第十五話 最弱の狼
その日の夕食、セイレン家の屋敷の食堂にはいつものメンバーと共に座るケニーの姿があった。いつもなら日暮れ前には家に帰るケニーだが、今日は夕食後にタイアが狼化の魔導書を読む事が決まり、立ち会いたいからと言ってちゃっかりセイレン家のご相伴に預かっている。
この日のメニューはソフィア特製のモツ煮込みだった。
「えっと、どうっすかタイア様? 初めて自分で狩った獲物っすけど」
「……きゅん」[わすれてた]
「ですよねぇ」
自分の魔法で熊を仕留めた事など完全に忘れていたタイアは、既に半分以上食べ終わっている皿をじっと見つめる。タイアが森で仕留めた熊は、あの後きっちりとポロ村へ運ばれていた。そしてスミルス達セイレン家の面々がてんやわんやしている横で、一般の兵士達がきっちり解体し、ポロ村の各家庭へと分配した。
熊の内臓を使ったモツ煮込みは普通に美味しいのだが、考え事をしていたタイアは特別味わうこともなく食べていた事に気づき、ソフィアと熊に対して申し訳ない気持ちになる。
しかし昨日の戦いとこれから読む魔導書の事を考えれば、それも致し方のない事だろう。
「ソフィアさん、こっちはとっても美味しいですわ」
フィロフィーだけはいつも通り、ニコニコしながら自分専用のモツ煮込みをよく味わって食べていた。
褒められたソフィアはニコリともしない。味見もしないで作った料理を褒められても素直には喜べず、そして死闘を繰り広げた相手の変わり果てた姿に同情し、渋い顔をフィロフィーに返した。
* * * * *
「さて、タイア様。そろそろ始めましょうか」
「きゅおん!」
どこか殺伐とした夕食を終えて、スミルスはアキから買っておいた魔導書を取り出した。
「そう言えばスミルス様、怪我してる時に変身魔法を使っても大丈夫なんですか?」
「問題ない。むしろ浅い治りかけの傷なら治ってしまうから、さっさと読んだ方がいいくらいだ」
「なるほど、回復魔法のかわりなんですね」
「まあな。……もっとも、回復魔法ほどの効果は得られないが」
変身時に治るのは本当に浅い傷や治りかけの傷だけで、少しでも深い傷はしっかりと残る。大怪我をしている場合は変身時に出血がひどくなる事もあり、さすがに回復魔法のかわりまでの効果は望めない。
それでもタイアの背中の痛みは多少ましにはなるだろう。フィロフィーの薬草が効いているとはいえ、痛みが完全になくなったわけではない。
本当はもっと早くに読めば良かったのかもしれないが、過度に心配してオロオロとしていたスミルスにがその事を思いついたの夕方の事だった。
「少なくとも、背中の毛並みはある程度改善しそうですわね」
「フィロフィー、言っとくが火傷の治療のために魔導書を用意したわけじゃないからな?」
あくまでも火傷の治療はおまけで、今回の目的は一旦狐以外のものに変身し、そこから変身を解除して人間に戻れるかの実験だ。
タイアが人間にさえ戻れれば、たとえ背中の傷を心配することはあっても、背中の毛並みを心配する必要はまるでない。
スミルスは手に持っていた魔導書をタイアの足元に置き、タイアはそれを前足を使って器用に開いて覗き込んだ。
すぐに魔導書からルーンが飛び出し、そしてタイアの体内へと吸収されていく。やがて全てのルーンを吸収し終えると、狼化の魔導書はただの白紙のノートに変わっていた。
それは幻想的な光景なのだが、既にフィロフィー手製の魔導書で何度も見ているため、特に感動する事もなかった。
「では、まずは狼化ですわね」
「そのあと魔法を解除した時に、狐じゃなくて人間に戻っていれば大団円って事っすね」
[さっそくやるぞ]
タイアはこれがヴィジャ盤を使う最後になる事を願い、そして狼化の魔法を使おうと念じる。
タイアの全身の毛が逆立ち始めた。
「くぉーん!」
タイアは遠吠えに合わせるように、体のサイズが少しずつ小さくなっていく。
もともと体長一メートルにも満たない子狐がさらに小さくなっていき、最終的に体調五十センチ位の小さな姿にまで縮んでいく。
スミルス達は狼と狐にそれほど大きな違いはないと思っていたが、タイアの姿が予想以上に変わっていく事に驚きを隠せなかった。
――やがてそこには丸い頭に大きめの三角形の耳、そしてつぶらな瞳が特徴的な小型犬が座っていた。
「これが……狼っすか?」
『これはあれだな。チワワだな』
「わふっ」
グリモか古代、人々にペットとして絶大な人気を誇った小型犬の名前を呼んだ。その声が聞こえるのはフィロフィーだけだが、フィロフィーは俯いて肩を震わせていてグリモの言葉を聞いていない。
「……か、可愛いぃですわぁ!」
「ぎゃいん!?」
フィロフィーは我慢できなくなったようで、以前狐化した時と同じようにタイアに飛びついた。
今回はタイアが狐火を発生させることはなく、フィロフィーの腕の中でジタバタともがくが逃げられない。なにしろフィロフィーの作った魔導書ではなく一般的な、それも粗悪品の狼化の魔導書である。タイアは体にあまり力が入らず、フィロフィーの腕の中から逃げ出す事も叶わなかった。
「フィロフィー、タイア様を放しなさい!」
見かねたスミルスがフィロフィーを引きはがす。
身の危険を感じたタイアがスミルスの後ろに隠れようとして飛び出し、しかし足がもつれて転んでいた。
フィロフィーとタイアを一旦落ち着かせ、そして改めて狼タイアを観察する。タイアはビシッと立とうとするが、その姿はプルプルとしていて立っているのもやっとという感じに見えた。歩く事もままならない弱々しい姿に当の本人を含めて皆驚いていたが、スミルスだけはフィロフィーの魔導書の方が異常だと知っているので驚いた様子は見せなかった。
問題の背中は金色の毛で覆われて、禿げている場所は少なくなった。体毛の下の皮膚がどうなっているのかはっきりとはわからないが、ひとまず一部の火傷は治ったらしい。
もしかしたら人間に戻った時には痛ましい火傷痕が残っているのかもしれないが、それは人間に戻らないと確認できない。
「タイア様、背中の火傷は大丈夫ですか?」
「きゃん!」[へいき]
「……ではタイア様、そこから元の人間の姿に戻ってみてください」
「あ、お父様とケニーさんは後ろを向いててくださいませ。覗いては駄目ですわ」
人間に戻れた場合、返信直後のタイアは素っ裸だ。スミルスとケニーは目を閉じて後ろを向き、ソフィアは人間に戻れた時の服を用意して待機する。
準備ができ、タイアは魔法を解除して人の姿に戻ろうと意識する。
するとタイア体が大きくなっていき――
「きゅーん……」
スミルスとケニーの耳に届いたのは、弱々しい狐の鳴き声。
男達は振り向く前に結果を察し、肩を落としてため息をついた。
* * * * *
「へー、タイア様が別の領主の屋敷に、ねぇ……」
「んだよ。よぐある事らしいけんど、王女様も大変だべなぁ」
「よくある事ねぇ……ええ、そうかもしれないわね。 ――そう言えば最近、スミルスが魔物を集めてるんだってね。何に使うのかしら?」
「さぁなぁ、アキちゃんも知らねんか? 俺ぁ、キノコの魔物仕留めて贈っただけど」
「へー、やるわねお爺ちゃん! まだまだ現役じゃない」
「がははは、とーぜんよぉ!」
アキは狩人の老人と一緒に笑う。
老人はアキとのお喋りが楽しくて笑うが、アキはスミルスの情報操作がお粗末すぎて笑っていた。
そもそも屋敷でスミルスと話し合た時、何もかもが怪しかった。
スミルスの一挙手一投足が怪しかった。
フィロフィーとタイアの留守が怪しかった。
まるで宝石のような魔石が怪しかった。
その魔石を安値でも売ろうとする事が怪しかった。
風の魔導書を使っていない事が怪しかった。
中でもアキが引っかかったのが、スミルスが不良品の狼化の魔導書を欲しがった事だ。
あれはそもそも製造元の魔導士に泣きつかれ、恩を着せるつもりで仕入れた商品だった。
変身魔法は使いこなすには難易度が高く、魔導書で魔法を覚えてもすぐに動けるようにはならない。二足歩行に慣れた人間が、四足歩行に挑戦するのは並大抵の事ではない。
傭兵団の仲間が狼化の魔導書を読んだ時は、その老犬より酷いヨボヨボな姿にみんな腹を抱えて笑い転げたものだ。その仲間はその後、駆け足位の速さで走れるようになるのに実に半年かかっていた。
その事はアキと一緒に傭兵団にいたスミルスも知っている――にも関わらず、タイアが身を守る為に変身魔法を覚えさせるというのはおかしい。ましてや失敗作の魔導書では変身後に歩くことも覚束ないだろうに、そんな魔法を身を守る為に覚えさせるなんて考えられない。
スミルスの怪しさは度が越えていて、アキはその場の追及を避けた。ひとまず何も突っ込まないで退却し、近隣を行商しつつ情報収集から始めようと考えたのだ。
そして情報収集二日目にして、既に思わず笑ってしまうほどの情報が出てきている。
タイアを領から追い出した、ホワイトフォックスを手なづけた等の意味がわからない情報が多いが、その中でもアキが一番驚き、そして呆れたのはホワイトフォックスの魔石に関する情報だ。
スミルスと共に魔石持ちのホワイトフォックスを狩った兵士によれば、ホワイトフォックスの魔石はもっと小さく歪な、白い石ころのようだったと言うのだ。
かつての仲間がそんな重要な情報に口止めすらしてない事に、アキは呆れを通り越して悲しくすらなったが、気を取り直してスミルスの秘密を推理する。
(スミルスは魔石を加工できる……いえ、ちょっと信じられないけど、魔物の死体から人工的に魔石を作る方法を手に入れた? たぶん作る段階で球体の形にしか製造できなくて、その形のまま売ろうとしたか。
変身魔法の魔導書を欲しがったのは、人工魔石をさらに魔導書に加工する為の教科書がわり、ってところかしら? その辺はスミルスよりもフィロフィーちゃんが関わってそうね)
アキは合理的に判断し、そしてその推理の一部は当たっていた――が、さすがにタイアが狐化して元に戻れなくなったという不条理には辿りつかない。ましてやフィロフィーが魔物を食べたり悪魔と契約したり、強力な魔導書を軽々作れる事に思い至るのは不可能だった。
アキはとてつもない儲けの予感がして笑みを浮かべていたが、自分が厄介事の詰まったパンドラの箱を開けようとしているとは思ってもいなかった。
「おじいちゃん、良かったらもっと詳しく聞かせてちょうだいよ。あ、干し芋オマケしてあげるね」
アキが荷車から干し芋を取り出す。
セイレン領には警戒心の強い老人が多いが、現領主と仲が良く日頃から物資を届けてくれるアキに警戒する理由もない。アラサーで世間的には行き遅れのアキも、老人にとっては若くて可愛い女の子だ。
狩人の老人はさも楽しそうにアキとの会話を続けていった。