五十音掌編「い」
一部と二部の間ぐらい? イスハーク先生の存在意義について。
【医者の憂鬱】
「イスハーク殿はまさに名医だな」
しみじみと褒められて、白髪の医師は皮肉っぽく眉を上げた。
「おだてても苦い薬が甘くはなりませぬぞ、カワード卿」
「子供でもあるまいに、そんなつもりで言うたのではない」
カワードは苦笑で応じ、出された薬湯をおとなしく受け取ると、顔をしかめつつ一気に喉へ流し込んだ。
「うえっ、ぺっぺっ! 毎度ながらひどい味だな。まるで毒ではないか」
「薬は毒にもなるものでございますからな。それに第一」と、イスハークはにやりとした。「薬が美味では、教訓になりますまいが。え、カワード卿? 毎度毎度ひどい味だと仰せられるなら、服まずに済むよう節制なさることですな。暴飲暴食は寿命を縮めまするぞ」
「飲み食いごときで縮む寿命なら、とうに戦で尽きておるわ」
減らず口で応酬し、カワードは底に残った緑の滓を胡散臭げに眺めて、器を机に置いた。
「寿命といえば、イスハーク殿は随分と長寿ではないか?」
「何を仰せられるやら。苦労が絶えぬゆえ老け込んでおりますが、まだ六十の坂を越えてもおりませぬぞ」
「いや、そうではなく……王宮の侍医ともなれば、国王陛下の治療にわずかな手違いがあっただけでも、即刻打ち首だとか、それこそ毒を呷るはめになるというではないか。その点、イスハーク殿は俺が宮仕えを始める前から勤め上げているのだからなぁ」
どこでそんな話を聞いてきたのか、カワードは至って真面目に感心している。イスハークはやれやれと苦笑した。
「神聖帝国の時代にはままあったことと聞きますがの、オローセス様はそのような事をなさるお方ではあらせられん。卿もご存じでしょうが」
「それはそうだが……」
「さよう、確かに大きな過ちを犯すことなく来られたのは、日々の努力もさながら、大層幸運に恵まれたがゆえでしょうがな。何しろ、ラウシール殿に教わるまで、知らずに間違った治療法を用いていた事もありましたからのう」
考え深げに言って、イスハークは無意識に髭を引っ張った。
ラウシールが魔術のみならず医術の心得もあると知った時は、いわく言い難い衝撃を受けたものだ。余人に真似の出来ぬ魔術の業で、傷つき病んだ人々を癒すというだけならば、何ら動揺もしなかったろう。
だが、彼の人は医者でもあったのだ。身体のことも薬草のことも、衛生のことも。すべて、何十年も倦まず研鑽を続けてきた己より、詳しく正確な知識を有していた。そのくせ、「見習い程度ですから」などと恥ずかしそうに言い訳して、こそこそとイスハークの後ろに隠れようとする。
屈辱を感じなかった、と言えば嘘になる。カゼスに絡んだり、意固地になって対抗したりしなかったのは、ひとえに年の功だろう。それに、カゼスの態度が慎重かつ公正―― 自分の知識が必ずしもこの国で通用するとは限らない、という―― であったがゆえに、冷静に、同じく医療に携わる者として相対できた。
(それにしても、この歳で他人に教えを請うのはちときつかったのぉ)
いつの間にか肥大していた自負と自尊心に気付かされたのは、ためになったと言えるが、しかしもう一度同じ経験をするのは勘弁してもらいたい気分だ。
「……まぁ、そろそろ私も引退でしょうがの」
だからもう、そんな苦労をすることもあるまい。
そう考えて独りごちたのだが、途端にカワードが慌てた。
「そ、それは困る。イスハーク殿の薬は大層よく効くのだ、まだまだ王宮に居て貰わねば」
お世辞で慰留するのではない、本心からの言葉だろう。イスハークは気を取り直し、笑みを隠してわざと厳しい顔を作った。
「ですから、さきほども申し上げましたでしょう。苦い薬を服まずに済むよう節制なされ、と。それが何より一番の薬ですぞ」
「そんな細かいことを気にしていたら、かえって病んでしまうではないか。イスハーク殿まで、カゼスやアーロンのように小姑じみたことを言わんでくれ」
「…………」
何とまあ。この男は、仮にも王宮侍医を、黙ってホイと薬を処方してくれる便利な町医者と同列扱いしていたのか。
呆れて言葉も出てこず、イスハークは深いため息をついた。
と、そこへ、カゼスがひょっこり顔を出した。
「イスハーク殿。少し時間が空いたんですが、何か手伝えることがありますか?」
いつものように、決して主導権を取らず、イスハークの指示を待つ。イスハークは黙ってカゼスを見つめ、それからカワードを見やり、改めて向き直ると……おもむろに、言った。
「ラウシール殿。馬鹿につける薬をご存じありませんかな」
「…………えっと……」
カゼスは目をしばたたき、怪訝そうな顔のカワードを一瞥した。直後、自分のことと気付いたカワードが抗議しようと口を開きかける。イスハークはそれをぎろりと睨みつけて黙らせた。
「何度ご忠告申し上げても、聞き入れて下さらぬ患者がいらっしゃりますのでな」
苦い口調で重々しく言ったイスハークに、カゼスは笑うことも出来ず、曖昧に「はぁ」とうなずく。
「さすがにそれは、私も知りませんねぇ。死んだら治るって諺はありますけど」
「ほう、さようですか。ちょうどこの部屋には毒も山ほどござりますが、さてどれが適したものでしょうかの」
冗談にしてはあまりにも暗い医師の声。カワードは大汗をかいて立ち上がり、
「いっ、イスハーク殿! もうすっかり良くなり申した! 御免!」
早口にまくし立てるや、カゼスを押しのけて転がるように逃げて行った。
イスハークは鼻を鳴らすと、「まったく、処置なしとは正にこの事ですな」とぼやく。カゼスは苦笑をこぼしたものの、何も言わない。その笑みを眺め、イスハークはつられたように頬を緩めた。
「やれやれ。しかし、馬鹿にはこの薬ですよ、などと言われなくてほっとしましたわい」
「そんな薬があったら、私が欲しいです」
カゼスは自分で言って笑い、それから頭を抱えて落ち込んだ。
(……なるほど)
うっかり納得してしまったイスハークだが、そこは年の功、おくびにも出さず「ラウシール殿には必要ありませんじゃろ」などと言ってのける。そうして、己が優る点にひとつ気付いた。
(ラウシール殿では、これは出来なさらんじゃろうのぉ)
患者に嘘をつく、という技。こればかりは、医者としての年月を積み重ねてきたイスハークに、もとより演技下手のカゼスが敵うものではない。
医者の価値は、知識や技術だけにあるのではない。
そのことを思い出し、イスハークは一人そっと笑みをこぼしたのだった。
(終)