降ってきたものは
ゾピュロスが隻眼になった理由について。本編の10年ぐらい前。
「お父様の嘘つき!」
自分の家に帰るなり怒声の歓迎に遭遇し、ニーサの主は隻眼をしばたたかせて立ち尽くした。目の前には、白い頬を紅潮させ、眉間に険しい皺を刻んだ黒髪の養女シーリーンが仁王立ちしている。
彼女も今年で十三歳。つまりいわゆる『難しい年頃』というやつで、ではこれはやはり男親が避けては通れぬ試練ということなのだろうか、などとゾピュロスは考えつつ、しかし何の対処もできず無言で立ち尽くす。頭ひとつ分よりも上にある彼の顔に、彼女は怒りのまなざしをひたと据えていた。
「……いったい何事だ?」
いつものように平坦な口調で問うた養父に対し、シーリーンは厳しい面持ちで言った。
「いつかおっしゃいましたよね。その左目は、石榴の木陰で昼寝をしていたら、落ちてきた実がぶつかって見えなくなったんだ、って」
随分と間の抜けた話だが、それを聞いてゾピュロスは、あ、と昔のことを思い出した。
あれはもう、七年ばかり前のこと。古くなった眼帯を彼の妻が新しく作り直している傍らで、どうしてお父様のおめめは片方だけなの、とシーリーンが訊いた。無垢な少女に血なまぐさい話を聞かせたくなくて、咄嗟にそんな馬鹿げた説明をしたのだった。
「まだ信じておったのか」
驚きのあまり口を滑らせる。途端にシーリーンは息を飲み、さらに赤くなった。しまった、とゾピュロスが己の迂闊を呪うと同時に、
「お父様の馬鹿ッ!」
滅多に大声を上げないシーリーンが精一杯の声で怒鳴り、ばたばたと館の奥に走り去ってしまった。呆然と立ち尽くすゾピュロスに、横から腹心のマルドニオスが歩み寄り、頭を下げた。
「申し訳ございません、ついうっかり『いくらゾピュロス卿でもそれはありませんよ』などと告げてしまいまして……」
おまけに失笑もついていたのだろう。多感な年頃の娘が、そんな風に笑われたのでは、怒るのも無理はない。ゾピュロスはため息をついた。
「嘘をついたのは事実だ。そなたの落ち度ではない」
「は……」
「しかし、いくら私でも、というのはどういう意味だ?」
鋭く突っ込まれて、マルドニオスは明後日の方を向く。年下の領主の凝視を横顔に感じることしばしの後、彼は向き直ってにやりとした。
「ご自身でよくお解りでしょう。さあ、姫君の許しを乞いにおいで下さい」
***
ゾピュロスが片目を失ったのは、もう十年ほど前のことだ。
先代領主であった父の使いで王都に滞在していたまさにその時、海の民が町を襲った。
当時ティリスの人々は、東海岸を脅かす海の民との小競り合いこそあれ、大半は平和の惰眠を貪っていた。帝国という熟れきった果実が、もはや腐り落ちる寸前ということにも気付かないまま。
それを、海からの侵略者たちが津波のごとく飲み込み、一切を食らい尽くした。
折悪しく領主オローセスも帝都にあって不在。騎兵団長ナキサーが指揮をとり、どうにか態勢を立て直すことに成功した直後、ゾピュロスは領地への脱出を命じられた。
「急げ、海の民の攻撃がこれだけに留まるとは思われぬ。此度の襲撃はこれまでとは違うぞ。すぐにニーサへ戻り、援軍を要請するのだ!」
共に戦おうとするゾピュロスを、ナキサーはそう言って送り出した。厩に残る中では一番足の速い馬を彼に授け、護衛の騎兵までつけて。
だが、そのナキサーも予想していなかった事態が、ゾピュロスを待っていた。制圧されていたカッシュを北に迂回してから西へ、ニーサへと向かった彼は、結局目的地に辿り着くことができなかったのだ。
「これは……まさか」
小さな農村にあふれかえる難民を前に、彼は呆然とした。焼け出されたと思しき煤まみれの人々。傷を負い、足をひきずって歩く男。泥濘にもかまわず座り込んだまま動かない老人。疲れ果てて泣くことさえできず、うつろな顔で宙を見ている子供たち。
彼は馬を下り、彼らの中に知った顔を探して歩いた。若様、と何人かがつぶやくのが聞こえる。ニーサの住民で彼の顔を知っているのだろう。
ということは、すなわち。
「ニーサが落ちたのか」
彼は見知らぬ男にそう問うた。男は無言でかくりとうなずき、そのまま顔を伏せてすすり泣く。ゾピュロスはその肩を掴み、乱暴に揺さぶった。
「父上は……領主様はどうなされた! 館の者は? 兵はまだ戦っているのか」
館には、両親と弟がいたはずだ。町を守っていた兵たちはどうなったのか。
「わかりません、何も、わかり、ません……っ」
男は泣きながらそう繰り返すばかり。と、か細い声がゾピュロスの耳に届いた。
「お館様はお亡くなりになりました」
振り向くと、金髪の痩せた少女が一人、こちらを見上げていた。年の頃は十五ほどだろうか。怯え、打ちひしがれていたが、それでも青褐色の目にはまだ、生きようとする光が宿っている。
「……それは、まことか?」
ゾピュロスは自分がそう確認するのを、他人事のように感じていた。目は少女の顔に吸い寄せられ、外すことができない。
「この目で見ました。次々とあの凶々しい船が港に乗りつけ、飢えた獣の群れを吐き出すのを。その波を押し返そうと戦う近衛兵の人たちも、その先頭に立って指揮されるお館様も……そうして、波がすべてを飲み尽くすさまも」
少女はかすれた声で答え、目を伏せた。あまりに多くを見過ぎた目を。
気付くとゾピュロスは、少女の傍らに膝をついていた。
「そなた、名は」
「スティラと申します」
うつむいたまま答えた少女の肩に、ゾピュロスはそっと手を置いた。
「よくここまで逃げおおせてくれた」
おかげで状況がわかった、という意味を込めて、そうささやく。スティラは驚いたように顔を上げ、ゾピュロスを直視した。そして、まなざしに含まれる温かい労りに気付き、堪えきれずに涙をこぼす。
声を殺して泣く少女を胸におし抱き、彼はそのまま、じっと動かなかった。
ニーサを取り戻したのは、それから一年ほど後のことだった。ティリスの他の場所に比べると、早かった方だ。
落ち延びてきた兵士や民をまとめ、ふたたび戦える状態にして作戦を立て、かつて自分たちのものだった町を攻める。それは、ゾピュロスの役目だった。こうした面倒な仕事をしたくなくて、家督は弟に譲ると誓約書まで作成したというのに、人生とはままならぬものである。
ゾピュロスがマルドニオスらと共に再び町に入った時、通りには侵略者の屍が積み重なり、いまだあちこちで散発的な戦闘が続いていた。元はティリス人のものだった家屋に立てこもり、抵抗を続ける海の民も少なくない。ゾピュロスはそうした残り火の鎮圧に町中を駆け回った。
そうして一軒の民家に近付いた時、兵が出入り口をかため、階上にたてこもる侵略者を追い詰めているのが見えた。そして、二階の窓際で取り乱している黒髪の女も。
飛び降りて逃げようというのだろうか。それにしては様子がおかしい、とゾピュロスが眉を寄せると同時に、女は屋内から何者かに突き飛ばされ、悲鳴と共に転落した。海の民ではない、彼らに捕らわれていたニーサの住民だったのだ。
ゾピュロスは咄嗟に女のところへ走り、一縷の望みをかけて仰向かせてみたが、既にこときれていた。窓の下は石畳で、頭から落とされた女は首が折れていた。
ゾピュロスは怒りをこめ、きっと窓を振り仰ぐ。と同時に、異国の言葉で恐らくは呪いと罵詈雑言を吐き散らしながら、男が身を乗り出した。まるで太陽に捧げるかのように、泣き叫ぶ幼子を両手で掲げて。
「やめろ!」
ゾピュロスが叫ぶ。男はぴくりと反応し、こちらを見下ろした。そしてふと、勝ち誇ったような表情を浮かべる。その目は狂人のそれであったが。
ひと呼吸の睨み合いの直後、男は腕を振り下ろした。ゾピュロスは他の危険すべてを無視して、幼子を受け止めようと走った。
両腕にどさりと重みがかかると同時に、頭を衝撃が襲った。よろけて片膝をついた彼の足元に、拳大の石が転がる。これを投げ付けられたのだ。顔を上げると、ぼやけた視界に再び男が腕を振り上げるのが映った。
本能的に、己の体で幼子を庇ってうずくまる。と、誰かの靴音が駆け寄り、頭上で風を切る音がして、ガツッ、ガラン、と真横に槍が落ちた。
「ゾピュロス様! ここは危険です!」
マルドニオスだ。彼が助けてくれたのか、とぼんやり認識すると同時に、無理やり立たされ、どこかへ引っ張って行かれた。
その後しばらくは意識が朦朧として、あまり記憶が定かでない。ただ、後にマルドニオスから聞かされたところによると、彼は顔の半分を血まみれにしながらも、まったく平静な様子で応急処置を受け、助けた幼子を避難させるよう、指示したのだという。
熱に浮かされたような状態のまま、ゾピュロスは再び指揮をとり、海の民を港へ追い詰めて、少なくとも一時的に追い払うことには成功した。
その後で領主館に落ち着き、やっと彼は、自分の左目が完全につぶれていることを知ったのである。
***
そんな記憶が次々と脳裏をよぎり、ゾピュロスは往時の空気を嗅いだような気がして、顔をしかめた。もう戦乱は真っ平だ。
しかし、機嫌を損ねた姫君との対決に関しては、避けて通るわけにもいかない。ゾピュロスは廊下を歩きながら、ふう、とため息をついた。
(さてどうしたものか)
あの時の幼子が、すなわちシーリーンなのである。実の親が殺された時の話など、詳しく聞かせるようなことではない。どうにかやんわりと伝える方法はないものか。
立ち尽くしたまま悩んでいると、ふと風が通り、声を運んできた。
「……お父様はね、空から落ちてきた天使様を助けようとして、悪い魔物に目をつぶされたのですよ」
「お母様まで、嘘をつかないで!」
どうやら、シーリーンは母親の方に事実を求めて行ったらしい。そろっと忍び足でスティラの部屋に近付くと、二人の声がはっきり聞こえた。
「嘘ではありません、もちろん本当のことですとも」
「そんなこと……第一、天使様だったら翼があるから飛べるはずでしょう?」
「まだとても幼い天使様だったから、海から来た魔物に翼を折られてしまったのですよ」
スティラに優しく諭されて、シーリーンがはっと息を飲み、しばし沈黙した。そして、おずおずと確かめるように問いかける。
「その天使様は、どうなったのですか?」
答えを知っている声音だった。スティラがシーリーンを抱き寄せたらしい、衣擦れの音がする。
「今でもここに――私のそばにいて、幸福をふりまいてくれていますよ」
「…………」
反論はもう聞かれなかった。ゾピュロスはほっと安堵の息をつくと、忍び足のままカーテンをくぐる。長椅子の上で、シーリーンを抱き寄せているスティラが顔を上げ、にこりとした。出会ったあの時は痩せてみすぼらしい少女だったが、すっかりふくよかでたおやかな大人の女になった。青ざめこわばっていた顔も、今では薔薇色の笑みを湛えている。
シーリーンも気付いて振り返り、しおらしい様子でゾピュロスを見上げると、ごめんなさい、と小さな声で謝った。ゾピュロスも短く一言、うむ、とだけ応じる。
するとシーリーンは、途端にころりと表情を変えて笑った。
「石榴の実が落ちて来たというよりは、天使様の方がずっと素敵ですわ。お父様はあんまり、作り話がお上手じゃありませんね」
「む……」
言葉に詰まったゾピュロスを見て、スティラまでが失笑する。彼が憮然とすると、母娘は顔を見合わせて少し意地悪く笑い出した。そのくすくすいう声はまるで、悪戯好きな小妖精がぽいぽいとぶつけてくる木の実のよう。痛くはないが、ありがたくもない。
「……降ってきたのは、天使だったと思ったが……」
仕返しに皮肉をつぶやいてみる。だがその天使様が笑いながら抱きついてきたので、そこから先の台詞は言えなくて。
言葉の代わりに、やれやれ、と彼はほろ苦い笑みを浮かべたのだった。
(終)