に反映されていただけだったのだ。
――なにしろホワイトフォックスの十歳は、とっくに成体なのだから。
「タイ、ア、様……?」
その姿をみて、ケニーがコクリという偽名も忘れて小さく呟く。
そこにいたのは体長三メートルを超えている、凛とした金色の大狐だった。
「ぐるぅ?」
タイアはしばらく、自分の体に何が起きたか理解できていなかった。
突然自分の体が光って眩しくなったかと思うと、笑いながら見下ろしてはずの兵士達があんぐりと口を開けて青ざめていて、しかも目線が同じ高さになっている。
周りを見渡し、振り向いて自分の体を確認し……
(……いける!)
ようやく自分が大きくなったのだと理解すると、理由や理屈は捨て置いて、迷わず唖然とする兵士に向かって突進を仕掛けた。
真ん中の兵士を体重をかけた突進で吹き飛ばし、左の兵士の剣を持った腕に噛みつく。
「ひぐぅ……」
「ぐぁあ!?」
突きとばされた兵士は失神し、噛みつかれた兵士の腕は嫌な音を立てて砕けた。
我に返った右側の兵士が切りかかって来たが、タイアは噛みついていた兵士を彼に力いっぱい叩きつける。
「がふっ」
彼らは僅かな呻きを発すると動かなくなり、兵士三人はそれで完全に沈黙した。
タイアはそれで満足する事無く、続いてダゼンの方を見据える。
「こ、降参、降参します!」
しかしダゼンはそう叫ぶと、あっさりと手に持っていた細剣を投げ捨てる。
やや拍子抜けな感じで勝利の決まったその瞬間、魔封じの魔方陣から光が消えた。