逃げゆく水 ◆
オローセスとナキサーの昔話。
作中時間としては一部ですが、三部五章のネタバレを含みます。
宵闇が静寂を連れてくる。ティリス王の寝室には既に人影がなかった。
ナキサーは敬礼する衛兵に目礼を返し、ただひとり、厚い布地をくぐって室内に入る。ひやりと冷たく感じられたのは、忍び込んだ夜風か、それとも死の影か。
寝台の傍らに立ち、彼は無言で主君を見下ろした。
生気のない寝顔と向き合う内、奇妙な感覚が胸をよぎった。頬がこけ、目尻や口元に皺を刻み、たくわえた髭にちらほら白いものがまじっているが、それら歳月のしるしがゆっくりと薄れていくように錯覚する。
「オローセス」
我知らず、ささやきかける。応えはない。
唇が続けて声にならない言葉を紡いだ。
――起きろ……
「起きろ、この馬鹿! ここで死ぬ気か! 目を開けろ!!」
外聞も憚らず大声で主君を罵倒したナキサーに、居合わせたイスハークはもちろん、天幕の外に控えている衛兵までがぎょっと目を剥いた。
肝心のオローセスはというと、耳元で怒鳴られたにもかかわらず、ぴくりとまつげを動かしただけ。顔からはすっかり血の気が引いて、息も途切れそうなほど細い。顔にも体にも、いたるところ血と土埃の汚れがべったりついている。
ナキサーは苛立たしげに歯噛みし、拳で枕を殴りつけた。
「さっさと起きろ! さもないと耳から脳髄をかき出してやるぞ!」
過激な脅しが効いたのか、オローセスの唇が微かに動いた。まぶたが震え、底なし沼から這い上がるかのようにじりじりと開く。
青褐色の瞳が光を宿し、年来の友の姿を映すと、途端にナキサーは長々と息を吐き出してその場に座り込んでしまった。
「……はぁ……まったく……」
どうにかそれだけつぶやくと、彼は座り込んだまま簡易寝台の主君と同じ目の高さで唸った。
「どこの世界に、臣下を庇って命を散らす王がいる。おぬしの身勝手に付き合わされたこっちの身にもなれ。おぬしは救ったつもりか知らぬが、その寿命が百年は縮んだわ」
「…………」
オローセスはしばらく、何を言われたのか分かっていない様子だったが、やがて痛そうに顔を歪めて苦笑した。
「仕方なかろう。おぬし……すぐそばで、山のような大男が……棍棒を、振り上げているというのに、まるで気付いておらぬのだから」
「話を誇張するな! そんな怪物がおれば、いくら混戦のさなかと言えども気付くわ!」
「怒鳴るな。神々の思し召しで割れずにすんだ頭が、砕けてしまうではないか」
「いっそ少しへこむかヒビでも入れば、ましな王になれるやもしれぬぞ」
ナキサーは厭味を返したが、その声は随分とおとなしくなっていた。腕にこびりついた泥を無意識に掻き落とし、ため息をひとつ。
「……オローセス。おぬしがこんな所で、道半ばにして倒れたなら、俺がおぬしの名誉も功績も、地位も富も、すべて奪ってしまうぞ。そうなっても良いのか?」
一言一言噛んで含めるように諭すナキサーに、オローセスはしばし宙を見つめ、それからふっと笑いに似た息をもらした。
「それらに伴う責務も、か。ならば悪くない」
「――!」
ナキサーは息を呑み、拳を振り上げる。だがそれを主君の傷ついた頭に振り下ろすわけにもゆかず、歯を食いしばって拳を下ろした。
何より彼は、殴るべき相手を決めかねたのだ。戯言をほざく王か、あるいは、それに心揺らいだ己自身か。
絨毯に目を落としたナキサーに、オローセスは穏やかなまなざしを向けた。
「ナキサー、聞いてくれ。王が臣下を助けたのではない、戦士が友を助けたのだ。 ……余とそなた、どちらかが生きていればティリスを救えると思えばこそだ。むろん、二人揃っているに越した事はないが」
そこで彼はひとつ息をついて、すこし休んだ。
ナキサーは自分がどんな顔をしているか、相手に見られるのが怖くて、じっとうずくまったまま動かなかった。だがじきに、オローセスの視線を感じて堪えきれなくなり、なんとか表情を取り繕ってゆっくりと顔を上げる。
オローセスは微笑んでいた。
「もし、そなたの言う通り、余が道半ばで倒れたなら……その時まだエンリルが王に相応しからぬ器であったなら、冗談でなく……そなたが、ティリスを導いてくれ」
「忠誠を試そうと思し召しか、我が君」
冷たく硬い声でナキサーが応じると、オローセスは「いや」と短く一言でかわした。そして再び宙を見る。そこに過去が浮いているかのように。
「帝王として育てずとも良い、と……仰せられた」
ぽつりとつぶやかれた言葉は、天幕の中にいる三人だけの秘密だった。成り行きを見守っていたイスハークが身をこわばらせ、さっと外の様子を確かめる。ナキサーは主君を凝視していた。
「ただ一人前の男になるまで守ってくれ、と。余はエンリルを……我が息子を、深く愛してはいるが、必ずしも王たるべきとは思い定めておらぬ」
そこまでささやき、オローセスはふっと微苦笑して、ややおどけた風情でナキサーを見た。
「体よくそなたを当てにしておるわけだ、すまぬな。あの泣き虫をまともな王に育て上げることが叶わずとも、そなたに託せば良いとなれば気楽なものだ」
「真っ平だ」ナキサーは本気で苦虫を噛み潰した。「おぬしには絶対に、俺より長生きして、あの怪物の面倒を見て貰うぞ。たとえ余禄に世界の帝王の座をつけてやると言われても、あれを引き受けるのだけはご免こうむる。というわけだから、無駄口を叩かず休め」
「なんだ、起きろと言ったり休めと言ったり、ややこしいな」
「いいから口を閉じていろ! まったく……」
うんざりと頭を振り、ナキサーは立ち上がった。イスハークに目顔で問いかけ、後は任せても良いかと確認して、外へ出ようと歩き出す。その背中に、オローセスの声が細い糸のようにかかった。
「ナキサー。余が先に逝っても、秘密は守ってくれ」
「……言われるまでもない」
足を止め、ナキサーは振り返って静かに深くうなずいた。
「俺は誓いを立てた。破りはせぬ」
揺るがぬ力強い言葉に、オローセスは明らかに安堵し、ほう、と息をついて枕に頭を預けた。もしエンリルの出生が知れたら、王位どころか平民のまっとうな暮らしさえ望めない。秘密が守られる限りは安全だ。
オローセスの安らかな顔は、完全な信頼のあらわれだった。ナキサーは束の間、その場に立ち尽くして複雑な思いにとらわれていた。不穏な、暗い、だがまだもやもやと形のはっきりしない思い。
結局、彼は無言のまま天幕を後にした。
薄暗い天幕の内とは一変して、外は目も潰れんばかりに白く眩しい。照りつける太陽を、乾いた砂礫の大地が反射している。ナキサーは顔をしかめ、目蔭をさした。
――その時、彼は、逃げ水を見たと思った。
いくら走れども追いつけない、手を伸ばせども汲めない水。そのくせに、渇きを痛烈に思い出させる残酷なまぼろし。だが、今ならひょっとしたら……
伸ばしかけた手を、意志の力で引き戻す。触れられたとしても、その水を取ってはならない。
(まぼろしだ。俺の手には入らぬものだ)
強いて己を納得させながら天を仰ぎ、彼は嘆息した。あまりに晴れて暗いほど青い空に、オローセスの瞳を連想する。
(起きていてくれ)
彼は祈るように目を閉じて、ぎゅっと奥歯を噛みしめてから、ゆっくり歩き出した。
――起きていてくれ、どうか……
「ならぬか」
ふ、と吐息がもれた。オローセスはやはり、ぴくりとも動かないままだ。今ではナキサーも、彼が目覚めぬことを無念にも恐ろしくも感じない。
「おぬしが悪いのだぞ」
ほとんど音を立てず、唇が動いた。
なおしばし佇み、それから彼は王に背を向けた。歩み去る足の先に、あの日の逃げ水が揺らぐ。
まぼろしだ。決して追いつけず、手を浸すことの叶わぬ水。だがどうだ、今はほんのすぐそこにあるではないか。
今ならば、あるいは。
……今を逃せば、二度とは。
(儂はもう若くはない)
立ち止まって振り返りかけ、ナキサーは口をぐっと引き結んで再び前を向いた。かつて感じた良心の呵責も懊悩も、いまや遥かに遠いものとなった。かわりに迫っているのは、虚ろな終点だ。
このまま、ここまでの男で終わるぐらいなら、一度きりの機会にまぼろしを掴み取れるか全力で試してみても構うまい。
「……行くか」
小さくつぶやいて、彼は歩き出した。
ゆらゆらと嘲弄するかのように誘う、逃げ水を追って。
(終)