影との邂逅
※2017年12月22日の作者誕生日に読者様へのふるまいSSとして書いたもの。
三部作すべて読まれて最後どうなったか、ご記憶の方でないと意味不明です。
今日はわたしの誕生日だ。早めに仕事を切り上げられるように前から段取りしておいたし、帰りに予約しておいたケーキを受け取ったら、夕食は好物を揃えたご馳走が待っている。
心も足取りも軽やかに、青い髪の魔術師長は廊下を歩く。師長室のドアが見えてきたところで、すれ違った女性が「あ、師長」と声をかけた。
「お客様がいらっしゃったみたいですよ」
「はい?」
カゼスはたたらを踏み、目をぱちくりさせながら振り返った。来客の予定はない。というか、みたい、とはどういうことだ。客を案内したとか目撃したとかいう話ではないのか。
怪訝な彼の視線を受けて、答えるほうもなぜかおぼつかない表情になった。
「えっと……たぶん、お客様、だと……あれ?」
首を傾げられても、いや訊きたいのはこちらなんだが、と不審が増すばかり。
まあいいや、すぐにわかることだ。カゼスは「どうも」とだけ会釈してその場をやり過ごし、根城のドアに手をかけた。
カチリとロックが外れて隙間が開く。一拍遅れてカゼスは違和感を抱いた。
客? でも、ここはロックされている。師長不在の間は自動で施錠され、入室権限をもつ事務管理官だとか他部署の上位役職者とか、限られた者しか入れない。そしてそういう人たちは、何の連絡もなくいきなりやってきて勝手に入室して待っている、などという不作法はしない――
では、そこにいるのは何者なのか。
カゼスは室内に佇む人影を視界に捉え、用心深くそっとドアをくぐり、後ろ手に閉めた。
何かおかしい。室内に異状があると感じられ、狭い空間にそれをとどめるべきだと直感したのだ。それでいて、不思議と危険だとは思わなかった。
「……どなたですか」
そっと声をかけると、その『客』は、ごく自然な動作で振り返った。自分がそこにいることに何の不思議もなく、当たり前に、むしろ親しみさえこめて。しかしそれが『誰』なのか、正面から向き合ってもまだカゼスには把握できなかった。
《やあ、久しぶり》
なにげない挨拶は確かに声として聞こえるのに、同時にひどくあやふやで、捉えた瞬間には夢だったかのように薄れる。まるで、耳から入った声が脳に届く前に蒸発したかのように。
見た目も同じだ。そこに人がいる、誰か……知っている気がする誰かを確かに見ている、にもかかわらず認識できない。性別も年齢もわからない。白っぽい服は、実験用の白衣だろうか。
《今日は君の誕生日だろう? 約束のケーキを持ってきたよ》
客が微笑み、手に持った小箱を、ほら、と掲げて見せた。
刹那、カゼスの脳裏にひとつの記憶が閃く。
時の調整力によって狭間に消えた、もうひとつの時間線。その記憶。今のわたしの人生ではない、かつて私の人生だった経験。
細く震える息を吐き出し、瞼をそっと下ろすと、少しだけ、消え去った時間の記憶が鮮明になった。
かつて私は、ラウシールが既に絶滅した世界で生まれ育った。わたしも同じく実験室生まれで養育家庭の環境には恵まれなかったが、私はもっと酷かった。
私は幼い頃、誕生日は祝うものだと知らなかった。年齢を数える基準であるというだけだった。そうではないと教えてくれたのが……この人。
定期検診という名目のデータ記録に通わされていた病院で、何度か顔を合わせたスタッフだった。
「あれ、今日は誕生日か。えーっと」
何かなかったかな、とポケットや引き出しを探り、飴だかスナックだか、小さなものを私にくれた。おめでとう、と一言添えて。
それまでずっと、私に接する人間は誰も彼も、親しみらしきものを見せなかった。警戒。冷徹な観察。うっすらとした嫌悪。
その時、あの人だけが、ほんの少し歩み寄ったのだ。
来年はケーキを用意しておくよ。
そう言った表情は、やはりぎこちなかったけれど、今までなかった温もりを感じさせてくれた。
(そう。あの日、私が殺したうちの一人だ)
カゼスは熱くなった瞼を手で覆った。自分のものであり自分のものでない悔悟と痛苦がこみ上げ、涙が頬を伝う。
記憶は霧の向こうに隠れて曖昧だ。否、それを記憶と呼んで良いものかどうか。もはや事実としては存在しない、あり得た可能性のひとつ、生じかけて実現しなかった時の影にすぎない。
濡れた目を開いてみると、まだ『客』は立っていた。ケーキの箱を持ち上げたまま、途方に暮れている。顔も何も判然としないのに、そうだとわかる。
《迷惑だったかな》
困った声音。実現しないはずの対面、交わされるはずのない会話が、なぜか今ここでだけ成立している、その理由はどうでも良かった。そんなことより、どうしても言いたいことがある。
カゼスは首を振った。ぎりぎりで嗚咽を堪え、言葉を絞り出す。
「ごめんなさい」
《……?》
小首を傾げた人影の前で、カゼスは涙をぽろぽろこぼしながら続けた。
「生まれてきてごめんなさい」
相手が身をこわばらせる。顔は認識できないが、恐らくかなり歪んだろう。そこへ向けて、カゼスは精いっぱい笑みをつくって見せた。
「でも、生み出してくれて、ありがとう」
口にした瞬間、何かが身体から抜け落ちたのがわかった。まるでいきなり重力が消えたように感じられ、カゼスは自身の変化に戸惑った。
《……ああ、良かった》
不確かだった存在がさらに薄れつつ、明らかな安堵の息をつく。
これは置いていくよ。
その言葉はほとんど聞き取れなかったが、客人が満ち足りて嬉しそうだというのは伝わった。
――はたと我に返ると、師長室にはカゼスだけがぽつねんと突っ立っていた。
頬はまだ濡れていたが涙は既に止まり、もうひとつの人生は気配も残さず遠ざかっている。ただ、応接セットのテーブルに積み上げられた本やファイルのてっぺんに、白い小箱だけがちょこんと載っていた。
「……」
カゼスは複雑な気分で歩み寄り、そっと手を触れる。まだ消える様子はない。蓋を開けると、素朴なチーズケーキが二切れ入っていた。
一緒に食べるつもりだったのだろう。その証拠に、一切れだけが淡く光を帯びたかと思うと、薄れて消えた。
残ったのは、今この世界に在るカゼスに結びつけられた片方だけ。
「これ、食べられるのかな?」
おなか壊さないかな、っていうか食べた瞬間消えたら悲しいよなぁ、などとつぶやきながら、しげしげとケーキを見つめる。
「一切れだけとか、持って帰ってもどう説明すればいいか……うん、内緒で食べちゃおう」
独りごちながらその場で手に取りかけ、さすがに駄目かと考え直して仕事机に持っていく。書類を左右の山に避難させて箱を置くと、フォークやら紅茶やらを用意して、おもむろに手を合わせた。
「ありがとう」
もう一度、小さな声で礼を言う。
どこか遠くで、誰かがほほえむのがわかった。
(終)




