五十音掌編「あ」「か」 ◇
自サイト企画で書いた掌編集から。二部か三部のどこか平和な幕間。
五十音順にタイトルとメイン人物を選んで書いていたブツ。
【アのつく名前】
「アーロン」
ふと名を呼ばれ、アーロンは本を読む手を止めて顔を上げた。見るとカゼスが、なにやら考える風情で呟きながら指折り数えている。
「アー……ザート、アスラー殿、アルデュス卿……」
「……何を数えている?」
アーロンが訝ると、カゼスはハッと我に返って目をしばたいた。
「あ、すみません、読書のお邪魔でしたね」
「いや、構わぬが」
もとより耽読していたわけではない。ただ相手のそばにいる静かな時間を楽しむ方が目的なので、書物は口実というか手遊びというか、その程度に過ぎないのだ。
「何を考えていたのだ?」
アーロンが書物を閉じて話をする姿勢になったので、カゼスは慌てて「大した事じゃないんですけど」と言い訳してから続けた。
「『あ』で始まる名前って、多いなぁと思って。私の故郷でも、辞書では『あ』の音が最初で、単語の量もすごく多いものですから。なんだか面白いな、と思ったんです」
「あぁ」無意識に相槌を打ち、アーロンは苦笑した。「確かにな。基本的な母音だからだろう」
「一番自然に出て来ますよね。あ、って。広がりがあって、始まりの力が感じられる音」
「面白い捉え方をするのだな」
興味深げにアーロンが言う。カゼスは「そうですか?」と小首を傾げてから、一人で納得してうなずいた。
「こっちの人はあまり音霊とか言霊とか、取り立てて意識しないのかもしれませんね。日常に密着した感覚になってるから。……アーロン、って名前も良いですよね」
唐突に名前を褒められて、その当人は戸惑った顔をした。
「そうか?」
「あれ、嫌いですか?」
「……特に何とも考えた事はないが」
「良いと思いますけど」カゼスはにっこり笑った。「発音しやすいし、響きが明るくて穏やかでまとまりも良くて。何より覚えやすいし」
言葉尻でカゼスがおどけたので、アーロンもつられて失笑した。
「そうだな。滅多に間違われる事はない。しかし……」
だからこの名が好きだ、とも言えないが。そう思ったのを口に出しかけ、ふと言葉を途切らせる。しばしの沈黙に、横からカゼスが不思議そうに呼びかけた。
「アーロン?」
その単語の響きを、初めて聞くもののように味わってみる。ああそうだ、悪くない。このようにして呼ばれる己の名は。
「いや……なんでもない」
穏やかに微笑んで応じたアーロンに、カゼスは目をしばたたかせ、首を傾げる。アーロンはわざとはぐらかすように曖昧な態度で会話を打ち切り、書物を開いた。案の定、カゼスが遠慮がちながらも食い下がってくる。
「何を一人で納得してるんですか。あの……もしもし? だから、何がそんなにおかしいんですかっ、気になるじゃないですかー! 私、何か変な事言いました? ねえ、アーロン!」
ゆさゆさ。袖をつかんで揺さぶられ、アーロンは堪えきれなくなって笑い出す。その理由をまるで想像出来ないカゼスは、何なんですか一体、と半泣きになっている。
さすがにからかい過ぎたか、とアーロンは笑いをおさめ、カゼスの頭をくしゃりと撫でた。
「大した事ではない。己の名も、呼ばれ方によって響きが違うものだと思っただけだ」
そう説明しても、動揺をひきずっているカゼスは、すぐには得心がいかない。そこでアーロンは相手の耳元に口を寄せ、そっと小さく名を呼んでやった。
しばし後、茶を用意したフィオが部屋に戻ってきた時には、頭を床につけんばかりにして笑い崩れている万騎長と、壁を向いて赤い顔で膨れている『偉大なる青き魔術師』の姿があったとか……。
【火事場泥棒】
「顔から火が出る、って表現がありますけど」
「恥ずかしくて?」
「ええ。最近ようやく、身をもってその心境を理解しましたよ」
カゼスはため息まじりに非難めかして言ったが、その頬はまだ桜色だ。フィオが置いて行ってくれた紅茶を飲んで表情をごまかしているが、もしかしたらほんわり漂う湯気は、顔から出ているのかも知れない。
アーロンはなんとか笑いをおさめ、伸ばしかけた手を下ろして、自分も茶碗を取った。ここで頬に触れなどしたら、顔面火災になるのは目に見えている。
「今まで羞恥に身を捩る思いをした事がなかったわけか。幸運なことだ」
わざとからかい口調で言うと、案の定、カゼスは渋面になった。茶碗を置き、「そういう……」と、何事か言い返そうとする。だが不意に言葉が途切れ、カゼスは目を伏せて黙り込んだ。
しまった、失言だったか、とアーロンも笑みを消す。だがカゼスはそれに気付かぬ風情で、小首を傾げつつ淡々と応じた。
「……そうですね。恥をかいた事なら何度もありますけど、本当にどうしようもない恥ずかしさっていうのは、なかった気がします」
過去の出来事を、ひとつまたひとつと拾い上げるように、訥々とつぶやく。
「人前で失敗して逃げ出したくなったとか、からかわれて身の置き所がなかったとか、屈辱で真っ赤になったりとか……そういう、悔しさとか怒りに転じる恥ずかしさは、ありましたけど。でも」
そこまで言って、カゼスは口をつぐんだ。
(でも……今は違う。こんな風に恥ずかしいのは、そういう負の感情がなくて、ただ嬉し――)
ごく自然な思考の流れではあったが、そこで我に返ってしまったのがまずかった。
(って、何考えてるんだ私はー!!)
見る間に顔に血が上り、桜色を通り越して夕焼け空になる。アーロンが驚いたように目をぱちくりさせ、次いで堪えきれずにくすくす笑い出した。
「『でも』、何だ?」
意地悪く続きを促され、カゼスは耳まで真っ赤になってぶんぶん首を振った。
「なんでもありませんッ!」
「何か言いかけたではないか」
「だから、なんでもありませんってば!!」
むきになればなるほど、ますます顔面火災が勢いを増す。一人で赤くなっている事がさらに恥ずかしく、カゼスはしまいにどうしようもなくなって、両手で顔を覆ってしまった。
幸いアーロンは追い討ちをかけず、黙って鎮火を待っていてくれたので、しばらくしてカゼスはどうにか気を静め、ほっと息をついて顔を上げた。――と。
「……!」
絶妙のタイミングをとらえ、アーロンが軽く唇を触れ合わせた。カゼスは目を丸く見開き、絶句したまま再び赤面する。アーロンはそっとカゼスの頬に触れると、珍しくおどけた笑みを浮かべた。
「これも火事場泥棒になるのかな」
「………………」
もちろんカゼスには、何と応じる余裕もない。アーロンは自分も照れくさいのをごまかすように、ふわりとカゼスを抱き寄せたのだった。
(終)