五十音掌編「た」
一部と二部の間、ダスターンと父親の話。
サブタイトルは「ただの親馬鹿とも言う」。
【たいせつな宝物】
確かに別れはつらいものではありますが。
「だ、断腸のっ、思いであるぞっ! 息子よぉぉっ!!」
今生の別れでもあるまいに、人目も構わず噴水のように涙を流して、いい歳した男児を抱きしめることはないと思います、父上。
「私も心細くはございますが、父上の名を汚さぬよう、全身全霊でもって王太子殿下にお仕えして参ります」
「おお、立派なことを申してくれる。子の成長はまこと早いものよのぅ。嬉しくはあるが、いま少し緩やかでも良いものを!」
父上、息が出来ません。本当に永遠の別れになさるおつもりか。
母上も微笑んでおられず、止めて下さい。あなたの夫は子殺しをす
ぐ え っ 。
数年前の旅立ちを思い出し、ダスターンは遠い目をした。
(そういえば、あの日もこうだったな……)
只今現在、状況はほとんど同じ。ただし、今度の抱擁は別れではなく、再会のゆえである。
顧問官の奸計によって追放されていた王太子エンリルが無事に帰還を果たし、その従者であったダスターンも堂々と街道を往来できる身になって間もなくのこと。ダスターンの父、カッシュ総督が病床に臥してしまった。
すっかり弱気になった総督が、死ぬ前にせめて一目我が子に、と、涙でにじんだ手紙を毎日二通も三通も王都に送りつけてくるので、エンリルは苦笑しつつダスターンの任を解き、一時帰郷を許したのだ。
というわけで、父の寝室を見舞ったダスターンは、いつぞやと同じく背骨を痛めつけられるはめになった。誰を恨めば良いのか、そろそろ意識が朦朧としてきて判断がつけられない。
「父上、お元気そうで……」
どうにかダスターンが声を絞り出すと、ようやく父親は腕をほどいた。
「うむ、そなたの顔を見たらにわかに力が湧いてきた! 子は宝とはよく言ったものだ」
「…………」
何から突っ込めばいいのだろう。病気という割にやたらと血色の良いつやつやした顔か、息子の骨を粉々にしかねない膂力か、それとも諺の用法の微妙な誤りか。
結局、ダスターンはため息をつくにとどめた。それもこっそりと。
書状に溢れていた悲愴感の割には総督が元気なので、ダスターンと共にカッシュへやって来たカワードも、寝室まで面会にやって来た。カッシュ生まれの万騎長は、ダスターンの父が総督でなく書記だった頃からの知己だ。
「久しぶりだな、総督殿。特効薬のおかげで病も癒えたようで、何よりだ」
笑ってからかうカワードに、総督も笑顔で握手を交わす。
「カワード殿も壮健で結構なことです。見舞いにかこつけて、遊びに来られたのでしょうが、この屋敷でのもてなしも受けて下さるでしょうな」
「お言葉に甘えよう。しかし今日の所は静養しておられるが良い。どうせ、連れに街を見せてやろうと思っているのでな」
そう言って、カワードはなにやら悪戯っぽい笑みを見せた。その表情からして、“見せてやる”のがどういう場所かは推測がつく。含み笑いをしつつ隠語で話すのが相応しい所――すなわち花柳街だろう。総督はおやおやと苦笑した。
「名高いラウシール様もおいでと伺いましたが、そういうわけでしたら、お目にかかるのは明日にした方が良さそうですな」
「うむ。総督殿も、今日のところは親子水入らずで過ごされるが良かろう」
ではな、とあっさり会見を切り上げ、カワードはにやにや笑いを残して部屋を辞した。残されたダスターンは渋い顔でその背を見送る。その内心を代弁するかのように、
「まったく、平民というやつは」
父親が言ったもので、ダスターンは驚いて振り返った。総督はベッドに腰かけ、微笑を浮かべながらも試すようなまなざしを息子に向けている。
「……そう言いたそうだな?」
ダスターンは戸惑い、視線を落とした。父親が口にしたのは、ここを発つ前の己の口癖であったのだ。それについて、批判がましい説教をされたことはなかった。ただ、“平民”に“卑しい”という修飾を加えた時だけは、取り消すように厳しく言われたが。
今の父親の顔は、その時とも違う。ダスターンはしばし考えてから、慎重に答えた。
「いいえ。以前ならばそう言ったでしょうが、今はただ……」と、そこでため息。「まったく、カワード卿は。と」
息子の返事に、総督は声を立てて笑った。
「そうか。そなたもそれが分かるようになったか」
「エンリル様やオローセス様のお陰です」
それと、認めたくはないがごく最近ふたたび己の慢心を眼前につきつけてくれた、あの青い髪の魔術師の。
「平民とも親しく交わるエンリル様のお供をする内、彼らの中にも様々な者がいると知りました。確かに、総じて彼ら平民はあくまでも“平民”です。我々とは大きく異なっている。しかしその中には、卑しく浅ましい者がいる一方、平民なりに気高い者もいる。人品すぐれた者もいれば、品位の低い者もおり、それは……たとえ万騎長になろうとも変わらぬものだ、と」
やれやれ、と彼はふたたびカワードの去った方を見やった。持って生まれた性質とはなかなか容易に変わらぬものだ。言葉遣いや振る舞いを、王宮に相応しく躾けることは出来ても、中身までは。
総督は優しい微笑をたたえて息子の話を聞いていたが、言葉が切れると、感極まった様子で両腕を広げた。
「ダスターン! 本当に立派になったな、父は嬉しいぞ!」
逃げ損なったダスターンは再び締め上げられ、肺に残った空気をけほっと吐き出した。
「ち、父上……もう私は、一人前の男です。こういう事は」
勘弁して下さい、と切れ切れに訴える。だが、総督は「何を言うか」とそれを一蹴した。
「親から見れば、幾つになっても我が子は我が子。大切な宝だ」
そう言ってようやく腕を緩め、総督はぽんとダスターンの肩を叩く。
「そして、そなたが私の宝であるように、あのカワード卿とて親御殿から見れば、愛しい子であろうよ。平民であれ、貴族であれ、親が子を思う気持ちは同じだ」
「…………」
「そなたがゆくゆくどのような地位に就くかは分からぬが、いずれ人の上に立つであろう。その時に、そなたの下にいる者たちも誰かの宝であると、忘れてはならぬぞ」
思いがけず諭されて、ダスターンはしばらく答えなかった。
カッシュ総督である父は、そのように考えればこそ、市民の命を守ることを最優先したのだろう。だから、逃亡中のエンリルを受け入れず、ただ物資を支援するだけでどこぞへ逃げろと送り出した。あの時、己の父に失望しなかったと言えば嘘になる。
背後に美しい理想があるとしても、行動が美しいとは限らない。逆もまた然り。ダスターンはその現実を前に、自分の気持ちを決めかねた。そして結局、曖昧な返事を口にした。
「……父上は、ラウシール殿と気が合うでしょうね」
微妙な口調に、総督は眉を上げる。ダスターンは首を振ってごまかし、これ以上骨を痛めつけられる前にと、話を切り上げて辞意を述べた。見舞いに来て、自分が寝込むはめになってはたまらない。
部屋を出かけたところで、思い出したように総督が「ああ、そうだ。言い忘れていた」と声をかけた。まだ何か、と振り返ったダスターンに、総督はにっこりと、心のこもった一言を告げた。
「お帰り」
不意に温かな情を見せられ、ダスターンは急に恥ずかしくなって目をそらした。自分が子供に戻ってしまった気がして、返事をためらう。
たっぷり数呼吸の間は悩んでから、ようやくダスターンは苦笑気味に、ごく小さな声で答えた。
「ただいま」
短い言葉は、親子の間に、遠い昔の記憶を呼び覚ました。幼い息子が無邪気に屈託なく、両親に飛びついて甘えていた頃の。
先に我に返ったダスターンは、また父親に感激される前にと大急ぎで部屋から逃げ出し、ほっと息をついて天を仰いだ。
父の言葉を自分で噛み砕き飲み込むには、まだしばらく時間がかかるだろう。けれども今、確かなことがひとつはある。自分が父に愛されているということ、そして自分もまた、父を、家族を、愛しているということだ。
ダスターンは顔を下ろし、ふと笑みを浮かべて、もう一度つぶやいた。
「……ただいま」
大事な宝物をひとり味わうように、そっと。
(終)