第十三話 それぞれの初陣 ③
その黒頭の魔物がセイレン領の森に自然発生したのは、今から十年以上前だった。
魔物の大半は人間に無関心なもの、普通の獣と変わらないようなものが占めている。中には人間とうまく共存している友好種と呼ばれる魔物もいるが、その魔物は好んで人間を襲っては食らう、危険種と呼ばれる魔物だった。
ただ、その魔物は自分で人間を襲うには弱過ぎた。人型の魔物には強力で賢いものが多いとされるが、その魔物は知能はともかく身体能力は人間より低く、攻撃魔法が使えたりもしなかった。
黒頭の魔物に唯一使える魔法は、知能の低い動物や魔物に念を送って操る魔法だった。
それでも最初の頃は困らなかった。魔物は熊や野犬、ホワイトフォックスやグレイウルフなどを操って、数ヶ月に一回は付近の村を襲って人間を狩っていた。ちょくちょく狩りに失敗したが、その時死ぬのは自分ではなく獣達なので、魔物は痛くも痒くもない。
しかしある時状況が変わる。領主が変わってしばらくすると村の防御が硬くなり、狩りがほとんど成功しなくなってしまったのだ。
原因はいくつかあり、村の柵の強化や兵士達の何人かが火の魔法を使うようになった事も厄介だったが、それ以上に忌々しいのが新しい領主とその妻らしき銀髪の女だった。手駒にしようと思いせっせと繁殖させていたグレイウルフの群れが、領主夫婦の火炎魔法にあっさりと焼き払われたときの絶望を、黒頭の魔物はいまだに忘れてはいない。
最近では兵士達も武器や魔法の腕が上がってきた上に、魔素から発生する魔物の数も何故か少なくなってきていた。そうして敵が強く自分が弱くなった結果、ここ数年は村人は一人も狩れていない。臭くて不味い獣の肉で空腹を紛らわし、たまに街道沿いに現れる新米盗賊を狩ったりしてしのいできたが、精神的に限界がきていた。
そんな折に、領主夫婦の娘らしい銀髪緑眼の少女がのこのこ森へと入ってきたのだ。護衛の兵士をはべらせてはいたが、弱そうであり美味しそうであり恨みがあり、魔物にとっては見逃せない極上の獲物に見えた。
そこでとっておきの奇策として、熊を雪の中に隠して待ち伏せさせたのだが、しかし少女のペットらしき一匹の子狐のせいであっさりと露見し失敗してしまう。
魔物は怒り、子狐を縊り殺してやろうかと思ったが、少女が子狐と楽しそうに戯れているのを見て気が変わった。この子狐を操れば、少女を簡単に誘い出せるのではないかと思いついたのだ。
(あの糞狐、うまくやるかしら?)
魔物は何も、子狐に過度の期待をしているわけではなかった。護衛の兵士がついて来てしまう可能性が高いと思い、虎の子のグレイウルフを茂みに隠しておいた。
たとえ護衛の兵士も来たとしても、少女の腕の一本でも千切り取らなければ気が済まない。それほどまでに魔物は怒り、そして飢えていた。
――銀髪緑眼の少女と黒頭の魔物、実際はどちらが捕食者でどちらが被食者なのか。
黒頭の魔物が絶望的な真実を知るのは、もうまもなくの事である。
* * * * *
グレイウルフがタイアに噛みつこうとした瞬間、割り込んできた人間がグレイウルフを弾き飛ばした。
それは先ほど熊を倒した兵士――ではなく、妙な恰好の女だった。
『な、何よあなた!?』
「…………」
黒頭の魔物は念話で女に問いかけるが、女は何も答えない。
無言で仁王立ちして、魔物の方を睨んでいる。
その左手にはスコップが、右手には巨大な何かが入った麻袋が握られいる。麻袋は人間がひとり入る位のサイズで、その麻袋で殴られたグレイウルフが吹っ飛んだ事から、それなりに重量のあるものが入っているだろうと想像がついた。
その麻袋の凹凸は本当に人間でも入っているかの様に見える。さらに麻袋の端からは、謎の紫色の液体がしみだしていた。
(に、人間!? いつからそこに!?)
魔物は混乱しながら女を眺めいる。
見た目はどう見ても人間の女にしか見えないが、兵士や狩人の格好ではない。妙な恰好で森を徘徊する気の触れた女なのかもしれないが、それにしては目に凄みがある。自分よりも人間に近い見た目をもつ、高位の魔物なのかもしれない。
『あ、あなたもしかして魔物? ……何か言いなさいよ!?』
「…………」
黒頭の魔物が癇癪を起こすが、女は何も答えない。
相変わらず仁王立ちのまま、魔物を睨みつける。
そのまましばらくお互いに睨み合いを続けたが、先に動いたのは魔物の方だった。
とは言っても、実際に動いたのは黒頭の魔物ではない。
『狂人め! 噛み殺しなさい!』
先ほど吹っ飛ばされたグレイウルフが既に復帰していた。特に怪我などはなかったらしく、一気に距離を詰めて女に噛みつきにかかる。
女の方は避ける事もせずにグレイウルフが飛びかかるのを待ちうける。そして噛みつかれそうになった瞬間に、右手に持っていた麻袋でガードした。
狼の牙が麻袋に食い込み、女はグレイウルフの勢いで簡単に押し倒される。
グレイウルフはそのまま麻袋を中身ごと食い破り、地面にあおむけに倒れている女の首元に噛みつこうとして口を開く。
――しかしその口が閉じられる事はなく、グレイウルフは口を開けたまま痙攣して倒れた。
『……は?』
黒頭の魔物は唖然としていたが、女の方はその瞬間を見逃さず、起き上がってからスコップで容赦なくグレイウルフの頭や首を打ち付けた。スコップは戦闘用に研いだものではない普通のスコップで、グレイウルフは一撃では死ぬことができず、殴られる度に悲痛な鳴き声をあげる。やがて悲鳴が聞こえなくなり女がスコップを振るうのをやめた時、グレイウルフはまだ息こそしていたが、もはや死を待つだけの無力な獣だった。
その間、黒頭の魔物は逃げる事も忘れて立ちすくんだまま唖然としていた。
『な、何を、したの……』
「…………」
黒頭の魔物が狼狽しながら質問するが、女は何も答えない。
無表情にスコップを構えたまま、黒頭の魔物を睨みつけて動かない。
女は今はスコップだけを構え、麻袋は足元に放置している。その麻袋にはグレイウルフが噛みちぎった大きな穴が開いていて、そこからは紫色の液体がしたたり落ちていた。
次の瞬間、急に女が前のめりになったかと思うと、魔物の方に一歩踏み出す。
『ひぃ、く、くるなああ!』
魔物は念話の悲鳴をあげ、一目散に森の奥へと走り出した。
「…………」
女はその場にとどまってそれを眺め、それ以上魔物を追おうとはなかった。
黒頭の魔物は疲弊しながらも、森の斜面を駆けあがる。
魔物に取って今日は災難続きだった。最初は領主の娘という極上の獲物がやって来た事に心を躍らせたものだったが、妙な子狐と変な女が現れて、気がつけばかき集めた手駒を全て失ってしまっていた。
(ああ、もう、あんな糞娘に関わるんじゃなかった!)
魔物は今日の自分の災難が、すべてあの領主の娘が原因だと思い始めていた。
それはスミルスやセルフィーに何度も煮え湯を飲まされ続けた経験から、その娘に対してもそう思ってしまうというだけでしかない。
確かに因果を解けばフィロフィーが全ての原因とも言えるのだが、本人はまだ索敵に出したタイアが戻って来るのをのんびり待っているだけで、魔物に対して何も手出しをしてはいない。
フィロフィーが魔物に牙を剥くのはこれからだ。
黒頭の魔物に目はないが、確かにフィロフィーと黒頭の魔物の目と目が合った。
「ん? な、何だこいつは!?」
「ひぃ! 人型!? 危険種!?」
「みんな落ち着くっすよ! フィロフィー様こっちへ!」
「え? グリちゃん今なんと? いめてっぷ? いわめてーぷ?」
黒頭の魔物は森の奥に逃げ込もうとして無我夢中で走ったが、不幸にもフィロフィー達のいる方へと逃げてしまっていたのである。
森の斜面を必死に駆け登り、登り切った所には複数の兵士が待ち受けていたのだ。その光景は黒頭の魔物を絶望させるには十分だったが、魔物にとって本当に絶望的なのは、グリモの視界に入ってしまった事だろう。
今ここにいるのはフィロフィーとケニー、熊を解体していた兵士達二人の計四人。
慌てて立ち上がり武器を抜く兵士を見て、黒頭の魔物はさらに方向転換して逃げだした。
「皆、追うのは待つっすよ! 何かの罠かもしれ……」
「いいえ、すぐに追って捕まえてください! 殺してもいいですわっ!」
「ふぃ、フィロフィー様!?」
比較的冷静なケニーの判断を押しのけて、フィロフィーは領主の娘として過激な命令を出す。
戸惑う兵士達を説得するため、フィロフィーは早口でさらに説明を続ける。
「おそらくこの熊を操ってたのはあの魔物、イワメティエプですわ! イワメティエプには動物を操る力がありますが、イワメティエプ自身はただの雑魚です! いま逃がしたら今後も村人が獣に襲われます、絶対に逃がさないで!」
フィロフィーのその掛け声に一番驚いたのは、他でもない黒頭の魔物、イワメティエプ自身である。
自分でも知らなかったイワメティエプという種族名を、思わぬ相手から聞かされたのだ。それで驚くなというほうが無理である。
イワメティエプにとって、もはや挽回のしようがない状況だった。イワメティエプ自身は非常に弱く、獣を操って自分の存在を隠し通してきたからこそ今日まで生き延びてこれたのだ。人間に正体を知られた以上、たとえこの場を逃げ切れたとしても、もうこの森にはいられない。
『ひぃぃいいいい!?』
振り向けば、既に一人の兵士がすぐ後ろにまで迫ってきていた。
イワメティエプは単体では人間の大人よりも弱く、足も速くはないし、持久力も低かった。兵士数人に追いかけられて、逃げ切る事はできないだろう。
兵士達に素早く的確な指示を出した時点で、フィロフィーの勝利は決まっていたのだ。
その指示を出した当のフィロフィーは、魔物の事は完全に無視して、タイアの姿を探して周囲を見渡した。
フィロフィーにとっては既に結果の見えた魔物と兵士の追いかけっこよりも、姿を見せない幼馴染の行方の方が、よほど重要な事である。
「コクリさーん! どこですかー? コクリさーん!」
『ご主人、もしかしてイワメティエプの出てきた方角じゃないか? なんか慌てて飛び出してきた感じだったし、タイアの嬢ちゃんに襲われて逃げてきたとか』
「なるほど、確かにタイア様ならやりそうですわね」
グリモの指摘を受けて、フィロフィーは魔物の出てきた斜面の下を覗いて叫んだ。
* * * * *
ソフィアは逃げ去る黒頭の魔物が戻ってこない事を確認すると、腰が抜けて座り込んでしまった。
スミルスにポイズンマッシュマンの廃棄を言い渡されたソフィアだったが、その処分方法には頭を悩ませた。最終的にはフィロフィーが森の奥まで入って行った後で、森とポロ村の境界線のあたりに穴を掘って埋めることにしたのだ。
フィロフィーが森の奥に入り込むまでは家事をしながら時間をつぶし、そろそろ良いかというタイミングで、スコップでせっせと硬い土を掘り返していた。
そんな時、泥だらけのタイアが森の入り口付近をウロウロしながら、しかしポロ村に戻ってくるわけでもなく森へと戻っていくのが見えた。ソフィアはもうフィロフィーが戻ってきたのかと焦ったが、しかし誰も森から出てくる様子はない。
気になって森に様子を見に行くと魔法の炸裂音が聞こえ、そして魔物の足元にタイアが倒れていた。
そこにあったのは世にも恐ろしい光景だった。体つきは人間なのに頭が真っ黒の卵のような奇妙な魔物がいて、おまけに成体のグレイウルフまでその横にいたのだ。そして魔物達は今にもタイアを襲おうとしていた。
なんとかタイアを守ろうと、勇気を振り絞り麻袋を振り回しながら割り込んだものの、そこで怖くなって一歩も動けなくなってしまった。
グレイウルフが噛みついてきた時も避ける事ができず、死に物狂いで麻袋を盾にしたが、そのまま押し倒されてしまった。こうなると麻袋の中身がたまたましびれ毒のあるポイズンマッシュマンだった事は、フィロフィーに感謝してもしきれない。
痺れて動けなくなったグレイウルフをなんとか手に持っていたスコップで倒す事に成功したが、ソフィアはもうそこで限界だった。立っているのもやっとの状態でふらついて、前のめりに倒れそうになり、うっかり魔物に一歩近づいてしまったくらいに。
周囲の安全を確認し、ソフィアはタイアの状態を診る。
背中の金毛が燃えて皮膚が見えてしまっているため一見すると大怪我に見えたが、その火傷は思ったよりも浅かった。所々にできた水膨れが痛々しいものの、皮膚が強く炭化しているような場所はない。おそらく、目を覚ました後の痛みは酷い事になるだろうが。
ソフィアはタイアの背中を冷やそうと、周囲に綺麗な雪はないかと探し――そこでようやく、自分が冷気の魔法を覚えていた事を思いだす。普段は冷気の魔法を食材を冷やすくらいにしか使っていなかったので、本来は攻撃魔法であるという事を完全に忘れていたのだ。
ソフィアは反省するのは後回しにして、ひとまず氷を生み出し、それをエプロンに包んでそっとタイアの背中に当てた。
「コクリさーん! どこですかー?」
そこへ、森の奥からフィロフィーの叫ぶ声が聞こえてくる。
その声は気を失っている当人には届かなかったが、タイアを抱きかかえていたソフィアにはしっかりと届いていた。
この事件以降、ポロ村では攻撃魔法の訓練をしている初老メイドが度々目撃されるようになるのだが、それはまた別の話。